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26 - 第26話 最終章 “二つ”が持つ意味 [ 二つの記憶 ]

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2025年09月13日

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【2007年3月1日(木)】

[ニューヨーク]

ハナが身を小さく震わせるのを見て、メイソンは無言で立ち上がり、部屋の片隅に置かれたストーブのスイッチを入れた。

静かな“カチリ”という音が部屋に響き、じんわりと柔らかなぬくもりが広がっていく。


「3か月前のことよ。彼はニューヨークへ戻ってきたの」

「彼って……あの、写真の女の子をメイクした方ですか?」


視線が自然とあの写真に引き寄せられる。

まるで光を孕んだように柔らかく笑う少女――笑顔に宿る何かが、心を掴んで離さない。

その姿は、記憶の底で何かと繋がりかけている気がした。

メイソンは静かに頷き、まだ温かさの残るコーヒーを口に含む。

湯気が細く揺れ、その温もりとともに、時間がほんの少しだけ緩む。


「戻ってきた、ということは……それまで、どこか別の国に行っていたんですか?」

「ええ、日本よ」


その瞬間、稲妻が脳内を走ったような鋭い痛みがこめかみを貫いた。

ハナは思わず頭を押さえ、背もたれに体を預ける。

胸の奥が大きく脈打ち、呼吸が乱れる。息が、うまくできない。

鼓動の音が耳の奥で反響する。

――何かが、思い出せそうな気がする。

たしか私は……交差点で――

車のライト、強い衝撃、そして――

“闇”



* * * * * *

――ここは……どこ?

ぼんやりとした視界の先に、白く滲む天井が揺れていた。

……病院?


「よかった……目を覚ましてくれて……」


涙を滲ませながら、ベッドの傍に立つ誰かがそう言った。

けれど、その顔にまるで見覚えがない。

この人は……誰?

