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ルルーブ港は漁村として栄える一方、林業についても手を抜かない。
魚や木材を各地に輸出しており、そういう意味では非常に重要な領土と言えよう。
そして、エウィンの故郷でもある。
少年の帰郷は実に十二年振り。足が遠のいていた理由は帰る場所が奪われたということもあるが、自身が恨まれているという思い込みの方が大きいかもしれない。
特異個体との激戦から一週間。
エウィンとアゲハは変わらぬ日々を過ごしている。
ルルーブ森林でウッドファンガーを乱獲。
その後は日が暮れる前にギルド会館へ戻ると、掲示板をチェックしつつも他愛ない会話で盛り上がる。
夕食後は宿に戻り、暖かなベッドで就寝。
毎日がこれの繰り返しだ。
金策を一切放棄し、アゲハの鍛錬に専念している。レッドハット討伐の臨時収入も去ることながら、所持金にも余裕があったことから、今はがむしゃらにキノコを狩り続けている。
目的はシンプルだ。
アゲハに強くなってもらうため。
エウィンが一人で傭兵稼業にまい進しているのなら、このような行為は必要ない。既に十分な実力を備えており、どこへでも冒険に出かけられる。
しかし、彼女が同行するのなら話は別だ。
日本生まれの女性であり、その上、大学を中退後、母親の仕送りに甘えて引きこもっていた。
そのような人間に魔物狩りなど不可能だ。
ましてや、魔物生息域までは何百キロメートルと離れており、自分の足で歩かなければならない。
もしくは、走る。
どちらも苦行でしかないのだが、傭兵ならば出来て当たり前だ。この程度の負荷に弱音を吐くようでは、この稼業は務まらない。
そういう意味では、彼女の底力は順調に向上しているのだろう。
「今日は最高記録更新ですな。たかだか半日で百近くも狩れるとは……。アゲハ殿も体力がついてきたようで、とても良いことです。ダンディ」
潮風に顔と前髪を撫でられながら、渋い玄人が海を眺めている。
エウィン・ナービス。本来は童顔な少年なのだが、故郷を練り歩く際は変な顔を作らなければならない。
つまりは変装であり、顔の骨格さえ変わっているように見えることから、この地の住民には未だエウィン本人だとばれていない。宿屋の店員やギルド会館の職員には気づかれているのだが、彼らが漁業関係者でないことから、ある意味では匿ってもらえている。
「エウィンさんの、おかげだよ。本当に……」
偽りのない本心だ。アゲハは揺れる黒髪を抑えながら、肩を並べて大海原を眺める。
彼らの眼前には、無限に広がる青い海。
頭上の太陽は西の方角へ大きく傾いており、数時間足らずで日没を迎えるだろう。
二人は狩りを終え、そのまま漁港へ向かった。普段よりもわずかに早く切り上げたことから、持て余した時間を潰している最中だ。
生物が腐敗した、潮の香り。それを肺一杯に吸い込みながら、彼女は幸せなこの時間を満喫している。
ここにいるのは二人だけ。
本来ならば漁師や村人が右往左往していても不思議ではないのだが、この瞬間に限っては港の一画を独占出来ている。
視界の端では、大きな漁船がプカプカと佇んでいる。帆は畳まれており、明日の出向に備えて英気を養っているのだろう。
生臭い匂いを嗅ぎながら、エウィンは新たな話題を提供する。
「吾輩の方こそ、感謝しておりますですぞ。そろそろ次のステップへ進むのもありかもしれませぬな。ダンディ」
(口調が安定しないエウィンさんも、それはそれで素敵……)
恋は人を盲目にさせる。
一人称すら普段と異なる少年に対し、アゲハはその違和感すら楽しめてしまう。
話し方も、顔立ちすらも別人そのものだが、エウィンは問答無用で話を進める。
「ここに滞在してそろそろ十日。軍資金は残っておりますが、金を稼ぐためにも一旦戻ってみてはいかがかな?」
「わたしは、うん、オッケーだよ。でも、あっちって仕事あるのかな?」
「あ、そうでした~。もしもジレット大森林が封鎖されたままなら、依頼の絶対数が確実に減っちゃいますからね……」
アゲハに気づかされたことで、エウィンは普段の表情を取り戻す。
同時に、つまらなそうにうなだれる。
ジレット大森林は、イダンリネア王国の遥か西に位置する広大な森だ。巨人族の前線基地から比較的近いことから、決して安全とは言い難い。
それでも傭兵達が足しげく通う理由は、その地の魔物で金が稼げるからだ。
しかし、現在は封鎖されている。
傭兵の南下はそれが原因であり、ルルーブ港のギルド会館は大勢の荒くれ者達で賑わっている。
「また、特異個体を探してみる?」
