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「深淵に潜む取引」
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〔オンボロ寮・朝のリビング〕
春を迎えたオンボロ寮の朝。
少し肌寒い空気の中、グリムがふわぁと欠伸をしながら階段を降りてきた。
「んにゃ~……今日も授業かニャ……オレ様、春眠暁を覚えずだニャ……」
「それを言うなら、“春眠暁を覚えず”ですね。詩の表現を借りるなんて、素敵なことです」
「ネメシス、それ褒めてるのかニャ……?」
「半分くらいは褒めてるかもね。グリムが詩なんて、ちょっとレアだし」
フェイドは、制服の袖を整えながら、微笑んでユウと目を合わせた。
「……春は、何かが芽吹く季節。
けれど、同時に“水面下”では静かに、色々なものが動き出す時期でもあります」
「ネメシス、それ意味深すぎるって……。まさかまた、なんか起こるとか?」
「ふふ…どうでしょうね。」
フェイドは軽く流し、ただ遠くの空を見た。
(――動き出す。あの人たちが)
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〔昼休み・廊下/文化祭の噂〕
学園では、昼休みに入るとすぐに生徒たちがざわざわと話し始めていた。
「なぁなぁ、聞いた? 文化祭の準備始まるってよ!」
「去年より盛り上がるらしいよ! オクタヴィネルのアズール先輩が、色々裏で手配してるとか」
「でもなんか契約しなきゃ展示も参加もできないとか……」
フェイドは廊下の隅で、その会話を静かに聞いていた。
(アズール・アーシェングロット。リーチ兄弟の寮長。そして――)
「“取引”を信条とする者……か」
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〔放課後・オンボロ寮の廊下〕
授業を終えて寮に戻った後も、エースとデュースはそわそわと話し続けていた。
「なーなー、ユウ、ネメシス! オレらのクラスもなんか出し物しないか?」
「でも、なんか“契約書書け”とか言われたってエペルが言ってたぞ……
あのアズールって先輩、ちょっと……怖くないか?」
「彼は、欲しいものを得るために努力を惜しまない方です。
ある意味では、とても真面目で誠実とも言えるでしょう」
「ネメシス、あんたたまに誰よりも怖いこと言うよな……」
その時。
寮の扉がノックされた。
「失礼します。オンボロ寮にお住まいの方々に、文化祭のご案内です。」
軽やかで涼しげな声――
ジェイド・リーチだった。
〔オンボロ寮・応接室〕
「おやおや……皆さんで“文化祭のご相談”中でしたか?
それなら、この“参加契約書”をご覧いただくとスムーズですよ」
ジェイドが差し出した契約書は、文字がびっしりと詰め込まれた、やけに分厚いものだった。
「うわ、なんだこれ……難しすぎない!? オレ、読む気失せた……!」
「なんか“契約不履行時はペナルティを支払う”って書いてるけど……!」
「……これは、“自由”を装った“拘束”ですね」
フェイドは契約書をぱらぱらとめくりながら、静かにそう言った。
ジェイドは目を細めて笑う。
「……さすがですね、ネメシスさん。
“本質”に触れられる方とは、話していてとても楽しいですよ」
「やっぱ、リーチ兄弟……怖いって……!」
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〔その夜・フェイドの部屋〕
月明かりの下、フェイドは机に座って手帳を開いていた。
(オクタヴィネルが動いた。この文化祭――ただの行事ではない)
窓の外には、静かに潮の気配が漂っていた。
「契約という名の檻」
–オクタヴィネル編 本編開始–
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〔昼休み・教室内〕
昼の鐘が鳴り、ざわつく教室。
フェイドはいつも通り、教室の窓際で静かに昼食を取っていた。
斜め前の席では、エースとデュースが騒いでいる。
「なあ、ユウ。やっぱ文化祭、参加するべきだよな?」
「参加ってもさ……契約書が怖いんだって。あのアズール先輩、笑ってるけど……笑ってないっていうか」
「“笑顔という仮面”ですね。あの方は、昔からそうでしたよ」
「……ん? ネメシス、知り合いだったの?」
アウルは一瞬、言葉を止め――静かに首を振った。
「“面識がある”程度です。けれど、彼がどういう方かは……なんとなく、知っているつもりです」
(アズール。あなたは今も――変わらないのですか?)
