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人魚姫って、綺麗な話だけどあまり好きじゃないんだよね。
いつぞやの夜、そうぼやいたおれに、阿部ちゃんはくりくりとした目を向けて、どうして?と尋ねてきた。
だって諦めが早すぎるじゃん。喋れないなら、文字でも、絵でも、身振り手振りでも、どうにかして王子に気持ちを伝えたらいいのに。
子どもの頃に人魚姫の話を知ってからずっともやもやしていたことをぶつけると、阿部ちゃんは、蓮らしいね、と言って笑い、それから言葉を続けた。
でも、俺には人魚姫の気持ちもわかるな。相手には自分じゃない他の誰かがもういて、その人に気持ちが向いているのに、何が何でも伝えようとは思えないっていうこともあるじゃん。
阿部ちゃんの言い分はなるほど相手を思いやる彼らしい考えだった。阿部ちゃんならきっとそうだろうね、と肩を抱き寄せると、されるがまま頭を預けてくる。
もし阿部ちゃんが人魚姫でおれが王子だったら、絶対に阿部ちゃんに気づくよ。もしそのときおれに他の相手がいても、違うこの人じゃないって見抜ける自信ある。
えぇ、本当かなぁ、と訝しげに笑いながら、でも蓮だったら本当に気づいてくれそうだなぁ、と阿部ちゃんは微笑んだ。俺のこと、俺よりわかってるときあるもんね、と嬉しそうに。
そうだったらいいなと思う。阿部ちゃんのことがわかるのは、阿部ちゃんを見ているから。阿部ちゃんを見ているのは、ちょっとしたことでも見落とさないようにして、彼の気持ちに寄り添いたいから。誰よりも優しい彼が、その優しさゆえに傷ついたり苦しんだりすることが無いように、守ってあげたいと思うから。
その気持ちは恋人同士になる前からずっと変わらない。もしかしたらそれよりもっと前、おれの中に彼への恋心が芽生えるよりも前から、ずっと。
目が覚めると、阿部ちゃんの顔があった。
いつの間にかおれは阿部ちゃんを抱きしめるようにして眠っていたようだ。おれが無意識に抱き込んだのか、それとも彼自ら入ってきたのかは定かではないけど、おれの腕の中の阿部ちゃんは幸せそうにまどろんでいる。
頬を撫でてみるとやはり冷たくて、触れ合っている胸からも心音はしない。温度を持たない体は明らかにつくりものなのに、腕に伝わってくるのは阿部ちゃんを抱きしめている感覚そのもので、どちらを信じたらいいのかわからなくなる。
今が昼か夜かも判然としないけど、寝て起きたということは一応日付が変わったと思っていいのだろうか。本当に、わからないことだらけだ。
とりあえずそういうことにしておいて、昨日を振り返ってみる。とはいっても得られた情報は限りなく少ない。どこかもわからない海の中の何もかもが白い部屋に、阿部ちゃんと二人で閉じ込められた。その阿部ちゃんも、本来の阿部ちゃんとはかけ離れた姿になってしまっている。全身がビスクドールとなった見た目だけではなく、きっと中身も。
無垢で、無防備で、無知。本来の彼が持っている清濁併せ呑む高潔な純粋さとは違う、何も知らない幼子が持つ純真さのように感じられた。そして、それだけではない何か昏いものが潜んでいるようにも。
彼の身に何が起きたのかはわからない。けれど、何かが起きたのは間違いない。阿部ちゃんが元に戻る方法はあるのだろうか。
そんなことを考えながら、寝乱れている阿部ちゃんの髪をそっと梳き、指のあいだをさらさらと流れる髪の感触を味わう。しばらくそうしているうちに、やがて長い睫毛がふるりと震え、薄い瞼がゆっくりと開いた。
「おはよう、蓮」
おれの顔をみとめた阿部ちゃんがとろけるような微笑みを浮かべる。
その表情に、どうしても胸が高鳴らずにいられない。
「おはよう、阿部ちゃん」
半ば無意識で再び彼の髪を掬っている自分に気づいて、はっとする。こうしてベッドでだらだらしていては何も進まない。とにかく何でもいいからこの部屋を出る手立てを見つけなくては。
意を決して体を起こし、ベッドから出るおれに、阿部ちゃんが「ねぇ、蓮」と声をかけてくる。
「ごはん作って。お腹減っちゃった」
足をぱたぱたさせながら無邪気にねだってくる姿に、自然と笑みがこぼれた口で「何がいい?」と聞いた。返ってきた答えは想像どおり、「蓮が作ってくれるなら何でもいい」だった。