アゲハの提案は確かに魅力的だ。
指定された魔物を倒すだけで、何万イール、もしくは何十万イールも稼げてしまう。
ハイド達と共闘した赤いウッドファンガーに関しては、その首に八万イールの懸賞金がかけられていた。
「う~ん、お金は稼げそうですけど、いかんせん危険すぎるような……。今度は僕達の方からハイドさんに声をかけるってのもありかもですが、ここ数日は見かけませんし。いっそこっちで依頼をこなすってのもありなのかな? 目ぼしい仕事がこれっぽっちもありませんけど……」
「そう、だよね……。掲示板は毎日、チェックしてるけど、依頼の数、少ないよね……」
「元々多くはなかったはずです。なのに傭兵が流れて来ちゃって、もう大変なことに……。西のシイダン村にはギルド会館がなかったはずなので、そうなると思いっきり南下して、ヨーク村を目指すとか? さすがに、遠すぎるよなぁ」
つまりは悩ましい状況だ。
所持金はまだまだ残っている。
しかし、稼いでいないのだから残金は減る一方だ。ここにはアゲハの鍛錬のために訪れているのだから、目的は果たせているものの、不安な気持ちは払拭しきれない。
イダンリネア王国が最も多くの傭兵を有しているのだが、彼らの一部が活動場所を変更した。
ジレット大森林という主戦場が閉鎖されたため、それに伴い今までのやり方では稼げなくなってしまった。
それゆえに南の村々に移ったのだが、エウィンは岐路に立たされてしまう。
アゲハが順調に育っている。
それはそれで嬉しいことなのだが、それゆえに狩場の変更を検討しなければならない。
その前に金を稼ぎたいという思惑があるのだが、その方法には頭を抱えてしまう。
こういった状況において、アゲハは普段以上に物静かだ。この世界の知識が未だ不足しており、案を出すことが出来ない。
「わたしは、どこでも、いいよ……。エウィンさんと、一緒なら……」
つぶやく彼女の顔は、トマトのように真っ赤だ。
しかし、少年の瞳には大海原しか映らない。アゲハから自身に向けられる感情を恩義だと決めつけており、ましてや彼女に対して恋愛感情を持てないからこそ、その瞳は曇ってしまっている。
「あ、それじゃ、アゲハさんが一人でキノコを倒せるようになったら、一旦戻りましょう。もちろん、深葬は使わずにです」
「え、あ、うん、がんばる……」
危険な卒業試験だ。
しかし、理にかなっている。
魔物を狩ると、人間の肉体は成長する。
より重たい物が持てるようになり、足も速くなる。反射神経や動体視力さえ向上するのだから、夢のようなトレーニング方法だ。
そうであろうと、誰にでもすすめられるような手法ではない。
非力な者が単身で魔物に挑もうものなら、間違いなく殺されてしまう。
仲間がいるか、他者に助力を仰げる人間に限られる。
その点、アゲハは恵まれていた。
触れるだけで魔物を殺せる、青い炎。
眠っていた才能を開花させた、エウィンの存在。
この二つが彼女の鍛錬を加速させていることは間違いない。
たった一か月のウサギ狩りで、草原ウサギを蹴り殺せるほどに成長した。
ならば、次なる目標はウッドファンガーだ。
傭兵としてはセオリー通りの道筋ゆえ、不安感を抱きながらも挑む。
「アゲハさんの太い脚なら、きっと蹴り殺せますよ。がんばりましょう」
「あふん……」
悪気がないどころか褒めているのだが、エウィンの発言にアゲハは顔を両手で隠す。
デリカシーの無さは今に始まったわけではない。浮浪者として十二年も泥水をすすってきたことから、常識の類が抜け落ちている。
人付き合いが苦手なのではない。そういった経験が不足しているだけだ。
一方で、アゲハは対人関係の構築に恐怖すら感じている。人間不信と言っても差し支えなく、幼少期から続く内向的な性格はさらに悪化した。
そんな二人が肩を並べている理由は、互いに恩を感じているからだ。
ゴブリンに殺されかけるも、命を救われた。
未知の世界に恐れおののくも、手を差し伸べてもらえた。
エウィンとアゲハ。
浮浪者と日本人。
境遇は似ても似つかない二人だが、互いが互いを必要としている。
その理由は利用であり、依存だ。
不健全かもしれないが、今は没頭するように魔物を狩り続ける。
「グングン成長してますし、僕なんかあっという間に抜きされるかも? 僕の十一年はいったいなんだったのか、神様に会えるのなら小一時間問い詰めたいです」
この世界に神は存在する。
正しくは、見守っている。
アゲハという転生者がその証拠と言えるだろう。
日本で死んだ彼女がどういうわけか選ばれ、ウルフィエナに転生を果たした。
なぜ、彼女なのか?