フェイドの胸に、幼い頃の記憶がふとよぎった。
〔回想・幼少期の頃/海の底の一室〕
仄暗い水の中。
それでも、小さなランプが灯った部屋には、三人の子どもたちがいた。
一人は、辞書を抱えて背を向けるアズール。
もう一人は、妙にニコニコしているジェイド。
そして、少し困った顔で座っているフェイド。
「……アズール、また新しい契約書作ったの?」
「うん。今度は“願いが叶ったあとの追加条項”もちゃんとつけたんだ」
「うわぁ……また複雑になってる。相手、ちゃんと読めるかな……」
「読まなくていいよ。サインだけしてくれれば、それで成立するようにしてあるから」
フェイドは、思わずため息をついた。
「……あのね、アズール。“正しすぎる”ことって、時に優しさから遠ざかるんだよ」
「優しさ? なにそれ……それで得するの?」
ジェイドが後ろからひょこっと顔を出す。
「おやおや、……今日もお説教ですか?」
「……別に、そういうつもりじゃないよ」
けれどフェイドはその時――
幼いながら、どこか“違和感”を覚えていた。
(アズールのまなざしは……誰かを見てるようで、誰も見てない)
〔現実・昼休み教室〕
ふと、グリムが顔を出す。
「おーい! オレ様腹減ったニャー!! 早く購買行こうぜ、ユウー!」
「あっ、ごめんネメシス、またあとでね! 昼のパン買わないと売り切れる!」
「行ってらっしゃいませ。パン争奪戦、どうぞご武運を」
フェイドは微笑みながら手を振り、教室に残った。
彼の目は、まだどこか遠くを見つめていた。
〔放課後・オクタヴィネル寮前〕
その日の放課後。
フェイドはひとり、オクタヴィネル寮の前に立っていた。
冷たい潮の匂い、青みがかった光。
久しぶりに訪れるその場所に、どこか懐かしさと緊張が混じる。
扉が開いた。
姿を現したのは――アズール・アーシェングロット。
「……これはこれは。ようこそ、我が寮へ――“フェイド”」
その名を呼ばれた瞬間、フェイドの表情から微笑が消えた。
「……学園では、“ネメシス”と呼ばれております」
「ふふ……なら、ここは“学園の中”ですか? “外”ですか?」
アズールの笑顔は変わらない。
けれどその声色には、幼少の頃よりさらに深く――冷たい海の底のような静けさがあった。
✧ 第三章②
「取引の再開」
–アズールとフェイド、そして過去に沈んだ契約–
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〔オクタヴィネル寮・迎賓室〕
潮の香りと、青白い照明。
それはまるで、深海を模したような空間だった。
ネメシス――いや、フェイドは、椅子に腰掛けていた。
対面にはアズール。その後方には、ジェイドが静かに立っている。
「さて、ようやくお越しくださったね。……久しぶりだ、フェイド」
「この学園では“ネメシス”と名乗っています。
あなたほどの頭脳があれば、守秘の重さも理解できるでしょう?」
「もちろん。“君の秘密”は、僕にとっては資産のようなものだ。
たやすく他人に明かすほど、僕は安くない」
アズールは静かに微笑む。
だが、その表情の裏には、昔から変わらぬ乾いた執着が滲んでいた。
「ねぇ、フェイド。どうして貴方は“僕と手を組んでくれない”のですか?」
フェイドは少しだけ目を伏せる。
「……変わっていないね。
君は“求める”ことに忠実だけど、“与えること”には不器用すぎる」
アズールの眉が、わずかに動いた。
そのとき、後ろで立っていたジェイドが、くすりと笑う。
「まったく、懐かしい空気ですね……。二人がこうして言葉を交わすのは、何年ぶりでしょう?」
「そうだね。フェイドと話すと、どうしてか“無性に言い負かしたく”なるよ」
「それは、“自分の正しさを測るためにしか他人を見ていない”からですよ、アズール」
沈黙。
アズールは笑っていたが、手元に置かれた契約書の角を、指でゆっくりと押しつぶしていた。
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〔オンボロ寮・夕暮れ〕
その頃、ユウ・エース・デュース・グリムは寮のリビングで文化祭の準備をしていた。
