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千葉駅に、一時に待ち合わせね。
8時を過ぎてようやく怜は散策を始めようと座っていた席から立ち上がり、外へ出ると駅構内のロッカーを探し歩いていた。怜の頭の中には、笹岡からの文面がまだ残ったままだった。特にそれを否定する気力もないまま、予定をどう調整しようかと考えている。
予め行くと決めていた行き先は幾つかで、それ以外はその周りの近くの場所を選んでいっただけだったので、特に支障はない。だいたい、怜一人でここへ来るという事が当初の目的だったのだから、もうここに着いた時点で目的の半分くらいは果たしていると言ってもよかった。
夏休みに入ってから、部活での日々とバイトであった出来事をつらつらと思い浮かべながら、そこへちょうど笹岡が入り込んできた事が、未だに不思議でならなかった。
ロッカーの中にバッグを詰め込んだ後、鍵を抜きとると改めて自分がいま居る場所を確認するように行き交う人達の方を怜は眺める。
…取り敢えず、約束というのはそれに向かってどう話を付けるかという技量のことなんかではなく、はっきりとした嫌だとか、良いとかいう意思がないと大抵は、どうする事もできないものなのだ。
怜はそう思う。つまり、笹岡からの要求を跳ね除けるほどの意思が、怜の中にはなかったのだとも言える。
怜が千葉公園に着いた頃、笹岡からの返信は途絶えていた。
ー金、もってる?
さっきの電話口での会話と、自分が最後に送ったLINE文面をなんとなく思い出しながら、ふとバイト場でシフトが被っていたせいで何度か顔を合わせていた清水という自分と同じ高校生の事を考えている。
清水がした事…夏休みの間に彼女と、初めてのセックスをした事。
バイト仲間と二人でその時の話をしているのを、怜は仕事中に聞いたのだった。
「俺の家、共働きだからさ。平日は婆ちゃんしか家に居ないんだよね」
「へえ。じゃあ、婆ちゃんがいる家でしたって事?」
「…まあ、そうだな。」
「マジかよ…で、どうだった?」
怜は客が入ってくるまでの待機時間に、いつもこの学校が同じだというバイト仲間の話を聞いているか、峯崎さんと黙って立ち次の接客の手順を考えている事が多かった。清水も、シフトがかぶる事の多い田村という学生も、側から見たらごく普通の自分と同じ様な奴にしか見えない。
それ以降も聞き耳を立てて聞いていた会話のことを思い出し、怜は目の前に広がる公園の風景を眺めながら歩く。
「…いや、とにかく、ビビってるってこと知られたくないからさ。なんとなくいい雰囲気だなってなった後は、流れなのかな…多分」
「ふーん。キスとかした?」
「うん」
「ほえ…それで」
「凄い緊張してたんだけどめっちゃ立ってた」
「はあ。お前、初めてだろ。向こうは?そういうのって分かるの」
「うーん。はじめてなんじゃないかなあ。多分。だって服、脱ぐ時何か訳わかんなくなってたし」
清水は真面目に思い出しながら話しているようだった。
怜も清水とその彼女が、二人きりで部屋にいる様子を思い浮かべてしまう。
「……」
「何だ、それえ…
それで何か、変わった?終わったあとと、する前で」
………
目の前を、朝早くから散歩している中年の夫婦が通り、歩き慣れているのか周りの景色には脇目もふらずにぐんぐん歩いて行ってしまう。
それを見送ったあと、怜はいったいいつから自分は、こんなふうになってしまったのかと考えていた。
そこから先の話は、ちょうどアルバイト場に客が入って来たので、清水の心境の変化やなんかは聞いていない。だがそれ以降何となく、ネットやテレビを見る時にも、同じ様な話題に目を奪われている自分がいた。
…あの時、カネの事を尋ねてきたっていうことは、笹岡はもしかすると遠征の準備だけはして来たけど、それ以降のことは行き当たりばっかりで、何の準備もしていないんじゃないだろうか…
昼までそのまま公園で過ごすのも無理があったので、暫くしてから怜はまた駅の方へと向かって歩いた。笹岡との待ち合わせまではまだ時間があるし、初日は千葉駅周辺を散策するつもりだったので、目星を付けていた場所を確認するためにスマホを取り出してみる。
スマートフォンにはLINEが一件来ている。
見てみると、ユウからだった。
怜は立ち止まってそれを確認する。内容は、先日家に来たユウが話していた夏休み期間の集まりの事だった。思っていたよりも連絡が遅かったので、ユウは反応が薄かった自分を放っておいてもう集まりに出向いているのかと思っていた。
怜はふうとため息を吐いて、どう返信しようかと考える。朝、駅に着いた時とは違い、通勤ラッシュも終わった時間帯の人はまばらであちこちに買い物するだけに来た様な主婦や中年の男性、若い子連れの女性なんかも見える。怜はそこで歩きながらも、行き先はどうしようかと考えている。
ふと何となく、自分とユウはいつもこんな感じなんだろうなと怜は思った。
ユウがしたい事はいつも怜には見えない。昔は、一緒にいる時にもそんなふうに考えた事はなかった。
小さい頃はそれなりに仲良く遊んでいたし、いや、そもそもあの時はまだ異性とか相手の気持ちを意識するような事なんて無かった。怜は頭を掻き、返事を考えるのをやめてスマホをポケットに突っ込んた。
目の前に居る笹岡はいつも通りの顔で怜を眺めている…
いや、いつも通りではない。かなり、あからさまに笑顔を向けて来ている。
怜の前で電話を掛け終わった後、笹岡はスマホをテーブルの上へ置くと「何する?時間まで」と怜へ向かって聞いて来る。
二人で待ち合わせた後で入った喫茶店の中、怜が注文したアイスコーヒーと笹岡が注文したホットケーキを挟んで、向こうから笹岡が手を伸ばしてきた。
それが、一瞬怜の指の先に触れる。
…やばい。
ドクドクと音を立てて急に流れ出したみたいな血流と、心臓が、怜の意思とまったく関係なく動いている。それが、自分の在り方を根っこから変えてしまいそうに思え、怜はぞっとする。
笹岡は怜のことを知ってか知らずか、微笑みかけて来る。
はっきり言って、怜はこれまで「その先」を想像した事なんて一度も無かった。まず、そんな事は起こり得ないと思っていたからだ。
そもそも自分が、男に興味がある筈がない。部活をしている時も、体育の着替えの時も、怜はいつもむさ苦しい男に囲まれていたし、それに対しては「臭い」「暑苦しい」「早く帰ってゲームがしたい」以上の事を考えたことなど一度たりとも無かったのだ。
怜は笹岡が微笑みながら目の前でホットケーキを口に詰め込んでいるのを見る。
一体どうしてこいつの唇も、指先も、普通の男みたいにガサガサでごつごつしてないんだろう。怜はそう考えている。
何か吸い込みそうな感じで、いつも意味不明にキラキラしては、自分へ向かって笑いかけてくる…。