あれは確か、私がまだ十歳になったばかりの頃だ。珍しく、私の父であったクレヴォ・シリウス公爵に『たまには私と一緒に、家の中で散歩でもしないか?』と誘われた事があった。
この世に生まれたその瞬間から家内中の全ての人達から嫌われ、冷遇され、おまけに五歳の頃に顔を火傷した私は、当然父からの親愛なんて崇高そうなものを貰った経験は一度も無い。そのせいで警戒心丸出しでただびくびくと体を震わせていると、作り物くさい笑顔を浮かべた父は私の手首を強引に掴み、広い廊下を奥に向かって歩き始めた。今日の分の食事を本邸にまで貰いに来たタイミングだった為、お腹が空いていて力が出ず、されるがままに連れて行かれる。
散歩だと言っていた割には父の歩みが早い。歩幅の差で私の歩みは走るに近く、前に前に進むたびに胸の奥で不安が大きくなっていく。
リネン室の横を通り過ぎ、調理場や食材の保管庫なども過ぎて行く。こんなの、家の中を家族と一緒に歩くにしたって、普通なら選びそうにないコースだと思った。
『——こっちだ』
廊下の行き止まりに立つと、父は目の前に飾られている大きな絵画に手をかざした。五大家の始祖である“五人の聖人”が描かれているとても古い絵だ。ここは陽差しが入り込まない箇所だからか、多分描かれてから五百年近く経ったはずの今でもほぼ当時のままだ。
数秒後、その絵が少し歪んだ気がした。驚き、体を強張らせていると、父がまた私の手を引いて歩き始めた。だが目の前にあるのは巨大な絵画で道など無い。なのに父と私はそのまま突き進み、するりと絵画を通過してしまった。
『……え?』
腕を引っ張られたまま、後ろを振り返る。驚いて言葉をこぼすと、父は振り返らぬまま何があったのか教えてくれた。
『此処はシリウス家の当主しか知らない秘密の脱出路だ。あの絵には五大家の血族しか通過出来ない魔法が掛けられているから、賊が追って来る心配が無い。此処を通り、道なりに進めば旧邸の裏手にまで出られる。人目を避けて災禍から逃れる為に造られた道だ』
『……そう、なんですか』
(何かあれば、此処から逃げろって事だろうか?)
ずっと父からも嫌われていると思っていたのだが、意外にも親らしい心を持っていたみたいだ。そう思うと、少し胸の奥がふわりと温かくなった気がした。
『此処を再発見したのは、ごく最近の事でな。五大家それぞれの屋敷の何処かに脱出路がある事を知っている者は私の他にもいるんだが、流石に他の家の脱出路の場所まではわからずに“忘れられた通路”と化していたんだ。残念な事に、私が此処の正確な位置を聞く前に、前当主が亡くなってしまったせいでな。仕方なく家中を歩き回り、古い日誌やシリウス公爵家の年代記などを読んで、何年もかけて最近やっと見付けたんだ』
父は一度も振り返りはしないが、声はちょっと嬉しそうだ。この通路は随分と暗いけど、父の背中からは、宝探しをやり遂げた少年のような眩しさを感じた。
細くて長い廊下を歩き、階段を下り、また廊下を突き進む。前に進むたびに近くにある壁掛けのランタンに火が灯り、通り過ぎ、しばらくすると勝手に後方の灯りが消えていく。その様子に目を奪われていると、父が急に足を止めた。
『この部屋は昨日見付けたばかりなんだが、なかなか興味深くてな。お前にだけは、見せてやろうと思って連れて来たんだ』
部屋と言われて見上げはしたが、扉らしきものは何処にも見当たらない。ただちょっと他の壁よりは色合いが違う箇所があるなといった感じがするだけで、逃げる為にと此処を歩いていたら絶対に見逃してしまう程度の違いだった。
『面白い場所だぞ、お前も入ってみるといい』
父は壁をゴソゴソと触ると、少し窪んだ箇所に指を入れた。どうやらそこに部屋の扉を開けるノブの様な役割をする物があるみたいだ。
『私も、父から——お前にとっては、祖父に当たる人から、生前に「通路の途中には小さな部屋もあるんだ」と聞いていなければ、絶対に気が付かなかっだろうよ』
『……何が、ある部屋なんですか?』
『んーそうだな。“何か”があるというよりは、複数の魔法が掛けられた特別な部屋だ』
『……魔法?』
『あぁ、そうだ。——ほら、開いたぞ』
重たそうな扉がゆっくりと自動的に開いた。中はまだ真っ暗で何も見えず、広いのか、狭いのかもわからない。
『廊下のように、入れば勝手に灯りがつくんだ。お前もきっと驚くぞ。奥まで入ってみるといい』
そっと背中を押され、足が数歩前に進む。ボロボロな靴底越しに感じる床は石造りのもので、室内は少し暑い。風は全く感じないから地上との接点は何も無さそうだ。
『で、でも……』
正直、怖いとしか思えない。公爵家の秘密の金庫という感じでもなさそうだし、そもそもそんな場所を真っ先に私に教えてくれるような人でもない。
『ほら、早く入るといい。奥の方にお前が興味を持ちそうな物もあるんだ』
肩を強く掴み、無理矢理私の体を前に前にと歩かせようとする。その強引さに恐怖を感じ、私は父に向かって『結構です!帰りましょう、お父様!』と叫んだ。
すると父は、『——お父様、だと?』と小さく呟き、私の背中をドンッと強く押した。そのせいで足がもつれて真っ暗な部屋の中にバタッと倒れてしまう。冷たい床の上で上半身だけ起こし、扉の側に立つ父を、私は震える瞳で見上げた。
『聖痕も無い、嫁にいける様な顔も持たないゴミの様な小娘が、私を“父”と呼ぶな』
逆光のせいで表情は見えずとも、寒々しい声のせいか冷ややかな視線を感じる。
父からも嫌われていると知ってはいたが、改めてそんなふうに言われると哀切の思いで心が痛む。そこまで思われる様な事は何もしていないはずだ。だが、私が生まれた事そのものが気にいらないであろう父に対し、私が今何を言おうが、考えが変わる事など絶対に無いのだろう。
『お前にはわからんだろうが、この部屋は本当に素晴らしい魔法が掛けられているんだぞ。逃走用の通路にある部屋だから、まず防音は当然として、臭いを防ぎ、振動も一切外にはもらさない。つまりは、どんなに叫ぼうが助けを呼ぼうが、誰も助けには来られない部屋なんだ。本来の用途は、外にも敵が居る場合に備え、しばらくの間ひっそりと隠れておける場所として用意した物なんだろうがな』と話しながら、父が重たい扉を閉め始めた。
『待って下さい!私も出ます!』
急いで立ち上がり、扉に向かって私は走った。だが、寸での所で父に腹を思いっ切り蹴られ、元の位置まで押し飛ばされてしまった。
『じゃあな。お前とはもう二度と会う事はないと思うと、清々するよ』
歓喜と憎しみが入り混じる瞳を向けられ、鉄製の扉がゆっくり閉じていく。
『待って、待って!閉めないで下さい、良い子にしますから!ごめんなさい、ごめんなさい!』
懇願し、頭を床につけて謝罪を口にする。だが、私という存在自体を毛嫌いしている父がその言葉を聞いてくれるはずがなく、無情にも扉はズンッと重たい音を立てて閉められてしまった。