神の狙いは何なのか?
これらの問いに答えらえる者はいない。
「わたしなんか……。エウィンさんの方が、ずっとすごいよ」
「はは、お世辞でも嬉しいです。まぁ、こんなに強くなれた理由はさっぱりですけど……。タイミング的にアゲハさんが何かしてくれたはずなんですけど、ご存じないんですよね?」
「うん、ごめんね……」
二人は貧困街の片隅で出会った。
エウィンはアゲハを匿い、貧しいながらも食べ物を分け与える。
転機はすぐに訪れた。金を稼ぐため、マリアーヌ段丘へ赴いたその時だった。エウィンとアゲハは運悪くゴブリンに襲われてしまう。
素肌を一切晒さない、フルプレートの小さな悪鬼。携帯しているクロスボウに矢をセットし、狙いをつければ準備はあっさりと完了する。
放たれた矢が、エウィンの腹部と喉に突き刺さった。
この時点で絶命以外ありえない。
少年は悲鳴すらあげられないまま、息絶えるはずだった。
「いえいえ。アゲハさんがいなかったら百パーセント死んでましたもん。あ、燃やす天技には名前をつけましたけど、治す方は失念してましたね。なんか案ありますか?」
触れるだけで対象を燃やし尽くす炎。青いそれにエウィンは深葬という名前を与えた。
攻撃魔法のフレイムやインフェルノとは異なる能力だ。
色も。
発動条件も。
魔源を消耗しない点も。
ありとあらゆる要素が、別種であると物語っている。
転生時に神から与えられた異能だ。
しかし、プレゼントはこれだけではない。
「あ、えっと、実は、少し考えてて……」
「おぉ、どのような?」
他者を拒絶する彼女にとって、その能力はある意味で残酷だ。
青い炎同様、もう一つのそれについても相手に触らなければならない。
傷を治す接触行為。効果だけを切り取れば回復魔法と大差ないが、深葬同様に触れる必要がある。この点だけは明確なデメリットだ。
そうであろうと、エウィンにとっては彼女ともどもこの能力は命の恩人だ。
「折り紙、なんだけど……、どうかな?」
「おりがみ? あの四角い紙の?」
「うん。あ、こっちの世界だと、違うと思うけど、元いた世界、日本だと、ずっと昔のことなんだけど、大事な人に、贈り物をする時、折り紙で包んで渡す、っていう作法があって、それがなんだか、素敵だな、って思って……」
折形という礼法だ。贈答品をそのまま相手に渡すのではなく、和紙で包む行為を指す。
現代の日本においては単なる昔話でしかないのだが、折り紙自体は廃れることなく受け継がれている。
「折り紙、うん、いいと思いますよ。魔法や戦技と違って天技は自分だけのものですし、好きに命名してこそです」
「ありがとう。じゃあ、折り紙で……」
決定だ。
深葬と折り紙。
与えられ、目覚めさせた異能。
エウィンの言う通り、神秘が存在するこの世界において、この二つはアゲハだけの能力だ。
相反するこれらを使って、彼女はこの少年に貢献したいと考えている。
「日本にも折り紙ってあるんですね」
「うん、伝統文化、だよ。あ、外国にも、普通にあったけど……」
「どこの世界の人間も、四角い紙があったら折って曲げて遊ぶんですね。僕も小さい頃は少しやってたなぁ。何を折ってたか、全然覚えてませんけど」
「羊皮紙だと、大変そうだよね」
「うっすい紙はちょいお高いんですよね~」
天技の命名がひと段落したことから、二人の間に沈黙が訪れる。
波の音が止むことなく続いており、話し声が止まったところで静寂とは言い難い。
港を訪れた理由はエウィンの提案なのだが、実のところアゲハは何も知らされていない。夕食までの時間潰しであることは間違いないのだが、本質は別にあった。