「うーん……やっぱダメだ。契約書、何回読んでも罠くさい」
「アズール先輩、めっちゃいい人そうに笑ってるけどなぁ……
けど、“展示スペース借りたいなら、契約しないと”って、ちょっとおかしくね?」
「それ、ちゃんと“圧力”っていうんだニャ……」
ユウはふと、黙っているフェイドの顔を見た。
「……ネメシス?」
「……申し訳ありません。少し、思案しておりました」
「アズール先輩のこと?」
「ええ。彼は、与える対価を正しく測れる人です。
ただし、“誤差”が生じることを容赦しない」
エースとデュースが、同時に顔をしかめる。
「要するに……気を抜くと“やばい目に遭う”ってこと?」
「簡潔に言えば、そうなりますね」
グリムがソファに沈みながらぼやく。
「ただの文化祭だろ、 もっと楽しくならねぇのかニャ」
その一言に、フェイドはふと目を細めて微笑んだ。
「そうですね。せっかくの“学園生活”なのですから。
少しでも、楽しいものにできるように……私は、動くべきかもしれません」
〔夜・フェイドの部屋/リーチ兄弟の来訪〕
夜更け。
オンボロ寮の静寂の中、控えめなノックが響いた。
扉の前にいたのは――ジェイド。
「こんばんは。夜分に失礼します、フェイド」
「どうしたんですか、ジェイド。アズールの使いでも?」
「いえ、“兄妹として”少し、会いたくなっただけです」
フェイドは、静かに扉を開ける。
「貴女の仮面、だいぶ歪んできましたよ。
誰かに“守られている自分”を続けていくには……少し無理があるのでは?」
「私は……“守る側”になってしまうことを、恐れているだけです。」
「恐れる? フェイドが?」
「……お兄様たちを置いて、出てきてしまった。
“戻った”と言えるような関係には、まだなれない気がして……」
ジェイドは静かに笑った。
「それでも、貴女がまだ“僕たちを見てくれている”なら、それでいい」
「アズールは、昔から“強い人に嫌われたくない子”なんです。
だから今でも――フェイドに“認めてほしい”のでしょうね」
沈黙。
フェイドはただ、目を伏せて呟いた。
「……変わっていないんですね、みんな」
「契約の檻にて」
–絡み合う過去と現在、そして“見抜く瞳”–
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〔昼下がり・オンボロ寮のリビング〕
オンボロ寮の窓からは、学園の塔が見えた。
春の風がカーテンを揺らし、グリムがそれをつかまえようとしてこける。
「にゃあっ! つ、捕まえたと思ったのに……!」
「グリム、それ“風”だからね……」
ユウが笑いながら座布団を渡し、グリムはもそもそとくるまる。
その向かい側で、フェイドは紅茶を入れていた。
「暖かくなってまいりましたね。
この季節の陽気は、眠気を誘いますが……その分、心もほどけていくようでございます」
「ほんと、ネメシスの言葉って聞いてると眠くなるなぁ……」
「オレ様は嫌いじゃないぞ。」
「あはは……お二人とも、それは褒め言葉として受け取ってよろしいのでしょうか」
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〔その夕方・廊下にて〕
ユウたちが先に帰ったあと、エースとデュースがひそひそと相談を始めた。
「なあ、デュース。アズール先輩のとこ、行ってみようぜ。
契約ってヤバいって話だけど、やっぱ文化祭で何か出すにはさ……」
「でも、“魔法を一時的に提供する”って項目、気にならないか? それって……」
角を曲がった先で、フェイドが立ち止まっていた。
「あっ、ネメシス……今の、聞こえてた?」
「ええ。ですが、叱るつもりはございません。
“行動しよう”とされていること、それ自体が、すでに一歩でございますから」
フェイドは静かに二人を見る。
「アズール先輩との契約は、確かに“罠”のように見えるかもしれません。
けれど――その罠は、己が足で踏み抜いたものでなければ、決して“気づく”ことはできません」
「……つまり、試してみろってこと?」
「いいえ。お勧めしているわけではありません。
