テラーノベル
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プロローグ
「おまえは……俺?」
吾妻勇信(あづまゆうしん)の声が、金網の中で震えた。
目の前の男が、こちらを見ている。
同じ目で。
同じ口で。
同じ呼吸で。
違っていたのは、男が何ひとつ身につけていないことだけだった。
「俺は……勇信」
男は、当然のように言った。
勇信と同じ声で。
第1話 ふたりの勇信
「もっと近くに……あの月に触れるほど近くに」
吾妻勇太は、断崖の先に浮かぶ月を見上げた。
それから突然、走り出した。
崖の手前で強く大地を蹴り、そのまま空に向かって跳んだ。
右手を高く伸ばした勇太は、夢にまで見た月を、その手でつかんだように見えた。
次の瞬間、その体は断崖の下に消えた。
数秒後――はるか下の海面に叩きつけられ、吾妻勇太は死んだ。
*
「勇太は、断崖から海に転落し、死亡したものと判断された」
警察庁長官・菊田盛一郎は、静かな声でそう告げた。
吾妻勇信は、しばらく言葉を返せなかった。
声は聞こえている。しかし、その意味がうまく頭に入ってこない。
「兄さんが……どうして」
声にした瞬間、現実が形を持った。
兄が死んだ――。
吾妻勇太。
33歳の若さで吾妻グループの総帥を務め、勇信にとっては誰よりも優しい兄だった。
「我々も全力で調べた。現場周辺の捜索、防犯カメラの確認、関係者への聞き取り、通信履歴の解析まで、できる限りのことはした。しかし事件性を示すものは見つからなかった」
「そんなはずがありません」
勇信の声が強く響いた。
「兄さんが、なぜあんな人里離れた場所に行くんですか。ビスタの建設現場から断崖までは、10キロ以上離れています。ショッピングモールの視察に行った人間が、ひとりでそんな場所に向かう理由がありません」
「それは私も引っかかっている」
「なら、もう一度調べてください」
「非公式の追加確認は、すでに手配している」
菊田の声は慎重だった。
しかし、それは勇信が求めている答えではなかった。
「公式捜査としては、これ以上大きく動かせない。現場の状況、残されていた所持品。第三者が関与した痕跡も、事故につながる状況も見つからなかった。それらを総合すると、自ら飛び降りた可能性が最も高い」
「遺体は」
「完全な形では、発見されていない」
それ以上、聞く必要はなかった。
勇信は両手を膝の上で握りしめた。
爪が手のひらに食い込んだ。痛みはあった。しかしそれ以上に、胸の奥が冷たかった。
勇太が最後に向かったのは、静岡県しそね町だった。
吾妻グループが複合商業施設・ビスタの建設を進めている町だ。
視察のために勇太が東京を離れたのは、3週間前だった。
その夜から連絡が途絶えた。
普段と変わらない笑みを浮かべて出た兄は、二度と戻らなかった。
「兄さんが自殺なんて……あり得ない」
「私も、勇太が自ら命を絶つような人間ではないことは知っている」
「それなら……」
「事件だと断定できる証拠がない」
菊田の言葉は、刃物のように短かった。
勇信は顔を上げた。
目の前にいる男は父の旧友であり、幼い頃から自分たち兄弟を知る人物だった。だからこそ、怒りをぶつけることも、すがることもできた。
「盛一郎おじさんなら、わかるはずです。兄さんは、こんな死に方をする人じゃありません」
「……すまない」
謝罪の言葉が、部屋の空気をさらに重くした。
勇信は、もう何も言えなかった。
テーブルの上に、冷めた茶が置かれていた。
湯気の消えた茶を見つめているうちに、兄の顔が浮かんだ。
――勇信、何かあったら俺に言え。
兄はいつも、そう言って笑っていた。
その兄は、もういない。
菊田が立ち上がり、勇信の肩に手を置いた。
「勇信。今は心を落ち着かせるんだ。君まで倒れたら、吾妻グループも家族も支えを失う。今は、残された者のそばにいてやれ。勇太はもう、この世にはいないんだ」
勇太はもう、この世にはいない。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
「私は信じません」
勇信はゆっくりと立ち上がった。
「独自にでも調べます。必ず、兄さんに何があったのか突き止めます」
そう言い残し、勇信は菊田家を出た。
*
「勇信様、お車に」
運転手が後部座席のドアを開けた。
「……少し歩きたい」
「ですが」
「いい。ひとりにしてくれ」
運転手はそれ以上何も言わず、頭を下げた。
夜風はなまぬるかった。
東京の空気は重く、遠くから車の音が絶え間なく聞こえていた。
勇信は歩きながら、拳を握った。
「俺はこれから、どうやって生きていけばいい……」
兄さんがいたから、吾妻グループは回っていた。
兄さんがいたから、家族も社員も取引先も、安心していられた。
その兄が、いない。
吾妻グループという巨大な企業体が、突然、自分の肩にのしかかってくる。
すべてが一斉に、こちらを見ているような気がした。
怖い。
その言葉だけは、誰にも吐くわけにはいかなかった。
それだけは、わかっている。
勇信は足を止めた。
街灯の光が、靴の先を白く照らしていた。
怖い……。
口に出せば崩れてしまいそうで、勇信は奥歯を噛みしめた。
*
左ジャブ。
右ストレート。
左フック。
右ローキック。
ガードを高く上げ、ジャブから右のミドルキックにつないだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
すべての力をサンドバッグに叩き込むと、勇信はその場に膝をついた。
自宅の敷地内に設置された専用ジム。
サンドバッグが揺れる音だけが響いていた。
吾妻家の敷地内にありながら、限られた人間しか存在を知らない、勇信専用の施設だった。
顎から雫が落ちた。
汗なのか涙なのか、もう自分でもわからなかった。
勇信は立ち上がった。
恐怖と悲しみを消したかった。
兄の声も、兄の笑顔も、菊田の言葉も、全部まとめて体の外に叩き出したかった。
もう一度サンドバッグに向かった。
腕は重く、呼吸も乱れている。それでも止められなかった。
やがて勇信はサンドバッグから離れ、ジムの奥に向かった。
金網に囲まれた八角形のケージ。
吾妻グループが運営する総合格闘技団体、マーシャルFCの公式サイズと同じオクタゴンだった。
勇信はケージの扉を開け、中に入った。
マットの中央に立ち、両拳を上げる。
見えない相手を前に、体を動かした。
左ジャブ。
右ストレート。
左フック。
右ローキック。
体が勝手に型をなぞっていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
そのときだった。
ケージの向こう側でマットがかすかに鳴った。
――誰だ。
勇信は動きを止めた。
いつからそこにいたのか、薄暗い金網際に男が立っていた。
照明が届かず、顔も服装もよく見えない。
男は無言のまま両拳を上げ、こちらに距離を詰めてきた。
次の瞬間、左ジャブが飛んできた。
ゴッ……!