「あ」
周囲を見渡しながら、エウィンが小さく声を漏らす。
視線の方角は、彼らの右後方だ。
そこには漁で使うであろう網が片付けられており、少なくとも傭兵には無関係のはずだ。
「むふふ、発見。港だからいると思ったけど」
少年はゆっくりと歩き出す。物音を立てず、腰をわずかに落としながらの移動は不審者にしか見えない。
この段階で、アゲハも事情を察する。
「あ、猫ちゃん」
「久しぶりにナデナデしたくて。黒のおチビちゃんか、逃げないでね~」
四本足で、しゃなりしゃなりと歩く猫。一見すると黒猫なのだが、顔の下半分から首、胸、腹にかけて雪のように白く、四肢についても真っ白だ。
「かわいい子だね。毛艶も、すごく綺麗。」
アゲハの言う通り、眼前の野良猫は家猫のように整っている。見慣れぬ二人から視線を向けられても怯まない様子から、人間慣れしていることは間違いない。
「触らせてくれるかな? お、大丈夫そう。本気出せば猫なんか余裕で捕まえられますけど、嫌われたくないですしね」
傭兵の身体能力は動物以上だ。
今のアゲハですら、オリンピック出場のトップアスリートよりも速く走れてしまう。
エウィンに関しては比較にならない。もしもアゲハに連れ添って地球を訪れようものなら、全ての競技で世界記録を塗り替えるだろう。
「漁師さんから、お魚もらってて、だから慣れてそう」
「そうでしょうね。おー、よしよし。ぐはは、もう離さんぞー」
おおよそ十日ぶりの邂逅だ。
傭兵ゆえに旅はつきものだが、その間はどうしても猫を触れない。
もちろん、そういった事態を覚悟して王国を出発するのだが、ここはルルーブ港、探せばこうして出会えてしまう。
近づく人間を警戒しないばかりか、合流するように進路を変えてくれた。
この時点でエウィンはゆっくりと右手を突き出し、野良猫の眼前に人差し指を突き出す。
眼を細め、その指に顔を擦り付ける猫。コミュニケーションが成立したことから、エウィンは黒い体毛を嬉しそうに撫でまわす。
「ンニャン」
「お~、甘え上手なやつめ。嫌になる寸前までナデナデしちゃうぞー」
せっかく訪れた機会だ。逃すつもりなどない。
黒い額。
白い喉元。
耳と耳の間。
先ずは顔に近い部分を絶妙な力加減で撫でる。
港ゆえに波の音が騒音のように響いているのだが、それでもなお、黒白猫のゴロゴロ音が二人の耳に届く。
アゲハもゆっくりと近づくと、目を細めずにはいられない。
「あ、嬉しそう……」
「ニャ」
少年の手は動きっぱなしだ。
黒い後頭部から真っ黒な背中側へ。
右手の可動範囲を広げると、野良猫は訴えるように口を開く。
催促された以上、エウィンとしても期待に応えるしかない。
「お、メスか、こいつ」
尻尾の付け根部分を摩った結果、尻を見せつけるように体の向きを変える。
当然ながら、色々と丸見えだ。
他意はないのだが、エウィンとしてはこのタイミングで性別を判別せずにはいられない。
「ちょっと小柄だし、女の子なんだ」
「そのようです。お尻の上をナデナデすると妙に反応するのは何なんですかね?」
「あ、その辺りに、神経が集中してて、なんだか気持ち良いみたい。撫でるより、弱ーく、トントンする方がいいって説も、あるよ」
前脚を折りたたみ、後ろ足をピンと立てて人間二人に尻を向ける野良猫。この姿勢のまま微動だにしないことから、喜んでいることは間違いない。
「へ~、さすがアゲハさん、物知り。そういうのも学校で習うんですか?」
「あ、ううん、わたしも、猫が好きだから、インターネットで動画とか、よく見てたの」
「なるほどなるほど」
