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#狂気
保谷東
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こう言う世界か居、大好き
プロローグ
「おまえは……俺?」
吾妻勇信(あづまゆうしん)の声が、金網の中で震えた。
目の前の男が、こちらを見ている。
同じ目で。
同じ口で。
同じ呼吸で。
違っていたのは、男が何ひとつ身につけていないことだけだった。
「俺は……勇信」
男は、当然のように言った。
勇信と同じ声で。
第1話 ふたりの勇信
「勇太は、断崖絶壁から転落したものと判断された」
現警察庁長官・菊田盛一郎は、静かな声でそう告げた。
吾妻勇信は、しばらく言葉を返せなかった。
音は聞こえているのに、意味がうまく理解できなかった。
「兄さんが……どうして」
声にした瞬間、現実が形を持った。
兄が死んだ――。
吾妻勇太。
33歳。
吾妻グループの若き総帥であり、勇信にとっては、誰よりも優しい兄だった。
「我々も全力で調べた。現場周辺、防犯カメラ、関係者への聞き取り、通信履歴。できる限りのことはした。しかし、事件性を示すものは見つからなかった」
「そんなはずがありません」
勇信の声が強く響いた。
「兄さんが、なぜあんな場所に行くんですか。ビスタの建築現場から、断崖までは10キロ以上離れています。視察に行った人間が、ひとりでそんな場所へ行く理由なんてありません」
「ああ。それは私も引っかかっている」
「なら、もう一度調べてください」
「非公式の追加確認は、すでに手配している」
菊田の声は慎重そのものだった。
それでも、勇信の求める答えではなかった。
「公式には、これ以上大きく動かせない。現場の状況、残されていた所持品、海岸付近で見つかった衣服の一部や血痕。それらを総合して、勇太は転落によって死亡したと判断された」
「遺体は」
「完全な形では、発見されていない」
それ以上、聞く必要はなかった。
勇信は、両手を膝の上で握りしめた。
爪が手のひらに食い込んだ。
痛みはあった。しかしそれ以上に、胸の奥が冷たかった。
静岡県しそね町。
吾妻グループが建設を進めていた複合商業施設、ビスタ。
勇太が視察のために東京を離れたのは、3週間前だった。
その夜から連絡が途絶えた。
明るい笑みを浮かべて家を出た兄は、二度と戻ることはなかった。
「兄さんが自殺するわけありません」
「私も、勇太がそういう人間ではないことは知っている」
「それなら……」
「証拠がない」
菊田の言葉は、切るように短かった。
勇信は顔を上げた。
目の前にいる男は、父の旧友であり、幼い頃から自分たち兄弟を知っている人物だった。だからこそ、怒りをぶつけることも、すがることもできた。
「盛一郎おじさんなら、わかるはずです。兄さんは、こんな死に方をする人じゃありません」
「……すまない」
謝罪の言葉が、部屋の空気をさらに重くした。
「……」
勇信は、もう何も言えなかった。
テーブルの上には、冷めた茶が置かれていた。
湯気は消えている。
それを見ているうちに、なぜか兄の顔が浮かんだ。
――勇信、何かあったら、俺に言え。
兄はいつも、そう言って笑っていた。
その兄はもういない。
菊田が立ち上がり、勇信の肩に手を置いた。
「勇信。今は心を落ち着かせるんだ。君まで動揺していたら、吾妻グループはさらに混乱するだろう。残された家族のそばにいてやれ。勇太はもう、この世にはいないのだから」
勇太はもう、この世にはいない。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
「私は信じません」
勇信はゆっくりと立ち上がった。
「独自調査でも何でも進めます。必ず、兄さんに何があったのか突き止めます」
そう言い残し、勇信は菊田家を出た。
*
「勇信様、お車に」
運転手が後部座席のドアを開けた。
「……少し歩きたい」
「しかし」
「いい。ひとりにしてくれ」
運転手はそれ以上何も言わず、頭を下げた。
夜風はなまぬるかった。
東京の空気は重く、遠くで車の音が絶えず流れている。
勇信は歩きながら、拳を握った。
「俺はこれから、どうやって生きていけばいいんだ……」
兄さんがいたから、吾妻グループは回っていた。
兄さんがいたから、家族も、社員も、取引先も、みんな安心していられた。
その兄がいない。
巨大な企業体が、突然、自分の肩にのしかかってくる。
すべてが一斉に、こちらを見ている気がした。
怖い。
その言葉だけは、吐くわけにはいかないのはわかっている。
勇信は足を止めた。
街灯の光が、靴の先を白く照らしている。
兄さん。
怖い……。
口に出せば崩れてしまいそうで、勇信は奥歯を噛みしめた。
*
左ジャブ。
右ストレート。
左フック。
右ローキック。
ガードを高く上げ、ジャブを放ってから右のミドルキック。
