テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
秋深く薫る或る日、向井時計店の店内には、幾つもの時計が刻む音が静かに重なっていた。
チク、タク。チク、タク。
夕焼けの柔らかい光が差し込む小さな作業机に向かい、細い工具を手にしていた向井は、時間を忘れて作業に没頭していた。
その時、ちりん、と涼やかな音で鈴を鳴らしながら戸が開く。
「はーい、いらっしゃいませ!」
いつもの快活な調子で声を掛け、作業台から顔を上げた向井だったが、入口に立つ人物を目にした瞬間、ぱちぱちと丸い目を瞬かせた。
──見覚えの無い姿だった。
高く通った鼻筋に、すらりとした圧倒的な長身。仕立ての良い上品な洋装に身を包み、光を汲んだような淡い金色の髪と整った顔立ちは随分と目を引く。
「…あ、っと…異人さん、?えっと、 何やったっけ………あ!…はろー?」
頭の片隅に置いていた慣れぬ言葉に、男は僅かに目元を緩めた。
「いえ。私は混血ですので、日本語は充分に心得ております。」
「あ、ほんま?そら失礼を…。」
想像以上の丁寧で滑らかな日本語に、向井は慌てて両手で口元を押さえ乍ら、彼の前へと駆け足で向かった。正面で向き合えば、その大きさに改めて感嘆の声が上がる。
「すんませんね、俺、あんまりそういう風貌の人見たことなくて…。」
「お気になさらず。よく云われます。」
男は穏やかに答え、美しい所作で一礼した。
「自己紹介が遅れました。私、目黒家の執事を務めております、ラウールと申します。」
「これはこれはご丁寧にどうも…、んっ?目黒家、?」
つられて一礼するも、其の名を聞いた瞬間に少しだけ目を見開いた後、向井の表情がぱっと明るくなった。
「あぁー!もしかして、閣下の?」
「はい。此方をお持ち致しました。」
ラウールは恭しく胸元に手をやり、内側の衣嚢から一つの綺麗な懐中時計を取り出した。其れは、彼が大切にしていた見覚えの有るあの銀の時計で。
「御館様より、定期調整を申し付かっております。」
「成程!はいはい!」
向井は嬉しそうに声を上げ、
「前に言うた通り、古い時計やから定期的に見た方がええんすわ。…そうかぁ、覚えてくれはったんや…。思てたより律儀な御方やなぁ。」
ラウールから両手で大切に懐中時計を受け取り、慣れた足取りで作業台へと向かう。蓋をパチンと開けば、あの日と変わらぬ繊細な針が規則正しく動いている。向井はうんうん、と満足そうに頷き、時計に耳を近付けて僅かな音の違いにも注意を向ける。
「………うん。そない狂いは無いけど、一寸油が馴染んどらんな…軽く調整しときますわ。」
「左様で御座いますか。では、是非お願い致します。」
深くお辞儀をしてその侭佇んでいるラウールに、向井は声を掛ける。
「………あ、珈琲かお茶でも淹れましょか?」
「いえ、お構い無く。」
「ほな…せめて座ってくれます?ずっと立たれてると落ち着かんのんすわ。」
「、では…失礼致します。」
近場にあった使い込まれた木製の椅子に腰掛けたラウールを横目に、向井は時計を作業台の布の上にそっと置いた。
其の丁寧な手付きを見つめ乍ら、ラウールがふと口を開く。
「御館様から伺っております。」
「…へ?何を?」
「此方の店主は未だ若いのに随分と腕が良い、と。」
油を注そうとしていた向井の手が、ぴたりと止まった。
「…閣下が?」
「はい。」
「俺の事、そない話してはったんですか?」
「ええ。」
ラウールは淡々と、けれど誠実に頷いた。
「珍しい事です。御館様は、普段他人について話されませんので。」
「………へぇ。…っへへ、なんや有難いなぁ…。」
向井は何となく照れ臭くなり、ぽりぽりと頬を掻いた。
「まぁ…時計の話やったら、そら…ねぇ?」
「其れだけでは無い様でした。」
「…んぇ?」
「向井様は時計を只の物として扱わない、とも。」
ラウールの静かな言葉に、向井は首を傾げた。
「?…如何いう意味やろ。」
「お恥ずかしながら、私にも其のご意向は掴めずでして。」
淡々と答えたラウールだったが、其の澄んだ声音には僅かな含みがあった。
「只、御館様があれ程話されるのは初めて拝見しました。」
「…そ、そうなんや…。大分買い被りな気ぃするけどなぁ…。」
向井は照れ隠しをするように視線を時計へ戻した。
──何故だろう。胸の奥が、小さな行灯に火が点ったように仄かに温かい。
「…っへへ。」
「何か?」
「いや…何も無いです。」
誤魔化すように無邪気に笑い、向井は再び繊細な工具を手に取った。
「ほんなら、閣下の大事な時計…徹底的に調整せなな。」
「何卒、お願い致します。…少々、お仕事の場を拝見しても?」
「おん、ええよ。」
