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(だめ……行っちゃダメよ、美月)
理性の声が叫んでいる。引き返して、霧の中を走って家に帰るべきだ。
しかし美月の足は金縛りにあったように動かない。それどころか、強烈な磁石に引っ張られるように、吸い寄せられるように門をくぐってしまっていた。
奇怪な不可解さと、心の奥底から湧き上がる好奇心。そして何より、あの少女の虚無的な瞳が、美月の意識を麻痺させていた。
門をくぐると、外の濃霧が嘘のように少しだけ薄れた。
目の前に広がるのは、広大な木造建築の武家屋敷だった。庭には手入れの途絶えた植木と、分厚い苔が覆う石灯籠が佇む。あたりは不気味なほど静まり返っていた。風の音すら聞こえない。鳥の羽音も、虫の鳴き声もない。真空の中に放り込まれたような錯覚。
廃屋のようでありながら、屋敷の奥からは明確な「誰かがいる」気配が皮膚を刺す。無数の視線が、暗闇の隙間から自分を見つめているような粘りつく気配。
「……あの、どなたかいますか?」
美月の声はかすれて小さく震えた。返事はない。
少女を探さなければ。なぜか美月はそう思い、靴を脱いで上がりがまちへ足をかけた。冷たく磨き上げられた廊下の木肌が、靴下越しに体温を奪っていく。
奥へ進む。
長い廊下がまっすぐに伸びている。左右の部屋の障子はすべてきっちりと閉じられ、中の様子は窺えない。
静寂の中、遠くからかすかに音が聞こえた。
ポツン。……ポツン。
水滴がどこか高いところから床へ落ちる音だ。規則正しく、静けさを切り裂くように響いている。
自分の足音だけが「トッ、トッ」と木下地に反響する。
廊下を数十メートルほど歩いたところで、美月はふと我に返った。強烈な違和感と寒気が背筋を駆け上がる。
(私、何をやってるの……? ここはどこ? 帰らなきゃ!)
本能的な恐怖が上限に達した。美月は翻転し、来た廊下を速足で玄関に向かった。
だが――。
「え……?」
歩いても、歩いても、玄関が見えない。
来た時にはなかった曲がり角が現れ、廊下は途中で左右に枝分かれしていた。障子の配置も、柱の傷の位置も違う。目の前に広がるのは、美月の記憶にない、迷宮のような見知らぬ回廊だった。
空間そのものが、歪んでいた。
呼吸は荒くなり、冷や汗が全身から噴き出した。
「嘘でしょう……出られないの!?」
狂ったように廊下を歩き回る。曲がり角を曲がるたびに、屋敷の雰囲気が変貌していく。空気が次第に重くなり、古い木材の匂いに混じって、生臭い鉄の匂いが鼻をつくようになる。
不意に、美月の足が止まった。
廊下の真ん中に、何か大きなものが横たわっていた。
「……あ」
それは、死体だった。
着物を着た若い女中。うつ伏せに倒れ、首元が深く斜めに切り裂かれている。そこから流出した黒ぐろとした血が、美しい磨き廊下を汚していた。女中の手は何かを掴もうとするかのように固まり、開いた目は焦点を失って美月の方を睨みつけていた。
「いやあぁっ!!」
美月は口を押さえ、後ずさった。喉の奥から込み上げる胃液を必死で飲み込む。
本物の死体。本物の血。これは夢でも幻覚でもない。
恐怖で震える脚を叱咤し、逆方向の角へ逃げ込む。ふすまを押し開け、別の部屋へ駆け込んだ。
しかし、そこはさらなる地獄だった。
広大な畳の座敷の中央。
次の死体が転がっていた。
身なりの良い武士の男。背中に何度も何度も刀を突き立てられた痕があり、着物はズタズタに引き裂かれ、畳は赤黒い血を吸って黒く変色していた。骨が断ち切られたような凄惨な傷口から、生々しい肉が見えている。
「ひっ……ひぐっ……!」
美月は腰を抜かし、畳の上にへたり込んだ。逃げなければ。立ち上がろうとした美月の視線が、その奥の床の間に釘付けになる。
そこにも死体があった。
若い母親だった。絢爛な着物は血で染まり、彼女は幼い乳児を自分の体で包み込み、庇うような丸まった姿勢で絶命していた。背中から刺された刀は母親の体を貫き、その下の幼子までをも貫通していた。母親の表情は苦悶と、我が子を守れなかった絶望に歪んでいた。
部屋全体を満たす、絶望的な死臭と鉄の匂い。
美月は悲鳴すら上げられず、悲惨な光景から目を背けるように這うようにして座敷から廊下へ出た。
ここは、殺戮の場だ。妻の浮気を勝手に疑った主人が起こした、あの都市伝説の本当の現場なのだ。
涙で視界が歪む中、美月が廊下の角を曲がったとき――。
「――っ」
そこに、あの少女がいた。
廊下の隅にちょこんと座り込んでいる。
しかし、先ほどとは違っていた。少女の胸元はざっくりと大きく切り開かれ、朱色の着物はドス黒い血で濡れそぼっていた。ボタボタと、胸の傷口から床へ血が滴り落ちている。ポツン、ポツンという水滴の音の正体は、この少女の血が落ちる音だったのだ。
美月の気配に気づくと、少女は首をギギギと不自然な角度で傾け、ゆっくりと立ち上がった。
そして、血塗られた細い腕を伸ばし、再び手招きをした。
美月は恐怖で身を縮こまらせた。少女が自分を屋敷のさらに奥へと連れて行こうとするのは、自分を誘い込んで殺そうとしているのではないかという恐ろしい勘違いに囚われ、絶望的な拒絶感が美月の心を支配した。
少女の口は固く結ばれ、言葉を発することはない。ただ、その虚ろな瞳だけが、美月をじっと見つめている。
「嫌ぁぁぁぁぁぁっ!!」
美月の喉から、裂けるような悲鳴が響き渡った。
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