「おまえは……俺?」
吾妻グループの御曹司である吾妻勇信(あづまゆうしん)は、ある日を堺に増殖をはじめた。
法則もないまま次々と増えていく俺という存在に、勇信は次第に疲弊していく。
会社、プライベート、そして死んだはずの兄・勇太と、呪われし吾妻一族。
果たして勇信は「俺たち」を守ることができるのだろうか。
「まるで波とたわむれるように、漂っていたそうだ……」
現警察庁長官・菊田盛一郎が、兄の死体をそう描写した。
冗談のない真剣な口調で。
「兄さんが……どうして」
恐れていたことが現実となった。
吾妻勇信(あづまゆうしん)は言葉をつなげることができず、ただうなだれた。
「我々も全力で捜査を続けたが、事件性はどこにも見当たらなかった。私も幼い頃から勇太を知っているだけに、本当に無念でならない」
「おじさん、なぜ兄さんが、あんな辺鄙な場所で死ななければならなかったんですか!」
怒りの声が部屋に響いた。
声が消えると、重苦しい沈黙だけが残った。
……兄が死んだ。
静岡県のとある断崖絶壁での転落事故だった。
警察の調査によれば、死体は波と海の生物たちによって粉々に分解されたという。
服はほとんどボロ布に近く、死体は深い海に沈んで発見できなかったそうだ。
静岡県しそね町。
吾妻グループによって建設中の複合商業施設、『ビスタ』。
兄が視察のためにビスタを訪れたのは3週間前だった。
家を出たその夜から、兄とは連絡がつかなくなった。
父の旧友である警察庁長官・菊田盛一郎に直接捜査を要請したところ、結局兄は死体となって発見された。
明るい笑みを浮かべて東京を離れた兄。
彼はもうこの世にはいない。
「建築現場から断崖絶壁までは10キロも離れています。兄がそこを訪れる理由なんてありません」
「ああ、それは私もわかっている」
「なら、もう一度だけ捜査をお願いできませんか」
「こちらも徹底した周辺調査を行ったが、事件性は見当たらなかった。単純な自殺、あるいは崖からの転落事故なため、これ以上調査を進めることはできない。すまないが、理解してくれ」
「そんなはずはありません。兄が自殺するわけありません。盛一郎おじさんならわかるはずです」
「……すまない」
吾妻勇信はただ言葉なくテーブルを見つめた。
吾妻勇太。
33才。
兄。
時価総額500億ドルを超える吾妻財閥の総帥であり、同時に勇信にとってかけがえのない優しい兄だった。
その兄が自分の車ももたずに、たったひとりで断崖絶壁を訪れる理由などあっただろうか。
しかも転落死など。
おのずと涙がこぼれ落ちた。
菊田盛一郎が勇信の肩をぽんぽんと叩いた。
「非公式だが、追加調査の手配はしてある。勇信、心を落ち着かせるんだ。おまえまで動揺していたら、吾妻グループはさらなる混乱に陥るだろう。
今は残った母や家族のことを第一に考え、そばにいてやるんだ。勇太はもうこの世にはいないのだから……」
菊田盛一郎の最後の言葉が耳から離れなかった。
そう……。
兄は物理的に消えてしまった。
海の微生物たちによって分解され、生態系の一部となってしまったのだ。
「私は絶対に信じません。独自調査でも何でも進めて、必ず事の真相を暴いてみせます」
勇信はそう言い残して、菊田家を去った。
*
「勇信様、お車に」
運転手が後部座席のドアを開けた。
「……少し歩きたいんだ」
夜風のなまぬるさが不快でたまらない。
俺はこれから、どうやって生きていけばいいんだ。
この巨大な企業体を、たったひとりで率いていくってのか!