恐怖と混乱が一気に押し寄せる。

胸の奥が凍りついていくような不安。


「あなたは……誰ですか?」


震える声でそう呟いたチカに、ミサキは一瞬きょとんとした顔をしたのち、無理に笑ってみせた。


「えっ? ちょっと、またまた……!」


茶化すような口調だったが、その声には明らかな動揺が滲んでいた。

虚しく響いた声が、病室の静寂に吸い込まれた。


「ほんとに……私の名前、わからないの?」

「……はい。誰……ですか?」

「ミサキだよ。ミサキ。忘れちゃったの?」

「ミサキ、さん……?」

「じゃあ、自分の名前は? 思い出せる?」

「じぶんの、名前……?」

「全部……全部、忘れちゃったの? 私のことも、“愛する人”のことも……」


ミサキは堪えきれず、チカの手を力いっぱい握った。

その手はかすかに震えていた。


「……アイスルヒト……?」


チカの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、両手で頭を抱える。

鋭い痛みに眉をしかめ、呻くように身をよじった。

それは、現実を拒絶する身体の反応だった。

ミサキの中で、何かが音を立てて崩れていく。


「ああ……いや……いやっ……!」


その姿を前に、抑えていた感情がついに溢れ、ミサキは大声をあげて泣き出した。


「君の名前は――チカだ」


そう告げたのは、病室の隅にいたジュンだった。

彼もまた、言葉の一つ一つを噛み締めるように話していた。

苦しげに声を絞り出しながら、カバンから手帳を取り出すと、一文字ずつ丁寧に漢字を書いた。


「“千の花”と書いて、“チカ”。君の名前だ」

「……センノ、ハナ……?」


チカはまるで幼子のように首をかしげ、ゆっくりと繰り返した。

混乱した瞳は焦点を結ばず、恐怖と困惑だけが宿っている。

わけもわからず戸惑い続ける彼女は、再び頭を抱え、ぶんぶんと左右に首を振り続けた。

その姿に、ジュンはただ唇を噛みしめるしかなかった。

そのとき、病室の扉が開き、息を切らしたタカユキが駆け込んできた。

チカはおびえたようにベッドの奥へ身を引く。


「この人は……誰ですか……?」


震える声でジュンに尋ねるチカに、ジュンは優しく微笑みながら答える。


「同じ職場の人だよ。名前はタカユキ。優しい人だよ」


なるべく恐怖を与えないよう、言葉を選びながらゆっくりと説明する。

それを聞いていたタカユキは、その場に立ち尽くしたまま、言葉を失った。

そこにあったのは、ただ“失われた過去”の存在を、誰もが認めざるを得ない静かな絶望だった。

誰もがその現実の重さに声を奪われたまま、しばしの沈黙が病室を支配した。

* * * * * *



しばらくして、チカの両親が福島から到着した。

ジュンとタカユキは、力なく項垂れるミサキを支えながら病室を後にする。

三人は無言のまま、ロビーの一角で足を止めた。

重苦しい沈黙を破ったのは、タカユキの憤りを帯びた声だった。


「……あのケンって奴が、俺にはどうしても許せない。チカをあんなに傷つけておいて、まるで切り捨てるみたいに目の前から消えやがった……同じ男として、情けないって思うんですよ。最低な奴ですよ」


ジュンはその言葉に応えず、深く視線を落とした。

心のどこかで、否定も肯定もできない何かが、ずっと胸に引っかかっていた。

そのとき――


「情けない男、だろうか。最低な男、だろうか?」


その場の空気を裂くように、鋭くも静かな声が響いた。

振り返ると、偶然ロビーを通りかかった院長が、立ち止まっていた。

低く落ち着いた声だったが、確かに熱を孕んでいた。


「君は、彼の何を知っている?」


強く向けられた視線に、タカユキは言葉を失い、俯いた。


「誰かのために、何かをしてやりたいと思う気持ちがある。愛する人の未来を守るために、自分を犠牲にしてまで身を引くことが、本当に“情けない”ことだろうか? “最低”と断じていいことなのか?」


