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「兄様!」
中折れ帽と外套を携え乍ら仕立ての良い洋装に身を包み、静かな廊下を歩いていた目黒は、背後から掛かった声に足を止めた。
振り返れば、其処には弟である亮平の姿があった。
「お出掛けですか?」
亮平は兄の姿を認めると、表情を明るくしてぱたぱたと人懐こく歩み寄って来る。其の瞳には、憧憬と少しの遠慮が混ざり合っていた。
目黒は一切の感情を削ぎ落とした、低く冷ややかな声を返す。
「何か用か。」
「あ、いえ…もし兄様が宜しければ僕も御同行、」
「断る。」
食い気味に放たれた一言は、至極冷たく亮平の言葉を遮った。
余りにも容赦のない拒絶に、彼は一瞬だけ哀し気に顔を歪め、傷付いた様に息を呑む。けれど次の瞬間には兄に余計な気遣いをさせまいと、無理をして直ぐに朗らかな笑みを浮かべて見せた。
「…雲の動きを見るに、後に雨が降ります。呉々も道中ご留意下さい。」
健気に努めて作られた其の笑顔に対し、目黒は一言の返答も与えない。只一瞥をくれただけで冷然と踵を返し、再び歩き出した。
廊下に響く、目黒の静かな足音。背中に突き刺さる弟の切ない視線を背に受け乍らも、目黒は二度と振り返る事無く、屋敷を後にした。
下町の路地裏にひっそりと佇む書房。
店内には古紙と乾いたインクの独特な香りが満ち、表の喧騒が嘘の様に静まり返っていた。
からん、と控えめな鈴の音を立てて帽子と外套で顔の殆どを隠した男が入ってくると、帳場で作業をしていた店主の深澤が緩やかに視線を上げた。
「いらっしゃ、…嗚呼、毎度どうも。」
短く平坦に声を掛けた深澤は其れ以上何も云わず、銀色の細縁眼鏡をくい、と上げて再び手元の作業に視線を落とした。過度な愛想も無ければ、踏み込む様な問いも無い。
相手が『氷の伯爵』と呼ばれる目黒家の当主である事は知っている。けれど、深澤が仰々しく平伏する事は無い。こうしてお忍びで訪れている以上、変に畏まる事も無く静かに見守るのが此の店の流儀だった。
目黒は帽子と外套を脱ぎ、深澤へ頷く様な小さな会釈を返すと、衣紋掛けに其等を掛けて薄暗い棚の奥へと足を進めた。
此処へ訪れるのは、目黒にとって唯一の息抜きだった。
軍の執務、家督の重圧。己の意志とは無関係に動き続ける現実から逃れ、只一人の人間として思考を止める為の時間。
目黒が手を伸ばしたのは、仕事に関わる軍事や政治の書物ではない。異国の風物が描かれた古い紀行本だった。
本を棚から引き抜き、静かに頁を捲る。
其処には自分を縛りつける『目黒』という家名も、伯爵という肩書も、背負わされた責務も存在しない。
目黒は其の場に佇んだ侭、静かに試し読みを始めた。
只管に紙を捲る音だけが店内に響く。
文字を目で追い乍ら、空にした頭の中に浮かぶ情景だけを埋めていく。
屋敷では常に『当主』で居なければならず、弟にすら冷酷な面を演じて見せなければならない。誰にも弱みを見せられず、誰にも本心を打ち明けられない。
何れ程分厚い軍服を着込もうと、彼の内側に在るのは冷え切った孤独だけだった。
帳場から其の様子を静かに視界に入れていた深澤は、只黙って煙管の煙を小さく吐き出した。
(…相変わらずだねぇ。)
伯爵という高貴な身分であり乍ら、何処か世界の果てに一人で立って居るかの様な寂寥感。深澤は野暮に声を掛ける事も無く、只静かに見守って居る。
現実を忘れる為の時間の中で、目黒は唯一人、物語の世界を孤独の中で浸っていた。
「…此れを。」
気に入った代物が在ったのか、目黒は一冊を深澤の手元へ置く。
「毎度。えーっと…八十銭で。」
目黒は懐から小銭入れを取り出し、滑らかな指先で八十銭を正確に数えて文机の上へ静かに置いた。深澤は《丁度頂戴します》と短く返し、手際良く本を清潔な薄紙で包んで紐で縛る。
「…長居したな。」
「いいや。うちは静かなのが売りですからね。」
自虐の如く口角を上げると、深澤は包んだ本を目黒の手元へ滑らせる。置いていた煙管の吸い殻をコンコンと火皿から叩き落とし、新しく刻み煙草を詰めた。煙管の先に火を点け、紫煙をゆったりと燻らせて外を眺める。