残念ながら言葉の意味まではわからない。
そうであろうと知りたい情報は得られたことから、エウィンは眼下の野良猫を精一杯撫でまわす。
「ニヤゥ」
「ゴロゴロ言っちゃって。頭の方も撫でろってか。甘えん坊ちゃんだ」
波音に混ざる、小さな鳴き声。
少年はそれを決して聞き逃さない。中腰の姿勢を維持したまま、愛でるように小さな頭を撫でる。
エウィンの表情は満面の笑みだ。いかにこの状況を待ちわびていたのか、手に取るようにわかる。
だからこそ、アゲハとしても混ざりたくて仕方ない。
「すごく、甘え丈夫。よしよし」
「ニャウ」
「はは、アゲハさんの方がいいみたいですね。いっぱい頭突きしてる」
「わ、わ、本当に懐っこい……」
二人はこのまま五分近く可愛がるも、満足したのか、はたまた空腹なのか、野良猫は白い四本脚をしゃなりしゃなりと動かしながら立ち去ってしまう。
もっとも、エウィン達は心底満たされた。ズボンについた黒毛を払いながら、ゆっくりと立ちあがる。
「甘えてくれる子が一番ですね。ツンツンしててもそれはそれで可愛いですけど」
「家猫みたいな子だったね。いっぱい触れちゃった」
ご満悦だ。
狩りを終えた後ゆえ、アゲハはいささか疲労気味なのだが、おかげですっかり癒された。
再び大海原を眺める二人だが、当初の目的を果たせた以上、ここにいる理由はない。
「それじゃ、ギルド会館にでも行きますか。晩御飯までお茶でも飲んで時間潰しましょう」
「あ、その前に、お風呂、入りたいかも……」
ゆえに、撤収する。
ウッドファンガーの乱獲を終え、野良猫とも出会えた。
ならば、残された時間は自由に使えば良い。
「あぁ、そうですね。僕も風呂済ませて、昨日買った本読もうかな」
「読みたい本、見つかって、良かったね」
「はい。新・地理学六版! いや~、お高い買い物でした。本当に申し訳ない……」
「ううん、気にしないで」
エウィンの趣味の一つが読書だ。アゲハと出会う前は本を買う金を工面出来ず、拾った教科書を繰り返し読み続けていた。
しかし、今は違う。本の一冊二冊は買いたい時に買える。
それも一重にアゲハのおかげであり、感謝と謝罪を伝えずにはいられない。
「今後はあちこちを旅することになるかもですし、頭に叩き込んでおきます!」
「うん、お願い」
新・地理学六版。地図ではないのだが、コンティティ大陸の東側について詳細に記載されており、傭兵ならば一読すべきだ。
西側については、残念ながら触れられていない。
なぜなら、二つの理由で阻まれてしまうからだ。
巨人族と極寒の壁。
巨人族は単なる魔物ではない。人間のように知能を持ち合わせており、子育てさえ行う。
その強さは他の魔物と比較にならない。個体差はあれど、傭兵でさえ単独討伐に挑戦しないほどだ。
「コキュートスラインについても学べそうですし、絶対に買って損なしです。これはもう愛読書決定です」
コキュートスラインこそが、進行を阻害する最大の壁だ。
ある地点を境に、この大陸はそれ以上西に進めない。
最北端から最南端まで、隙間なく吹雪いているためだ。
たったそれだけのことなのだが、この悪天候は人間の足を止めてみせる。
なぜなら、その中は気温が極端に低い。
過去に行われた調査では、マイナス百七十三度であることが判明した。
生物の生命活動を拒む環境だ。
事実、呼吸をすれば肺が凍り付いてしまう。
光流暦千と十八年の現代においても、豪雪地帯の幅さえ観測出来ていない。
しかし、わかっていることもある。
巨人族はその向こうからこちら側へ進出している。
それらは巨体ゆえ、その寒さに耐えられるのだろうか?