ラウールは断りを得て何気無く店内と作業場を眺める。壁際には修理を待つ古びた時計が幾つも並び、棚には大小の工具や小さな部品が整然と収められている。御用達の大手の店舗とは異なり、華やかさとは無縁の『これぞ下町』といった店内。
けれど、向井が時計に向ける真摯な眼差しには、何処か誇らしさと温もりがあった。ラウールは其れを静かに見つめていたが、ふと口元を和らげる。
「──御館様が、此方へ通われる理由が少し解った気が致します。」
「んー?」
集中していた所為もあり、向井はのんびりと聞き返す。
「いえ。何でも御座いません。」
「ええぇ?何か云うてたやんな?」
「幻聴かと。」
「ほんまにぃ?」
意味深に微笑むラウールに、向井が可笑しそうに笑う。其の朗らかな笑い声に、ラウールも僅かに目を細めた。
店内に響く、幾つもの時計の針音。
チク、タク。
其の規則正しい音の中で、二人の間に小さな親しみと信頼が生まれていく。
そして向井は未だ知らなかった。 此の日から、自分が目黒家の人間とも少しずつ深き縁を結んでいくことを。
目黒邸へ戻ったラウールは夕闇の差し込む廊下を進み、重厚な執務室の扉を三度、規則正しく叩いた。
「御館様、ラウールで御座います。」
静寂の後、室内から低く短い声が返る。
「──入れ。」
「失礼致します。」
足音を殺して中へ入ると、室内には仄かなインクの匂いと煙草の煙が漂っていた。机上の書類から眼差しだけを上げた目黒に、ラウールは恭しく深々と一礼する。
「御命令のお品、向井時計店へ届けて参りました。定期調整も滞りなく。」
「そうか。」
短く無機質な返答。目黒は直様視線を書類へと戻し、手にした万年筆を滑らせ始めた。だが、カリ、カリと静かに紙を擦る音が数秒もしない内にふと途切れる。
「……時計は。」
書類に目を落とした侭の問い。ラウールは其の僅かな間を見逃さなかった。
「問題御座いません。只、油が少々馴染んでいないとの事で、軽く調整を施して頂きました。」
「…そうか。」
相変わらずの短答。けれど長年傍に仕えるラウールには解っていた。万年筆を握る指の力が少し緩み、其の冷ややかな声に、微かな柔らかさが帯びたことを。
ラウールはすっと背筋を伸ばし、一歩前へ出た。
「それと、向井様より伝言を預かっております。」
紙の上で動いていた万年筆の先がぴたりと止まり、
「…何だ。」
目黒は緩やかに顔を上げる。其の鋭い黒い瞳が、真っ直ぐにラウールを射抜く。
「『閣下の大事な時計なので、徹底的に調整します』と。」
「………。」
目黒は数秒間だけ彼を見つめた後、何事も無かったかの様に再び書類へ視線を落とした。だが、其の口元が微かに固くなっている。
ラウールは静かに其の表情を見届け、目を細めた。
「随分と嬉しそうでいらっしゃいました。」
「…何がだ。」
書類から目を離さぬ侭、目黒が静かに問い返す。
「御館様が、向井様の事を話していたと知って。」
言い放ったその瞬間、パタリ、と万年筆が書類の上に置かれ、静まり返る部屋の中に其の小さな音が響く。
「…お前は又余計な事を…。」
「申し訳御座いません。」
頭を下げ乍らも、ラウールの澄んだ声音には欠片も悪びれた様子が無い。寧ろ、主人の不器用な変化を楽しむかの様な静かな余裕すら感じられた。
軈て目黒は胸の奥から静かに息を吐き出し、背凭れに体を預けた。
「…あの男は、時計の事となると目の色が変わる。」
「左様で御座いますね。向井様の御姿を拝見して、私もそう感じておりました。」
「彼は職人として、信頼出来る。」
淡々と語る目黒の言葉に、ラウールは僅かに首を傾げ、覗き込む様な視線を送った。
「其れだけで御座いますか?」
「………。」
目黒の眉根が僅かに寄る。冷ややかな眼差しが、ゆっくりと従者へ向けられた。
「何が云いたい。」
「いえ。何も。…では、失礼致します。」
靴音も立てず、静かに扉が閉じられる。
一人になった執務室で、目黒は暫く微動だにしなかった。
静寂が再び部屋を包み込む。
軈て、夕闇の影が伸びる机の脇へゆっくりと手を伸ばした。其の先にあった一冊の古い皮装の洋書。目黒は何気なく其の頁を捲って眺めた。
(…徹底的に、か。)
脳裏に浮かぶのは、あの小さな店で時計と真摯に向き合い、花が咲く様に無邪気に笑う男の顔。
「………。」
目黒は暫し黙り込んだ後、其の影を振り払う様に本を静かに閉じた。
コメント
2件

拝見させて頂きました!!ものすごく素敵なお話ですね✨️✨️ お互い少し関わりが増えてきて意識し出す感じ、すごく良いです💕🥹✨️次回もとても楽しみにしてお待ちしてます。
なっ…なんか甘酸っぱいカホリがする(/ω・\)チラッ
#雪男BL
雫
880
ほむぺ⋆*
74
mako
535