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私は不動産会社部長の車で、まずLueurから徒歩10分のマンションへ向かった。
「ここ、いいですね」
私は窓辺に立ち、深呼吸した。新しいフローリングの匂いがする。傷ついた絆の記憶が、ここでは薄れていく気がした。築20年リノベーション済みの戸建て風マンション。1階部分がアトリエスペースで、小さな中庭付き。庭はコンクリートではなく土で、芝生の匂いがした。室内は白基調で、梁が見える天井が高く、開放感がある。作業机を置けば、ルーペの光が優しく入る。中庭で風を感じながら、私はサファイアのリングを指で回した。
「ここに決めます」
部長が微笑んだ。
「ご希望通り、プライベートで静かな場所ですね。購入手続きを進めましょうか」
私は頷いた。鍵を受け取り、中庭に一歩踏み出した。土の感触が足裏に伝わる。あたたかい。私は大きく息を吸い、青空を仰いだ。
◇◇◇
翌日、拓也が血相を変え、眉を釣り上げてマホガニーのテーブルを叩いた。ワインの瓶が激しく揺れ、深紅の液体がグラスの縁で波打つ。
「どうして勝手に株を売却した!」
私はルーペを外し、ゆっくりと顔を上げた。徹夜の疲れが残る目で、彼をまっすぐ見据える。
「あの株は私名義のものだわ。売却しようがどうしようが、私の自由でしょう?」
拓也の息が荒くなる。拳がテーブルに残った赤い跡を押さえ、声が低く震えた。
「お前……じいさんに何を吹き込んだんだ」
「あなたに自由はないの?って聞いただけよ?」
「……自由」
「そうよ」
「……俺に……自由なんて」
私は静かに立ち上がり、バッグから新しいマンションの権利書を取り出した。白い紙に黒いインクで私の名前が記され、赤い印鑑が押されている。
「これを見て」
権利書を拓也の鼻先でちらつかせた。新しい住所、Lueurから徒歩圏内の2LDK。ワークスペース付き、南向きバルコニー。
「出て行くのか」
拓也の声が掠れた。怒りより、どこか呆然とした響きがあった。
「あなたが出てゆけといったでしょう?」
私は淡々と答えた。言葉に棘はない。ただ、事実だけ。
「今月末で退去する。マンションの権利書はもう、あなたのものじゃない。株も預貯金も、すべて処分した」
拓也はテーブルに手をつき、肩を落とした。ワインの赤が、床に一滴零れ落ちる。私は権利書をバッグに戻し、ルーペを再び手に取った。サファイアが、静かに青く輝く。
「新しい家は、私の光が満ちる場所にするわ。傷が光になるような」
拓也は言葉を失い、ただ私を見つめていた。マホガニーのテーブルに、ワインの染みが広がる。
◇◇◇
引っ越し当日、私は朝6時に目覚め、マホガニーのテーブルに最後のワイングラスを置いた。赤い染みが残るテーブルを、静かに拭き取る。
拓也の荷物はすでに運び出されていた。
私のものは最小限──マホガニーの作業机、服、ジュエリーの工具、デザイン資料、そしてサファイアのリングケースだけ。離婚届は、まだ私のバッグの中に。サインする日が来るまで、手放さない。
私はリビングを振り返った。空っぽになった空間が、5年間の記憶を淡く映している。冷めたフレンチトーストの匂いはもう消え、代わりに段ボールの紙の匂いが漂う。荷物をトラックに積み込み、最後にリングケースをバッグにしまった。新しいマンションの鍵を握りしめ、玄関のドアを閉めた。
カチリと鍵がかかる音が、静かに響いた。
引っ越しは終わった。
私は洗面所の鏡の前に立ち、ゆっくりと髪を梳かす。指先が止まる。かつて拓也に「綺麗だ」と言われたその髪は、今はただの自分の一部でしかない。
鏡の中の自分を見つめ、静かに息を吐く。――あの頃の私は、傷つかないように、歪まないように、必死で丸く削られていた。でも今は違う。この傷は、もう隠さない。研磨されて、欠けても、光を返すようになった。
「サファイアだって、最初はただの石だったんだから」
私は小さく微笑む。それは笑みではなく、確信だった。鏡に映る瞳は、以前より深く、冷たく、そして確かに輝いている。この輝きは、もう誰かのためじゃない。私のために。
私は新しい部屋の窓辺に立ち、青空を仰いだ。サファイアの青が、心の中で静かに広がっていく。この青を、棘のように残るすべてに刺し通す。