ただ、“選んだなら、その先で後悔なさらぬよう”というだけです」
エースとデュースは、思わず言葉を失った。
その語り口はあまりにも柔らかく、けれど――どこか背筋を撫でられるような静けさがあった。
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〔夜・オクタヴィネル寮・水槽前〕
アズールのもとを訪れたエースとデュース。
彼らは自らの意思で契約を結び、展示の権利と引き換えに、“一部の魔法使用権”を預けた。
アズールは、優雅に手を組んでいた。
「ようこそ、僕の“深淵”へ。
約束を守る限り、皆さんに損のない取引であると保証しましょう」
彼の横では、ジェイドがにこやかに頷く。
「契約とは、信用を繋ぐ鎖……それを断ち切るのも、またご自身の責任でございます」
〔翌朝・オンボロ寮・キッチン〕
早朝。
フェイドは一人、キッチンでパンを焼いていた。
まだ誰も起きていない、静かな時間。
けれど彼女の耳には、昨日のやりとりが反響していた。
(アズール……貴方は今、何を背負って“取り引き”を続けているのですか?)
「おはよー、ネメシス……わ、いい匂い……!」
「おはようございます、ユウさん。
目覚めに香りが良い食事は、心を整える効果があるそうですよ」
「……ほんと、ネメシスって、なんでそんなに丁寧で優しいの?」
「――そうでなければ、“不自然”だったから、でしょうか」
ぽつりと零れた言葉に、ユウは少しだけ黙った。
けれどすぐに、笑って朝食の席につく。
そして、また何気ない朝が始まる。
「沈む館の調べ」
–仮面の下に揺れる真意と、静かに満ちる水音–
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〔昼・学園 廊下〕
文化祭の準備が進む中、学園内の空気がどこかざわめいていた。
エースとデュースは、以前より元気がないように見える。
魔法を一時的に引き渡したことによる**精神的な“重さ”**が、じわじわと表面に滲み出ていた。
「……はぁ、最近妙に疲れる。なんか、体も重いしさ」
「おまけにアズール先輩から“追加でお願い”されたって……。
展示のためとはいえ、これって……ほんとにただの文化祭かよ?」
ユウもその様子に気づき、不安げな表情を浮かべていた。
そんな彼女たちの横で、フェイド――ネメシスは、変わらぬ穏やかな微笑を浮かべていた。
「無理はなさらないでくださいね。心が擦り切れてしまえば、誰も得をしないのですから」
「……ネメシスって、やっぱなんか見抜いてるよな」
「いえ。私はただ、目の前の方の“今の声”を、聞いているだけです」
その言葉に、ユウは少しだけ顔を和らげた。
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〔放課後・オンボロ寮〕
フェイドはリビングで、グリムと静かに座っていた。
夕食の準備が始まる前の、わずかなひととき。
「最近、エースたち元気ないニャ。
ユウもずっと心配してるし……ネメシスはどう思う?」
「契約というものは、本来、双方の納得と信頼の上に成り立つものです。
けれど、“見えない力関係”が加われば、それは支配へと変わります」
「……よくわかんねぇけど、オレ様、そういうのキライだニャ」
フェイドはふと、静かに視線を落とした。
「私も……そういうものを、かつて“閉じ込める側”に回りかけたことがあるのです。
だからこそ、今は“見ていたい”。皆さんの中にある、ほんの小さな変化でも」
その声は、どこまでも穏やかで優しく、けれど――芯が通っていた。
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〔夜・オクタヴィネル寮・展示スペース〕
その夜。
フェイドは一人、オクタヴィネル寮に足を踏み入れていた。
表向きは展示の進捗確認という名目だったが、その実――水面下の観察が目的だった。
「おや、いらっしゃいませ。ようこそ、オクタヴィネルへ。」
ジェイドが静かに迎え入れる。
「フェイド。……今日は“どちらの顔”でお越しですか?」
