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#ミニ知識
なつほ
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注意:口調迷子
昼下がりの武装探偵社には、窓から差し込む春の陽光と、どこか弛緩した空気が漂っていた。 国木田は午後の外回りに備えて手早く昼食を済ませ、書類の束と格闘している。一方、太宰はといえば、自分のデスクに突っ伏して、焦茶色のゆるふわな長い髪を机上に散らしながら、だらだらと指先でペンを転がしていた。
「太宰。貴様、昼食はどうした。食べないのならさっさと午前中の報告書を……」
「国木田君、声が大きいよ。空腹というのはね、生きる意欲の現れなんだ。今の私には、胃袋を動かすエネルギーすら残っていないのさ。あァ、このまま光合成だけで生きられる植物にでもなれたら、どんなに楽だろうね」
太宰は顔を伏せたまま、気だるげに手を振った。国木田が「この唐変木が!」と怒鳴りかけるが、彼女のデスクの端に置かれた一束の書類に目を留めて、その言葉を飲み込んだ。 そこには、国木田が明日までにと厳命していたはずの調査レポートが、完璧な筆致で、しかも既に完成した状態で置かれていた。
「……終わらせたのか。珍しいこともあるものだ」
「ふふ、あまりに暇だったからね。だらだらするための時間を確保するために、だらだらと仕事を片付けたのさ。矛盾しているようだけれど、これが私の処世術だよ」
太宰はゆっくりと上体を起こした。琥珀色の瞳は眠たげに細められ、トレンチコートの肩が少しだけずり落ちている。彼女は鏡を見ることもなく、はだけた首元の包帯を指先で無造作に押し込んだ。自分の容姿がどう見えているかなど、彼女の関心の外にある。
「太宰さん」
小さな声に呼ばれて視線を向けると、そこには泉鏡花が立っていた。その隣には、お盆を持った谷崎ナオミもいる。
「おや、鏡花ちゃん。ナオミちゃんも。どうしたんだい?」
「これ、新作のスイーツ。ナオミさんに教えてもらった」
鏡花が差し出したのは、近くのカフェで話題の期間限定イチゴ大福だった。
「太宰さん、お食事召し上がらないって仰ってたから。甘いものなら別腹かと思って!」
ナオミが屈託のない笑顔で横に並ぶ。太宰が女性になってからというもの、探偵社の女性陣――与謝野も含めた面々は、以前よりもずっと、彼女を自然に「輪の中」へと招き入れるようになっていた。
「困ったなあ。こんなに可愛い子たちに囲まれて勧められたら、断る理由が死後の世界まで探しに行かないと見つからないよ」
太宰は苦笑しながら、細い指先で大福を受け取った。
「太宰さん、その髪。少し解けてる」
鏡花が太宰の後ろに回り、長く伸びた焦茶色の髪にそっと触れた。
「あァ、本当だ。適当に結んでいるだけだからね。自分じゃ見えないし、どうでもいいのだけれど」
「……私が結び直してもいい?」
鏡花の申し出に、太宰は少しだけ意外そうに目を丸くしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「おや、光栄だね。名うての暗殺者に髪を委ねるなんて、これ以上の贅沢はないよ」
鏡花が丁寧な手つきで太宰の髪をまとめ始めると、医務室から出てきた与謝野晶子がその様子を見て、面白そうに声をかけた。
「なんだい、女子会か? 混ざってもいいかい?」
「あァ、与謝野先生。ちょうどいいところに。見てください、太宰さんのこの髪。手入れもしてないって仰るのに、どうしてこんなに柔らかいのかしら。」
ナオミが太宰の肩に手を置き、その髪を指で梳く。
