テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
教室には、もう三人しかいなかった。遥、日下部、そして蓮司。
黒板には、まだ落書きが残っている。
『H♡K 共犯者』
消される気配もなく、陽の落ちかけた窓からそれが浮かび上がっている。
蓮司はその前に立って、無邪気な顔で振り返る。
「いいじゃん、これ。わかりやすくて。記号って便利だよね。誰が誰を好きかとか、誰が誰に縋ってるかとか、さ」
日下部が口を開きかけるが、遥が先に動いた。
椅子の脚を引きながら、声を出す。
「……そういうの、飽きないんだな」
蓮司の目が、ふっと細くなる。
「へえ。喋るんだ。めずらしいじゃん」
遥は机に肘をつき、頬杖をつくようにして黒板を見上げた。
「べつに……ただの記号だろ。誰かが安心するための、都合のいい物語」
蓮司は静かに笑った。
「ふーん。じゃあ、おまえがその“都合のいい物語”に、黙って乗ってるのはなんで?」
遥は答えない。
蓮司は一歩、遥に近づいた。
「ねえ遥。おまえって本当は、全部わかってるんでしょ? 誰が何を言いたいのか、どう見せれば“加害者”に仕立てられるのか。そういうの」
沈黙の中で、遥が一瞬だけ笑った。
ひどく小さく、ひどく冷たい笑みだった。
「……わかってるよ。わかってるから、黙ってる」
「それって、正しいってこと?」
「ちがう。……ただ、面倒くさくないだけ」
その言葉に、蓮司の表情がわずかに崩れた。
にやりと、笑みを深くする。
「そういうとこ、好きだわ。おまえ、ちゃんと見えてるから、壊しがいある」
その一言で、教室の空気が、また少し冷えた。
日下部は思わず遥の顔を見たが、遥はもう無表情に戻っていた。
「……帰ろうぜ」
日下部がぼそりと言った。
遥は立ち上がりながら、最後にもう一度蓮司の方を見た。
「……そうやって、楽しんでるだけでいいなら、いいよな。お前は」
蓮司は肩をすくめて、軽やかに言った。
「いいでしょ? “物語”ってさ、ちゃんと役者が揃ってると、ほんと美しいんだよ」
遥は答えず、そのまま日下部の背を追って教室を出ていく。
蓮司だけが、その場に残ったまま、黒板の落書きを見上げていた。
「……さあ、次はどっちが裏切るかな」
ぽつりとつぶやいて、彼は指先で「♡」の部分だけ、そっと消した。