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それから数日後。
ヨーランは「とある噂」の存在を知り、激怒していた。
──アンドレアス皇太子はルツィエ王女を狙っている。
そんな噂が皇宮中でまことしやかに囁かれているというのだ。その根拠となる出来事──ルツィエを抱きかかえるアンドレアスの姿も大勢の使用人たちに目撃されているらしく、お喋り好きの侍女たちが事実と憶測をあれこれ織り交ぜて噂を広めているようだった。
「アンドレアス殿下は最近穏やかになられたようだったけど、もともと気性の荒いご性格でしたものね。きっとヨーラン殿下から略奪なさるつもりでは?」
「アンドレアス殿下が狙いを定められたのなら、ヨーラン殿下は譲って差し上げるしかないでしょうね」
「ルツィエ王女もやっぱり悪女だったのね。ヨーラン殿下の婚約者なのに、アンドレアス殿下にまで色目を使うなんて」
「でも、やっぱり次期皇帝であるアンドレアス殿下のほうがいいわよねえ」
そんな話があちこちで繰り広げられていると思うと、腑が煮えくりかえりそうだった。
「あいつは兄なんかじゃない……たまたま皇太子になれただけで、本当は僕より格下のくせに……!」
それにルツィエが愛しているのはアンドレアスではない。この自分だ。
ルツィエは礼儀を弁えているから皇太子という上位者に逆らえないだけ。
だって、ルツィエは家族を殺したヨーランに怒ることも泣き叫ぶこともなく、微笑みを返してくれた。ヨーランが何をしても、ルツィエは美しい笑顔を見せてくれる。
これが愛ではないなら、一体何だというのか。
きっとルツィエもアンドレアスの接近に困惑しているに違いない。だったら婚約者である自分が助けてやらなくては。
「ルツィエにまで手を出すなんて……絶対に殺してやる」
◇◇◇
星の綺麗な晩、ルツィエはバルコニーに佇みながら、ほうっと溜め息をついた。
(夜になると、ついこうしてバルコニーに出てきてしまう……)
毎晩、どうしてかついアンドレアスのことを考えてしまい、今夜は離宮に来ないのだろうかと、こうしてバルコニーに出て探してしまう。
今だって、頭上には美しい星空が広がっているのに、ルツィエの目が向くのは暗くてよく見えない眼下の庭だ。
いつしか、この庭にアンドレアスがやって来るのを心待ちにするようになってしまった。
すると、遠くに見えるいつもの場所で、木が小刻みに揺れるのが見えた。
(まさか……私に合図しているのかしら)
そう思うやいなや、ルツィエはショールを羽織り直して、急いで寝室を抜け出した。
◇◇◇
「もしかして、合図に気づいてくれたのか?」
「やっぱりそうだったのですね……。誰かに見つかったらどうするのですか、危険です」
「すまない、でもそなたに気づいてほしかったんだ。せっかくここに来たのに会えなかったら残念だから」
「そんな……その言い方では、まるで私に会いに来ているようではないですか」
ルツィエがほんのり赤くなりながら呟くと、アンドレアスは柔らかな眼差しでルツィエを見つめた。
「まるで、ではないさ。俺はそなたに会いに来ているんだ」
「え……?」
アンドレアスがあまりにも真っ直ぐに言うものだから、ルツィエは驚いて固まってしまった。
「……か、揶揄わないでください」
「揶揄ってなんていない。たしかに以前はこの場所自体が目的だった。自分を保つために、ここに来る必要があったんだ。でも今はそれよりも、そなたに会いたい気持ちが大きい」
「なぜ、そんなことを言うのですか……」
ルツィエはヨーランの婚約者なのに。
そんなことを言われて、ルツィエはどうすればいいのだろう。
上目遣いでアンドレアスを見返すと、彼は赤い瞳を柔らかく細めた。
「そなたに俺の気持ちを知ってもらいたかった。俺はそなたの祖国を滅ぼした国の皇太子だ。だから本当は憎んでいても、立場を考えて穏便に接してくれているのかもしれない。でも俺は、そなたのおかげで心が癒され、こんな人生にも光が差して見えた気がした。俺はそなたを決して傷つけたくないと思っている。そして、できるならそなたの力になりたい」
アンドレアスの大きな手がルツィエの小さな手を包み込む。
その温かな体温から、彼の純粋な気持ちが伝わるようだった。
「アンドレアス殿下……」
彼の赤い瞳から視線が外せない。
この眼差しから自分の気持ちが伝わってしまったらどうしよう。
彼と一緒にいると胸の鼓動が速くなる。
でもそれと同時に安心もして、温かくて幸せな気持ちになる。
(この気持ちが何なのか、きっと私は分かっている……)
こんな想いを抱いてはいけないのに。
だって彼は祖国の仇である帝国の皇太子なのだから。
でも、少しだけなら許されるだろうか。
心を許せる味方がたったひとりもいない中、彼の優しさにほんの少しだけ甘えるくらいなら……。
「……ありがとうございます」
ルツィエがもう片方の手を重ねると、アンドレアスが安堵したように微笑んだ。