院長の声には静かな怒りと、深い哀しみが滲んでいた。

その問いかけに、誰も何も言えなかった。

言葉にできない何かが、喉の奥でつかえたまま沈黙が広がる。


「私は、そうは思わない。むしろ、彼を心から尊敬している。あれほど人を深く想い、愛せる人間を、私はほかに知らない」


そう告げた院長は、目にかすかな陰を宿したまま、その場を後にした。

ジュンは言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。

脳裏には、いつかのケンの笑顔と、消えていったあの日の後ろ姿が静かに浮かんでいた――。

あれから、1週間が経った。

チカは実家の福島へ戻り、療養を続けていた。

ジュンは有給を使い、数日間の休みを取ってチカの実家を訪ねることにした。

チカの母親とは、以前から面識がある。

まだチカがアシスタントとして働き始めたばかりの頃、東京に遊びに来た母親の髪を、ジュンが何度かカットしたことがあった。

チャイムを鳴らすと、慌ただしい足音とともにドアが開いた。

一瞬、母親の表情に戸惑いが浮かぶ。

だがすぐに記憶を辿り、柔らかな笑みを浮かべた。


「あら、あなたはチカの先輩の……」

「こんにちは。突然すみません。チカさんの容態が気になりまして……」

「それでわざわざ福島まで。まあ、こんなところで立ち話もなんですから、どうぞお入りになって」


招かれるまま家の中へ通されると、ジュンはすぐに尋ねた。


「記憶は……少しでも戻りましたか?」

「……いえ。まったくと言っていいほど戻っていません。もう……自分の名前も“ハナ”だと、思い込んでしまっているの」

「僕が“千花”と書いて教えてしまったせいかもしれません……」

「部屋に閉じこもって、外へ出ようともしないんです。お医者さまからも、このまま記憶が戻らない可能性もあると言われていて……。もう、私たちにもどうしていいのか……」


少しの希望にすがって訪ねたジュンだったが、その淡い期待はあっさりと砕かれた。

しばらく外に出ていないというチカをジュンはそっと誘い出し、近くの小高い丘にある見晴らしのいい公園へ連れ出すことにした。

まだ雪の残る遊歩道を歩き、ふたりは静かにベンチへ腰を下ろす。

チカは無言のまま、左手の薬指に光るリングを見つめ続けていた。

まるでそこに、自分の存在のすべてが刻まれているかのように。


「その指輪の意味が、わかるか?」


ジュンの問いかけに、チカはゆっくりと視線を上げた。


「……結婚?」

「そうだな。けど、お前たちにとっては――それ以上の“絆”だったのかもしれない」


言葉を選びながら、ジュンは自身の心の中でもがいていた。

忘れているままでいさせた方が、チカは楽なのかもしれない。

真実を話したところで、それが彼女の心を引き裂くだけだとしたら……。

ケンが、すべてを抱えて姿を消したのも、そういう理由だった。

チカの未来を想い、あえて“別れ”を選んだ――愛する人のために。

――だとしても。

それでは、あまりにも悲しすぎるじゃないか。

そうだろう、ケン……。

ジュンはチカを見つめる。

何も思い出せないまま、それでも必死に生きようとしている、儚くも強い姿を。


「なあ、チカ。世の中にはさ……知らない方が幸せなこともある。けどもし、自分の記憶の中から、“大切な宝物”が消えてしまっていたとしたら。たとえそれが、お前を傷つけるものだったとしても。……それでも、知りたいって思うか?」


チカはしばし指輪を見つめたまま黙っていた。

やがて、ゆっくりと唇を開く。


「それが……それが本当に、私の“大切な宝物”だったなら――知りたい」


その答えに、ジュンは小さく息を吐いた。

何かを吹っ切るように、短く、静かに。

そして、迷いを断ち切るように静かに言った。


画像


「チカ――ニューヨークへ行くんだ」

「……ニューヨーク?」

「そう。そこに、お前の“大切なモノ”がすべてある。お前自身の記憶も、お前との出逢いを、愛を、“運命”だと信じているあいつも。全部、お前の手で探し出すんだ。あいつのために。――いや、何よりお前自身のために」


ジュンは、チカの両親にすべての事情を話した。

このままでは記憶が戻らないこと。

だが、ニューヨークに“鍵”があること。

そして――それは、彼女が自分自身で向き合わなければならないこと。

今の状態で、ひとりで異国へ行かせることは危険だとわかっていた。

当然、両親の不安は大きかった。

それでも、どうしても譲れなかった。

これはチカの「思い出したい」という強い意思だ。

そして、記憶を取り戻すために残された、たったひとつの方法でもある。

誰かに守られながらでは意味がない。

彼女が自分の足で向き合わなければ――。

説得は数時間にも及んだ。

何度も言葉を尽くし、ジュンは両親の不安と真っ向から向き合った。

そしてようやく、ジュンが全面的にサポートすることを条件に、承諾を得たのだった。

チカは、再び“自分”を探すための旅に出る。

愛を、記憶を、そして“運命”という名の真実を探すために――。



[ニューヨーク]

「どうしたの? 大丈夫?」


メイソンは、こめかみを押さえたまま俯いているハナを、そっと気遣うように見つめた。


「……ええ、大丈夫です」


ハナが小さく答えると、ふたりの間に静かな沈黙が降りた。

その沈黙の中で、ハナは呼吸を整えながら、ゆっくりと気持ちを立て直していった。


「あなたは、大切なモノを探しにニューヨークへ来たと言っていたわね」

「はい」

「でも……それを見つけたことで、何かを失ってしまうかもしれない。それでも本当に構わないの?」


メイソンの声には、どこか深い憂いが滲んでいた。


「それが本当に、私にとって“大切なモノ”なら――たとえ何かを失っても、構いません」


答えながら、ハナはふと目を伏せた。

独りでいることに怯え、誰かに寄りかかることでしか生きられなかった過去の自分。

けれど――もし、最後の“大切なモノ”までも失ってしまったなら。

そのとき、私は本当の意味で独りになれるのかもしれない。

その“独り”は、もう怖くないのかもしれない――。

ふいにメイソンが、何かを決心したように静かに語り始めた。


「あの子はね、人の幸せを自分のことのように心から喜び、人の不幸には本気で涙を流せるような子だった」

「……彼は、自分が最も愛する人に別れを告げて、このニューヨークへやって来たの。辛くて悲しい――あまりにも重たい“真実”から、大切な人を守るために。そしてそのために、自分の心を――すべての感情を、無理やりにでも凍らせて……」


その声は震えていた。

けれど、そこに宿る熱だけは、確かにハナの胸に届いていた。

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