くそっ。
怖い。
兄さん……怖いよ。
********
左ジャブ。
右ストレート。
左フック。
右ローキック。
ガードを高く上げ、ジャブを放ってから右のミドルキック。
はぁ……はぁ……はぁ……。
すべての力をサンドバッグに注ぎ込むと、勇信はその場に倒れた。
兄勇太を失った悲しみが、いまだ頭の中を占領していた。
自宅に設置した勇信の専用ジムには、サンドバッグの音だけがギシギシと鳴っている。
勇信は恐怖を取り払うように再び立ち上がった。
それからサンドバッグを離れ、ジム内に設置されたケージの中へと入っていく。
オクタゴンと呼ばれる、八角形の金網。
吾妻グループが経営する総合格闘技団体、『マーシャルFC』の公式サイズと同じものだ。
汗と涙がとまらなかった。
疲れはすでに限界で、吐く息の音だけが耳に残る。
左ジャブ。
右ストレート。
左フック。
右ローキック。
ガードを高く上げ、ジャブを放ってから右のミドルキック。
はぁ……はぁ……はぁ……。
そのとき、前方に人の気配がした。
誰だ……。
目の前でファイティングポーズをとる男。
「おまえは誰だ」
勇信は警戒しつつガードを上げて近づいた。
すると、唐突に左ジャブが飛んできた。
オープンフィンガーグローブを広げ、すばやく手のひらでガードをした。
再び放たれる左ジャブ。
とっさにバックステップで避けた。
「誰だと聞いている」
「誰だと聞いている」
勇信の声に、男も同じ言葉を返してきた。
勇信は距離を詰め、パンチを放った。
男は見切ったように、うしろに下がった。
ドゴッ!
追撃のミドルキックが、男のわき腹に正確にヒットした。
しかし相手に脚をつかまれ、タックルを許してしまった。
マットに打ちつけた背中に、強い衝撃が走った。
殴られる!
勇信は全身をいちはやく回転させて、亀のように丸まった。
バックマウントをとらせ、隙をついて立ち上がるしかなかった。
はぁ、はぁ、はぁ……。
相手の荒い息遣いが耳元で鳴っていた。
ここは、吾妻勇信だけが立ち入ることのできる専用トレーニング施設。
吾妻家の敷地内にあり、さらには自宅に設置した場所だ。
許可なく誰かが出入りできるほどセキュリティは甘くない。
「おまえはいったい誰なんだ!」
予想外にも、男のほうがそう言った。
荒い息。
背中にかかる実質的な重さ……。
男は……幻想などではない。
実在する人間!
「おまえは誰なんだ!」
勇信はようやく危機的状況を察した。
全身が硬直し、超緊張状態へと突入する。
……俺は誰かと戦っている。実在する誰かと。
深く息を吸い、背後の顔面めがけて肘を数発入れた。
男がひるんだ隙をみては、すばやく立ち上がった。
距離をとるためうしろに下がると、目の前には追撃のジャブが迫っていた。
やられる!
そう思った瞬間、体が無意識に反応した。
幾度となく練習してきたアッパーカットがカウンターとなって、相手の顎を正確にとらえた。
男は衝撃を受け、切り倒された大木のように一直線にマットに沈んだ。
息の根をとめるべく、倒れた男に追撃を加えようとする。
しかし男の全身を見たとき、勇信は急停止した。
「なんなんだ、こいつは……」
目の前の男は、一糸まとわぬ全裸姿で倒れていた。
男は、『吾妻勇信』だった。
「お……俺?」
想像もしなかった光景に呼吸が乱れた。
再び男を見つめるが、やはり倒れているのは自分に間違いない。
すぐにケージから出て、バスタオルとミネラルウォーターをもって戻った。
倒れた男に近づき、腹部にタオルをかけ顔に水を注いだ。
ゴホッ、ゴホッ!
男が苦しそうに咳こみながら、意識を取り戻した。
しばらくして呼吸が落ち着くと、男は立ち上がり臨戦態勢に入った。
「おい、貴様! 許可もなくどうやってここに入ってこれた」
「……それはこっちのセリフだ。セキュリティをどうやって突破した? しかもなんで裸なんだ!?」
「言え! おまえは誰だ?」
「言え! おまえは誰だ?」
ステレオ音声のようにふたりの声が響いた。
同時に大きく瞳孔を開け、互いににらみ合った。
「なにがどうなってんだ……」
「なにがどうなってんだ……」
「殺してやる」
「殺してやる」
頭は混乱していたが、やるべきことはわかっていた。
目の前の相手を消すこと。
スポーツウェアの勇信と、全裸の勇信。
ふたりの勇信の、命を懸けた戦いがはじまる。
コメント
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こう言う世界か居、大好き