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私が嫁いだ佐々川家は、代々、地主として知られる一族だった。祖父の代から遊休地や農地を巧みに活用し、アパート、マンション、店舗、倉庫を次々と建てて賃貸事業を拡大した。いわゆる「ランドオーナー」──今や佐々川財閥と呼ばれるほどの資産を築き上げている。
拓也の祖父、佐々川泰造はその当主だ。80歳を過ぎても背筋はピンと伸び、眼光は鋭く、土地の価値を見抜く目は今も健在。
泰造は孫娘の麻里奈を何より溺愛していた。子供の頃から「麻里奈はワシの宝だ」と公言してはばからず、誕生日には毎年高価な宝石を贈り、留学費用も惜しまず出した。
彼女が少しでも体調を崩せば、泰造は即座に「病院へ連れてけ」と拓也に命じ、拓也は幼い頃から妹の影に縛られてきた。私は結婚当初、泰造から「拓也の嫁として立派に務めろ」と厳しく言われながらも、麻里奈への異常な愛情に違和感を覚えていた。泰造は孫娘の前では優しく笑うが、拓也には「麻里奈を守れ。それがお前の役目だ」と冷たく言い放つ。
◇◇◇
テーブルの上でスマートフォンが、小刻みに震える。発信者は義理の祖父、佐々川泰造。泰造は私に冷たく命じた。
「瑞穂、今すぐ屋敷へ来い。話がある」
私は通話ボタンを押すと、鏡の前に立った。シンプルな白いシャツに黒いタイトスカート。髪は後ろで1つにまとめ、化粧は薄く、清楚な嫁を演じるための装いだ。咲き誇る薔薇のような麻里奈とは正反対──地味で、控えめで、目立たない存在。それが、泰造の好む「嫁」の姿だった。
佐々川家の屋敷は、都心から離れた丘の上にあった。広大な庭園に囲まれ、古い石造りの門が重く開く。車を降りると、執事が無表情で迎え、応接間に通された。泰造は革張りの椅子に座り、杖を膝に置いていた。土地の価値を見抜く目は私を値踏みするように刺す。
「離婚届にサインを拒むとは、何のつもりだ」
声は低く、怒りが抑えきれていない。私は深く頭を下げた。
「申し訳ありません。お祖父様の仰る通り、子供を授かれなかった私が悪いのです。でも……」
言葉を飲み込む。泰造は杖で床を叩いた。
「子のいない女に、財産分与など必要ない。今日中にサインして出て行け」
私はゆっくりと顔を上げた。
「麻里奈さんは、お祖父様の宝物なのですね」
泰造の目が細まる。
「当たり前だ。あの子はワシのすべてだ」
私は静かに息を吐いた。
「拓也さんに……自由はないのですか?」
泰造の顔が一瞬、歪んだ。怒りか、驚きか。
「ふん、自由など必要ない。お前のような女に縛られるより、麻里奈を守るのが拓也の幸せだ」
私はバッグから離婚届を取り出し、テーブルに置いた。私の欄は、まだ空白のまま。
「拓也さんが離婚の理由を教えてくれるまで、サインはしません」
泰造は杖を握りしめ、沈黙した。私は静かに頭を下げ、離婚届をバッグに入れた。私の指先には、サファイアの青が残っている。
◇◇◇
私はその足で不動産会社に出向いた。
部長直々が出迎え、応接室に通された。秘書がティーカップをテーブルに置く。アールグレイの爽やかな渋みが部屋を満たした。私はバッグから書類の束を取り出し、テーブルの中央に置いた。
「佐々川様、本日はどういったご用件でしょうか?」
部長の声は丁寧だが、どこか警戒している。佐々川財閥の名は、この業界でも重い。
「マンションの権利書と預貯金の引き出し、株の売却をすべて完了させました。夫の名義のものは、すべて処分済みです」
部長の眉がわずかに上がる。
「それは……離婚協議中の資産処分ということでしょうか?」
「離婚は成立していません。でも、マンションは今月末で退去します。権利書に赤い印鑑が押されているのは、夫の意思です」
私はティーカップに口をつけ、渋みを味わった。
「今後、私名義で新しく物件を探したいんです。賃貸ではなく、購入を検討しています。Lueurの近くで、工房としても使えるような……」
「購入……ですか?」
「ええ、買うわ」
部長は訝しげな顔をしたが、預金通帳の額が全てを物語っていた。彼はすぐに資料を広げ、複数の物件を提示した。
「ご予算とご希望のエリアをお聞かせいただけますか?」
私は微笑んだ。指先でサファイアのリングを回す。
「予算は……佐々川の株を売った分と、預貯金。すべて」
部長の目が少し見開く。私は静かに続けた。
「新しい家は、私の光が満ちる場所にしたいんです。傷ついた絆が、再び輝くような」
アールグレイの香りが、優しく部屋を包む。私は新しい住所を探すリストに目を落とした。
「内見は可能ですか?」
「もちろんです。明日午後、空きがあります」
私はティーカップを置いた。アールグレイの香りが、ほのかに残る。私はこの街から離れる。拓也の影も、泰造の怒りも、麻里奈の甘い香りも、もう届かない場所で。私の永遠を描き続ける。