勇信はとっさに腕を上げ、ガードした。
拳の重さが腕の骨まで響いた。
誰だ……。
この施設に、許可なく入れる人間などいるはずがない。
「誰だと聞いている!」
勇信が声を荒らげた。
「誰だと聞いている!」
男も、まったく同じ声で叫んだ。
!?
一瞬、勇信の背筋が冷えた。
しかし考えるより先に、体が動いていた。
踏み込み、右ストレートを放つ。
男は見切ったように上体を引いた。
勇信は間を置かず、右のミドルキックにつないだ。
ドゴッ!
確かな手応えがあった。
足の甲が、男の脇腹へ正確にめり込んだ。
だが次の瞬間、脚をつかまれた。
体勢を崩した勇信は、タックルを許してしまう。
「ぐっ……!」
体を起こそうとした瞬間、男が背後に回り込んだ。
腕が首元に絡み、両脚が腰に巻きついてきた。
このままでは絞め落とされる。
勇信は顎を引き、首に食い込む腕を両手で押し下げた。
背中の男を振り落とそうと、全身をねじった。
「おまえはいったい誰なんだ!」
叫んだのは、男のほうだった。
勇信は一瞬、動きを止めた。
「今おまえ……何て言った?」
まるで自分こそが侵入された側だと言わんばかりの声――。
俺は、誰かと戦っている。
ここにいてはならない誰かと。
しかも、そいつは俺と同じ声で叫んでいる。
勇信は歯を食いしばった。
背後の顔面を狙い、肘を打ち込んだ。
1発、2発、3発。
男の腕がゆるんだ。
その隙に肩を抜き、体をひねって立ち上がる。
男もすぐに立ち上がり、追撃のジャブを放ってきた。
やられる。
そう思った瞬間、体が勝手に反応した。
ドゴッ……!
カウンターのアッパーカットが、男の顎を正確に撃ち抜いた。
何度も練習してきた軌道だった。
男の顎が跳ね上がり、その体は切り倒された大木のようにマットへ沈んだ。
倒れた男が、ケージ中央の照明に照らされた。
勇信は追撃しようと前に出た。
しかし、男の全身を見た瞬間に足が止まった。
「なんなんだ……こいつは」
目の前の男は、全裸で倒れていた。
そしてその顔は、勇信とまったく同じだった。
「お……俺?」
声が震え、勇信は後ずさった。
目の前に倒れているのは、他人ではない。
俺……。
そんなことが、あるわけがない。
勇信はケージを飛び出し、近くに置いてあったバスタオルとミネラルウォーターをつかんだ。
倒れた男に近づき、下腹部にタオルをかけてから、顔に水をかけた。
「おい。起きろ」
「ゴホッ、ゴホッ!」
男が激しく咳き込み、目を開けた。
しばらくぼんやりと天井を見ていたが、次の瞬間、跳ね起きるように立ち上がった。
立ち上がった拍子に、下腹部を覆っていたタオルがマットに落ちた。
男は気にも留めず、再びファイティングポーズを取った。
「貴様……許可もなく、どうやってここに入った」
あろうことか、男がそう言った。
「それはこっちのセリフだ。セキュリティをどう突破した。しかも、なぜ裸なんだ」
「言え。おまえは誰だ」
「言え。おまえは誰だ」
ふたりの声が、寸分違わず重なった。
「なにがどうなってる」
「なにがどうなってる」
再び声が重なった。
勇信の中で、恐怖が別の形に変わっていった。
こいつは俺じゃない。
俺の顔をした何かだ。
俺の声を使う何かだ。
こいつを、ここから逃がしてはならない。
「消す」
「消す」
またも、声が重なった。
スポーツウェアを着た勇信と、全裸の勇信。
ふたりは同時に拳を上げた。
さっきまでの攻防は、ただの混乱だった。
今度は違う。
ふたりの勇信による、殺し合いがはじまった。
コメント
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ありがとうございます。完結する日まで全力で走りますので、よろしくお願いします
これすごうい! ってかめちゃくちゃ連載しててやばば

こう言う世界か居、大好き
#都市伝説
臣桜
160
みゆ
23
#オカルト