もともと人に甘えたり頼ったりすることが苦手な性分の阿部ちゃんが甘える相手は限られていて、その相手なりの甘え方がある。ふっかさんや佐久間くんとは長い付き合いでお互いをよく知っているからこそいい意味で遠慮が無いし、岩本くんには唯一の同い年らしい気兼ねなさがありつつもまるで兄弟みたいに程よく彼を頼っているし、ラウールとはおれの頭じゃとうてい理解が及ばないレベルの高い話で楽しそうに盛り上がる。舘さんやしょっぴー、康二とも、それぞれの関係性を築いている。羨ましいと思ったことが無いと言ったら嘘になる。おれじゃない誰かの前でおれに対するときとは違う態度を取っている阿部ちゃんを見るたび、あんなふうに遠慮なく接してくれたら、おれの側でもあれくらい気安くいてくれたら、と思わずにいられなかった。彼の優しさや思いやりに満ちた言動を、何となく一線を引かれているように感じて、もしやおれとの距離を測りかねているなりの気遣いなのではと考えたことさえあった。
そんな阿部ちゃんの態度が、おれに特別な感情を抱いてくれていたからこそだった、と知ったとき。他の誰でもないおれが、彼にとっての唯一で特別たりえるのだと知ったとき。思わず、もう死んでもいいわ、と口走ってしまうほどの喜びと愛おしさが、おれを圧倒した。阿部ちゃんを愛おしいと思う気持ち以外のすべてが、その衝撃で吹き飛んだ。勢い余って彼を抱きすくめたおれの腕の中で「死ぬなよ、元気に生きてずっと一緒にいてよ」と阿部ちゃんが笑い、その言葉の意味するところを理解して、やっぱりおれ死ぬわ、と思った。阿部ちゃんを悲しませることなんてしたくないから絶対に死なないけど。
恋人という関係性が新たに加わってから、阿部ちゃんはおれが知らなかった一面を徐々に見せてくれるようになった。生活の中で垣間見える、ちょっと気を抜いた顔。ささいなことで喜びをあらわにし、無邪気にはしゃぐ顔。品行方正を崩すときの、いたずらっぽい、嬉しそうな顔。おれに抱かれてぐずぐずにとろけきった、快感と愛欲を隠さない顔。あ、これはきっとおれにしか見せない顔だ、と気づくたび、胸がくすぐったくなる。他人を容易に心のうちに入れない阿部ちゃんの、おれしか知らないその心の深部に、招き入れてもらっているような心地がする。その信頼に報いたいという思いが、おれを誠実でいさせてくれる。だから彼には嘘をつきたくないし、優しくありたい。そのうえで、好きだからこそちょっといじわるしたくなってしまう気持ちもあるけど、阿部ちゃんはきちんと受け入れてくれる。噂によると彼も恋愛面ではソフトSだそうだから、おれの男心をわかってくれているのだろう。阿部ちゃんのそれらしい言動はたまに見るものの、おれからすれば可愛い以外の何ものでもないので、それっぽいなという印象にとどまるが、正直なところ彼のやることなすことすべてが可愛いので致し方ない。
阿部ちゃんをベッドに残したままキッチンに向かい、朝食をつくる。朝は納豆ご飯が定番である彼に合わせようとも思ったが、この空間に納豆のにおいを漂わせるのもいかがなものかと思い(においを気にするようなことをしようと考えたわけではない、決して)白米に焼鮭、味噌汁、具の入った卵焼きというザ・日本の朝ごはんなメニューにした。阿部ちゃんと付き合い始めてから、おれの料理スキルは輪をかけて上達している自負がある。
「阿部ちゃん、朝ごはん出来たよ」
「わぁ、ありがとう。美味しそう」
二人でテーブルについて、いただきます、と手を合わせる。
阿部ちゃんが全身ビスクドールになってしまっているにもかかわらず「ご飯を食べる」という行為をしていることにはやはり疑問を覚えるものの、食事をする彼は昨日に比べると所作のたどたどしさがなくなっているように見えた。すっかり慣れた手つきで、スムーズに食べ物を口に運ぶ。そんな様子をじっと見ていると、おれの視線に気づいたのか、阿部ちゃんがこちらを見てにっこりと笑った。
あれ、と思わず声が漏れた。
精巧なグラスアイだったはずの彼の瞳が、人間のそれになっている。
きらきらと光るガラス玉の代わりにつややかな虹彩が覗くその双眸は、明らかに人間の目で、おれにとって誰のどんな瞳よりも見覚えがある三白眼だ。
もしかして、と考える。
阿部ちゃんは、少しずつ人間の身体になっているのだろうか。だから当たり前のように食事を摂っているのだろうか。
――このままこうしていれば、そのうち彼は人形ではなくなるのではないか。
それは喜ぶべきことなのか、今のおれには判断がつかない。そうなった阿部ちゃんが果たして元の阿部ちゃんに戻るのかという保証もない。
けれど、目の前の阿部ちゃんは、おれの愛する阿部ちゃんの姿に他ならない。
確かなことはそれだけ。
ただそれだけが、おれをこのおよそ現実とは思えない空間に繋ぎ止めている。
三文小説
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🖤から💚への愛いっぱいだね。 不思議な世界にいるのに 少しづつ元の世界に生活に戻ると良いな😁 続き待ってます♪