「…直に雨が降りそうだ。」
深澤の言葉に、目黒の胸の奥が一瞬だけ微かに跳ねた。屋敷を出る時、亮平が健気に残した言葉を思い出す。
《後に雨が降ります。呉々も道中お気を付けて。》
(…亮平の言った通りか。)
冷徹に突き放した筈の弟の顔が脳裏を掠め、目黒は極僅かに眉根を寄せた。
「…失礼する。」
目黒は衣紋掛けから重厚な外套を取り出して羽織り、帽子を深く被り直した。顔の半分以上を再び影に隠すと、深澤へ小さく目礼を交わす。
「又宜しくどうぞ。」
深澤は笑いもせず、只ひらひらと軽やかに片手を振った。過剰な敬意も無ければ、立ち入った詮索も無い。其の付かず離れずの距離感だけが、目黒にとって此の店で得られる唯一の救いだった。
再び涼やかな鈴の音を残して、目黒は路地裏の静寂から外へと足を踏み出す。
見上げれば、下町の空にはどんよりとした灰色の雨雲が広がり始めていた。冷たい秋風が外套の裾を揺らす。
現実を忘れ、束の間の静寂に身を沈めた時間も此処迄だ。此の足を一歩屋敷へ進めれば、再び冷たい現実が待っている。
目黒は購入した本を抱えて深々と帽子を目深に被り直すと、冷え切った空気の中を一人、重い足取りで歩み始めた。 庇を指で押し下げ乍ら目黒は灰色の街並みを歩いて居ると、ぽつり、と頬に冷たい物が落ちる。
(…降ってきたか。)
続いてポツポツと舗装の途切れた土道を濡らし始めた雨。目黒は足早に路地の曲がり角を最短距離で曲がろうとした──その時だった。
「うわっ!?あ、すんません!」
「!、」
曲がり角の向こうから大きな風呂敷包みを抱えて走ってきた男と、寸前の処で肩が擦れ違う。相手は咄嗟に身を翻したものの、勢い余って足を取られそうになり、たたたた、と不格好に踏み止まった。
目黒は足を止め、無言で相手を見下ろす。
それでも、自分の顔の半分以上は帽子の深い影と立てた外套の襟に隠れ、目元すら定かでは無い。発達した身長もあり、普通の人間であれば下町の路地裏で擦れ違った『気難しそうな異国風の男』としか思わない筈だった。
だが、体勢を立て直した男が《あっぶなぁ…》と胸を撫で下ろし、顔を上げたその瞬間。
「──あ、れ?」
ぱちぱちと丸い目を瞬かせて顔を覗き込んできたのは、小さな工具袋を腰に下げた向井だった。
「、………。」
目黒は息を詰めて顔を背け乍ら、帽子を目深に被り直し、すっと通り過ぎようと数歩歩んだその直後、
「、あ。…やっぱり閣下や!」
何の躊躇いも無い、小さな確信を込めた声が静かな雨音すら拾って耳に届く。
(何故だ、)
目黒の足が、ぴたりと止まった。
顔は殆ど隠れている。着ているのも軍服ではなく、洋装だ。それに、此方は声すらも発していない。
目黒がゆっくりと振り返ると、向井は風呂敷包みを抱え直し乍ら、明るい笑みを浮かべていた。
「いやぁ、こんな処でお会いするなんて奇遇ですねぇ!」
「…何故、分かった。」
低く抑えた声で問うと、向井は《んぇ?》と不思議そうに首を傾げ、其れからぽりぽりと頬を掻いた。
「何故って…そりゃ背ぇ高くて、すっと背筋が伸びてて…でも、」
向井の視線が、目黒の足元へと落ちる。
「歩く音…かな。閣下は片脚の音が秒針の間に当て嵌まってるっちゅうか…まぁ、何か直ぐ分かりましたわ。」
「………。」
《知らんけど、》と快活に笑う向井に目黒は言葉を失った。
屋敷の人間ですら、視覚だけでしか判断しないというのに。此の男は、ほんの数回しか聴いた事の無い自分の足音と佇まいだけで、一瞬にして見抜いて見せたのだ。
「…あ、もしかしてお忍びでした?大声で言うて…!」
慌てて口元を両手で押さえる向井。其の無垢で嘘の無い仕草に、目黒の胸の奥に溜まっていた冷たい孤独が小さな音を立てて揺らぐ。
「…構わん。」
そう呟いた直後、雨脚が少しずつ強まり、二人の肩を濡らし始めていた。
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🖤🧡の温度差を感じながらも、🧡と💜には心許してるの伝わりました…!! 無理せず更新待ってます!
ほむぺ⋆*
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