「本当だね。この女、中身はあんなに捻くれてるっていうのに、素材だけは一級品だよ」
与謝野が笑いながら太宰の隣に腰掛けた。
「ねえ太宰。あんた、今度私と一緒に買い物に行きな。あんたのそのスタイルなら、今流行りの深いスリットが入ったドレスなんかも着こなせるだろうさ。包帯の上からでも似合うやつを、私が選んでやるよ」
「……先生、それは治療より恐ろしい提案だね。私はこの、代わり映えのしない砂色のコートで十分だよ。服を選ぶエネルギーがあるなら、入水に適した川の深さを測りに行くよ」
「相変わらずだねえ。鏡花、もっときつく結んでやりな。逃げ出さないようにさ」
鏡花は真面目な顔で「わかった」と頷き、太宰の髪を丁寧に編み込んでいった。 以前、男性だった頃の太宰は、どこか一線を引いた場所から女性たちを眺めているようなところがあった。あるいは、甘い言葉で煙に巻く「対象」として接していた。 けれど今は違う。 与謝野と医学的な(あるいは拷問に近い)美容談義に花を咲かせ、ナオミの恋バナに「それは心中ものだね」と物騒な相槌を打ち、鏡花のささやかな変化に一番に気づいて髪を撫でる。 彼女たちの間に流れる空気は、以前よりも柔らかく、それでいてどこか強固な連帯感に満ちていた。
「……でも、太宰さん」
髪を結び終えた鏡花が、太宰の肩越しに鏡を差し出した。
「中也さんは、太宰さんが綺麗なの、知ってると思う」
不意に出たその名前に、太宰は一瞬だけ、琥珀色の瞳を揺らした。
「……あァ、あのチビかい? 彼は私の美醜なんて見ていないよ。せいぜい、『今日の包帯の巻き方が甘いぞ、この鯖が』とか、そんな風に吠えるのが関の山さ」
「嘘。あの人、太宰さんを見る時だけ、ちょっとだけ顔が怖くなくなりますわ」
ナオミがからかうように言うと、与謝野も「違いないね」と肩をすくめた。 太宰は、差し出された鏡の中に映る自分を、どこか他人のものを見るような、冷めた目で見つめた。 綺麗だとは思わない。ただ、鏡花が結んでくれた髪の感触だけは、少しだけ、この厭世的な現実を肯定してもいいような、そんな気にさせた。
「……さて。スイーツもいただいたことだし、少しだけ、午後の仕事をするフリでもしようかな」
太宰は立ち上がり、大きく伸びをした。すらりとした長身が、陽光の中でしなやかにしなる。
「鏡花ちゃん、ナオミちゃん。ありがとう。お礼に、次の中也との喧嘩の戦利品でも持ってくるよ。……例えば、彼の帽子とかね」
太宰はひらひらと手を振り、自分のデスクへと戻っていった。 その後ろ姿を見送りながら、与謝野は小さく笑って呟いた。 「……全く。あの女、自分がどれだけ危ういバランスで立っているのか、分かっていないのかねえ」
「太宰さんは、太宰さんだから」
鏡花が静かに、けれど確信を持って答えた。
デスクに戻った太宰は、再び頬杖をつき、窓の外の青空を見上げた。 女子トーク、買い物、スイーツ。 そんな「生」を象徴するような言葉たちが、今の彼女の周りには溢れている。 彼女は、ポケットの中にあるスマートフォンをそっと指先でなぞった。未読のままの、中也からの乱暴なメッセージ。 彼女はそれを開くことなく、ただ、少しだけ編み込みが施された自分の髪を、自覚なく弄んだ。 琥珀色の瞳の奥に潜む闇は、まだ消えてはいない。 けれど、探偵社の女性たちから分けてもらった、ほんの僅かな「温かさ」が、彼女の砂色のコートの裏側に、確かに染み付いているようだった。
「……ま、悪くない昼休みだったかな」
太宰は誰にともなく呟くと、国木田が目を剥くような速さで、次の書類にペンを走らせ始めた。 その横顔は、やはり誰が見ても、息を呑むほどに美しく、そしてどこまでも孤独だった。