はぁ……はぁ……はぁ……。
すべての力をサンドバッグに叩き込むと、勇信はその場に膝をついた。
自宅に設置された専用ジムには、サンドバッグの揺れる音だけが響いていた。
ここは、吾妻家の敷地内でも限られた人間しか存在を知らない、勇信専用の施設だった。
ぽとりと汗が、床に落ちた。
涙なのか汗なのか、もう自分でもわからなかった。
勇信は立ち上がった。
恐怖を消したかった。
悲しみを消したかった。
兄の声を、兄の笑顔を、菊田の言葉を、全部まとめて身体の外へ叩き出したかった。
もう一度、サンドバッグへ向かう。
腕が重く、呼吸が乱れているが、それでも止められなかった。
やがて勇信はサンドバッグから離れ、ジムの奥へ向かった。
金網に囲まれた八角形のケージ。
吾妻グループが運営する総合格闘技団体、マーシャルFCの公式サイズと同じオクタゴンだった。
勇信はケージの扉を開け、中へ入った。
マットの中央に立ち、両拳を上げる。
見えない相手を前に、身体を動かす。
左ジャブ。
右ストレート。
左フック。
右ローキック。
身体が勝手に型をなぞっていた。
はぁ……はぁ……はぁ……。
そのときだった。
前方に、人の気配がした。
――誰だ。
勇信は動きを止めた。
薄暗い照明の下、男が立っていた。
ファイティングポーズを取り、こちらを見ている。
勇信は反射的に一歩下がった。
返事はなかった。
男は無言のまま距離を詰めてきた。
次の瞬間、左ジャブが飛んできた。
勇信はとっさに腕を上げた。
オープンフィンガーグローブ越しに、拳の重さが伝わってくる。
誰だ……。
この家の中に、このケージの中に、誰も入れるはずのない場所に。
「誰だと聞いている!」
勇信が声を荒げた。
「誰だと聞いている!」
男も、同じ声で叫んだ。
!?
一瞬、勇信の背筋が冷えた。
しかし、考えるより先に身体が動いていた。
踏み込み、右ストレートを放った。
男は見切ったように後ろへ下がった。
それに合わせて、ミドルキックを放った。
ドゴッ!
確かな手応えだった。
足の甲が、男のわき腹に正確にめり込んだ。
しかし脚をつかまれ、タックルを許してしまった。
「ぐっ……!」
マットに背中を打ちつけられた勇信は、反射的に背中を向け、身体を丸めた。
すぐに背中に、男の体重が乗った。
腕が首元に絡み、膝が脇腹を押さえつけてくる。
このままでは絞められる。
勇信は顎を引き、首に食い込む腕を両手で押し下げた。
背中の男を振り落とそうと、全身をねじった。
「おまえはいったい誰なんだ!」
叫んだのは、男のほうだった。
勇信は一瞬、動きを止めた。
今こいつは……何と言った?
まるで、自分こそが侵入された側だと言わんばかりの声だった。
「おまえは誰なんだ!」
勇信も叫び返した。
俺は、誰かと戦っている。
ここにいてはならない誰かと。
しかも、そいつは俺と同じ声で叫んでいる。
勇信は歯を食いしばった。
背後の顔面めがけて、肘を打ち込む。
1、2、3発。
男の腕がゆるんだ。
その隙に身体をひねり、膝を立てて立ち上がった。
距離を取ろうと下がった瞬間、追撃のジャブが迫ってきた。
やられる。
そう思った瞬間、身体が勝手に反応した。
ドゴッ……!
アッパーカット。
何度も練習してきた軌道が、相手の顎を正確に撃ち抜いた。
男の身体が浮き、そのまま切り倒された大木のようにマットへ沈んだ。
勇信は追撃しようと前に出た。
しかし、倒れた男の全身を見た瞬間、足が止まった。
「なんなんだ……こいつは」
目の前の男は、全裸姿で倒れていた。
そして、男は、勇信と同じ顔をしていた。
「お……俺?」
声が震え、勇信は後ずさった。
金網に背中がぶつかった。
目の前で倒れているのは、他人ではない。
俺――。
そんなことが、あるわけがない。
勇信はケージを飛び出し、近くに置いてあったバスタオルとミネラルウォーターをつかんだ。
それから倒れた男に近づき、腹部にタオルをかけ、顔に水をかけた。
「おい。起きろ」
ゴホッ、ゴホッ!
男が激しく咳き込み、目を開けた。
しばらくぼんやりと天井を見ていたが、次の瞬間、跳ね起きるように立ち上がった。
そして、再びファイティングボーズをとった。
「貴様……許可もなく、どうやってここに入った」
あろうことか、男が言った。
「それはこっちのセリフだ。セキュリティをどうやって突破した。しかも、なんで裸なんだ」
「言え。おまえは誰だ」
「言え。おまえは誰だ」
ふたりの声が、ステレオのように完全に重なった。
「なにがどうなってる」
「なにがどうなってる」
またも声が重なった。
勇信の中で、恐怖が別の形に変わっていく。
こいつは俺じゃない。
俺の顔をした何かだ。
俺の声を使う何かだ。
こいつをここで逃がしてはならない。
「消す」
「消す」
また、声が重なった。
スポーツウェアの勇信と、全裸の勇信。
同時に、拳を上げた。
ふたりの勇信の、命を懸けた戦いがはじまる。