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#夢
凪川 彩絵
ポーン、と軽い音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。
下のフロアとは明らかに一線を画す、静謐な空気。
足を踏み出した途端、厚みのある絨毯が靴底の音を吸い込む。
外界の喧騒が遠ざかり、耳に届くのは自分の呼吸音だけだった。
張り詰めた沈黙が、役員フロア特有の威厳となって肌にまとわりつく。
ここは、自分のような課長職が用もなく踏み込んでいい領域ではない。
だが――まったく馴染みがないわけでもなかった。
視界の奥に伸びる廊下は、嬉しくないが結構見慣れている。呼ばれるたびに歩かされてきた場所だからだ。
――もっとも。
つい先日は、自分の意思でここを歩いた。
(まだ分かってくれてねぇのか……)
あの時にも、……もっと言えばついさっきだって……結構ハッキリ自分の意志は伝えたはずなのに――。
歩きながら自然と溜め息がこぼれたのは許して欲しい。
***
重厚な扉の前には、先ほど電話してきた男――秘書の山根誇紘が立っていた。
晴永を認めて頭を下げる山根に、晴永はネクタイを整えて気を引き締める。
「おはようございます、新沼課長。――副社長が中でお待ちです」
山根は静かに扉へ向き直ると、軽く、だが確かなリズムでノックを三度響かせた。
「山根です。新沼課長がいらっしゃいました」
間を置かず、内側から声が返る。
「どうぞ」
山根が一礼し、扉を開けたまま身を引く。
晴永は一瞬だけ視線を伏せ、それから中へと足を踏み入れた。
室内は、先日訪れたときと変わらない。
部屋の主の性格を表したように、乱れも無駄も一切ない。
整えられたデスク。
必要最低限の調度。
窓際のブラインド越しに差し込む、抑えられた光。
そして――その中央に座る人物も、無駄のない佇まいでそこにいた。
「……私より先に屋敷を出たはずなのに、遅かったわね」
「自宅へ一旦戻りましたので」
「そう……」
顔を上げたのは、新沼清香。
つい先ほど本宅で別れたばかりの、晴永の母だった。
だが、ここでは――。
「副社長。お呼びだと伺いましたが、用件はなんでしょうか?」
晴永としては、言いたいことはすでに伝えている。
これ以上の会話に意味はない。それよりも、社内の動きを把握し、瑠璃香への対応を考えるべきだった。
「随分不愛想な物言いをするのね、晴永」
「角宮副社長、今は業務時間内です。役職名でお呼び頂けますか?」
時計はすでに始業時刻を回っている。
わずかな沈黙。
清香の指先が、机の上で静かに止まる。
母――新沼清香は、社内では旧姓の角宮で通していた。
(……気づいていなかったはずがない)
父を苦しめたその選択を、彼女は変えなかった。
情は抜きに、会社にとって何が一番か……で動く。
それが、この人――新沼清香だった。
***
「……それで?」
清香が静かに口を開いた。
「あなたはどこまで考えているのかしら」
試すような声音。
晴永は一瞬だけ目を細め、それから答える。
「考えている、ではありません。――もう、決めています」
清香の指先がわずかに止まる。
コメント
1件
親子なのに壁がある会話だなぁ😢