もしくは、耐えられない個体が淘汰さえ、生き残った強者だけが人間を狩りに来ているのかもしれない。
「いつの日か、そこまで行ってみたいね」
「厚着したらきっと余裕ですよ。確か、マイナス百度とか二百度ですし」
船を使おうと、コキュートスラインは越えられない。
その豪雪エリアはコンティティ大陸から大きくはみ出ており、海面さえも凍らせている。
異常気象なのか?
誰かの仕業なのか?
それすらもわかっていないため、王国の研究者は調査を熱望しているのだが、その危険性も相まって法律で禁止されている。
「マイナ……、え? そんなに寒いの? 絶対程度が近いなんて、ただの吹雪じゃないような……」
「絶対程度?」
「あ、うん、温度の一番下、かな。確か、マイナス二百七十三、だったと思う」
アゲハの説明に、エウィンはポカンと口を開けてしまう。
気温に最低値が存在するとは夢にも思わなかった。そういう意味では常識が覆された瞬間だ。
「二百七十三……。だったら、上も二百七十三度より熱くならないんですか?」
「ううん、温度上昇は、際限なかったと思うよ。物理は専門外だから、詳しくはないんだけど……」
「す、すごい、それも学校で?」
「うん、この辺は、普通に習うよ。エウィンさんが持ってる物理学の教科書にも、確か書いてあった、はず……」
「う……、書いてあることが理解出来てないって、ついにばれてしまった。お恥ずかしい」
拾った教科書を擦り切れるほど読み返した。
しかし、書いてある内容が理解出来るかどうかは別問題だ。
なぜなら、この少年の学力はゼロに等しい。両親から四則演算は教わったものの、そこから先を学ぶよりも前に両親は他界してしまった。
「ううん、わたしも聞きかじった程度だよ。この世界のことは、何もわかってないし……。エウィンさんの方が、ずっと立派……」
「アゲハさんの吸収力も凄まじいですって。体力もついてきましたし、なんならさらに脚が太くなったのでは? 太ももあたりとか、特に」
「え⁉」
エウィンは褒めている。
しかし、言葉を選べていない。
それをわかっていないからこそ、平然と言ってのけてしまう。
一方、アゲハは両脚をピタリと閉じて、さらには両手で挟み込む。無駄な努力でしかないのだが、少しでも細く見せたい。
「いっぱい走って、たくさん魔物を倒しましたしね。良いことです、うんうん」
「え? ふ、太い方が、いいの?」
「そりゃまぁ、そうだと思いますよ? 太すぎたらアレですけど、今のアゲハさんは至って健康的と言いますか、まぁ、魅力的です」
その瞬間、アゲハの頬が赤く染まる。褒められ慣れていない上、発言者が好意を寄せる異性なのだから、自己肯定感は最高潮だ。
もっとも、この少年は本心を述べてはいるものの、そこに恋愛感情を挟まない。
アゲハを庇って死ぬ。
そう夢見ているからこそ、恋人として名乗り出るつもりは毛頭ない。
(わたしの脚、太くていいんだ……)
(死ぬまでに、一度くらいはおっぱい触らせてくれないかな? まぁ、おんぶした時に当たったから、それで我慢するか)
歪な関係だ。
そうであろうと、二人の目的は合致している。
アゲハを地球に戻す。
日本に戻って、母親に会いたい。
しかし、その根底が最初から揺らいでいる以上、彼らの旅路は一筋縄ではいかないだろう。
エウィンはアゲハを庇って、死んでしまいたい。
アゲハはエウィンと一緒にいたい。
二人の思惑と地球への帰還は、残念ながら相容れない。
それでも、今は眼前の課題をこなすだけだ。
明日はウッドファンガーを用いた、アゲハの腕試し。
鍛錬を続けるか、切り上げるか、その分水嶺だ。