「……ネメシスとして、です。けれど“素の部分”を隠しきるには、今夜は少し……水が澄みすぎている気がいたします」
アズールの姿は見えなかった。
ジェイドは、展示用の衣装の箱を開けながら微笑む。
「アズールは、今夜ひとりで“新たな契約の整理”をしているようですよ。
少々、思い通りに事が運ばないことに苛立っている様子でして」
「そう……でしょうね。彼は“予定通りにことが運ぶ”ことで、自分の正しさを保ってきた方ですから」
「フェイド……いや、貴女が戻ってきたことで、彼は“確信を問われている”のかもしれません」
フェイドは小さく、けれどはっきりと笑った。
「私にとっても、これは……試練のようなものかもしれませんね。
過去に背を向け続けるわけには、いかないのですから」
その笑みに、ジェイドもわずかに目を細める。
「昔のように、ただの妹ではなく――
今は、誰かの“心を守るために在る者”ですね。……どうか、お気をつけて」
「沈黙と鎖と仮面」
–“正しさ”に縛られる者と、それを見つめる瞳–
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〔放課後・学園内の中庭〕
陽が傾き始めた時間。
ネメシス(フェイド)は、図書室の帰りにふと中庭を通りかかると、そこに座り込むユウの姿が見えた。
彼女の隣には、落ち着かない様子のグリムが尻尾を丸めていた。
「……ユウ、大丈夫かニャ?」
「うん、大丈夫……だけど、やっぱり……エースたち、様子がおかしくて……」
その声には、小さな震えが混じっていた。
フェイドは静かに近づいて、芝生の縁に腰を下ろす。
「心に波が立つ時は、無理に整えようとせず、その揺れのままに在るのも一つの方法でございます」
「……ネメシス」
「お二人の変化に、誰よりも早く気づいたのですね。
それはとても……尊い“気づき”でございますよ、ユウ」
「でも、気づいても何もできない。……なんだか、みんなが“どこかへ引っ張られていく”みたいで……」
フェイドは少しだけ目を伏せ、言葉を選ぶように話し始めた。
「それはきっと、“鎖”のようなもの。
契約という名の、見えない糸に繋がれているのです。気づいた者だけが、その不自然さに戸惑う」
ユウははっとしたように顔を上げた。
「……じゃあ、どうすれば……」
「切ることは、簡単ではありません。けれど、“見届ける”ことなら、すぐにでも」
「……見届ける?」
「ええ。ユウが、グリムが、今のように“違和感”を感じ、目を離さないでいるだけで――
その“揺れ”は、きっと誰かに伝わります。たとえば……ご自分を責めている方にも、ね」
フェイドは微笑む。
その笑みは仮面のように穏やかで、けれど――どこか痛みを知っている者のそれだった。
〔オクタヴィネル寮・夜〕
その頃、アズールは寮の執務室で一人、帳簿と契約書の束に囲まれていた。
眉間には皺が寄り、普段の余裕ある微笑は消えている。
「……どうして、予定通りにいかない。
魔法力も、労働力も、契約は“完璧”なはずなのに……」
「“彼女”が関わると、なぜ、全てが狂う?」
彼が言う“彼女”――それはもちろん、フェイドのことだった。
アズールは頭を抱えるように椅子にもたれた。
(彼女が“何も言わずに去って”、どれほど苦しかったか。
その後、どれほど自分を“価値ある存在”に仕立て上げたか――)
「あの頃の僕と今の僕は、もう違う。……違うはずなのに」
静まり返った部屋の中。
アズールの胸には、計算では割り切れない感情が渦巻いていた。
〔オンボロ寮・夜〕
フェイドの部屋の明かりは遅くまで灯っていた。
フェイドは机に広げたノートに、“契約の構造”を解体するように図を書き留めていた。
「……アズール。あなたの契約は“完全”に見えて、実はとても脆い」
その言葉は、幼馴染としての理解でもあり、同時に――“警告”だった。
「それでも、あなたが望むなら……私は、もう一度、“あなたを見てあげたい”と思うのです」
その声は誰に届くわけでもなかったが、仄かに揺れる蝋燭の炎が、彼女の影を優しく照らしていた。
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