テラーノベル
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雨が強くなったのは、仕立屋を出て二つ目の角を曲がったところだった。
千歳は足を止め、胸に抱えた風呂敷包みを見た。中は、妹の梢の花嫁衣装だ。油紙で包んであるが、この降りでは、角から染みる。
傘はない。家を出るとき、藤乃に「お前が傘を使ってどうするの」と言われた。
千歳は包みを抱え直し、着物の袖を上に出して、包みの上に広げた。濡れるのは袖だ。肩から先はもう濡れているのだから、同じことだ。
そのまま歩いた。市電の鈴が遠くで鳴り、下駄の中に水が入った。右手の甲が袖の下で冷えていく。
門が見えた。塗りのはげた洋館の玄関に、和館の屋根が続いている。有明の屋敷だ。父が子爵だった頃は、門の前に車夫が待っていたと、婆やのとよが言う。千歳が物心つく前の話だ。千歳が覚えているのは、母が死んだ年から、この門を裏から出入りするようになったことだけだ。
玄関の前で包みを開いた。油紙の中の白い絹は乾いていた。
千歳は息を吐き、濡れた袖を絞った。
「嫌よ。あんな人のところへ嫁ぐなんて」
襤の向こうから、梢の声がした。泣いている。
千歳は廊下に膝をつき、包みを畳に置いた。襤は閉まったままだ。
「梢。お着物を」
返事はない。代わりに、背中から声が来た。
「濡らしたの?」
藤乃だった。髪を結い上げ、衿を正して、廊下に立っている。千歳は包みを少しだけ開いて見せた。
「乾いております」
藤乃の目が、包みから千歳の袖に移った。絞っても、まだ滴が落ちる。
「袖で雨をよけるなんて、品がないこと。商家の血は争えないわね」
千歳は頭を下げた。
藤乃は包みをまたいで、襤に手をかけた。開けない。開けずに、襤越しに言う。
「梢。何度言わせるの。御堂様は財閥の当主よ。あの家に入れば、あなたは」
「嫌ったら嫌。奥さんを寄せ付けないんでしょう。前の婚約者の人は逃げたんでしょう。夜になると、離れに灯りがつくんでしょう。母様だって聞いたじゃない」
襤の内で、梢がしゃくり上げた。
藤乃は襤から手を離した。千歳のほうを見ない。見ないまま、言った。
「夕刻には、御堂の自動車が迎えに来る。断れば結納金を返すことになる。五千円を」
千歳は畳の目を見ていた。五千円。有明の借財の半分ほどだと、とよが言っていた。もう残っていないことも。
「返せなければ、この家は終わりよ。とよにも出ていってもらう。あの歳で、どこへ行けると思う?」
廊下の奥で、何かが落ちる音がした。とよが、台所で盆を取り落としたのだろう。
「梢を、あんな呪われた家にやるの? お前は」
千歳は顔を上げた。藤乃がこちらを見ていた。
「お前が梢として行きなさい」
朝、夜明け前に土間を磨いたときと同じ冷たさが、膝から上がってきた。
今朝も、いつもの朝だった。梢の朝食を膳に載せて部屋の前に置き、戻って、自分は釜の底に残った冷や飯を立ったまま食べた。十年、そうしてきた。母が死んだ年に、父は藤乃を後添えに入れ、藤乃は梢を連れてきた。梢は父の子で、千歳とは母が違う。継母と、異母妹。その二人のものが温かい飯で、千歳のものが冷や飯だった。父はそれから七年生きて、何も言わずに死んだ。
その暮らしを、梢の名で御堂の家へ持っていけ、と言われている。
「御堂様は、梢の顔をご存じではないの」
藤乃は言った。
「結納の席にも、顔合わせにも出なかった。写真は仲人の白鳥夫人に渡したけれど、見もしなかったそうよ。妻など誰でもいい、と仰ったとか。それなら、誰でもいいでしょう」
「……梢は」
「取り替えるときは、梢は病で寝ていたことにします。治ったら、きちんとしたほうを送り直す。それまでの穴埋めよ。お前にはちょうどいい」
穴埋め。千歳はその言葉を、口の中で一度繰り返した。
襤の向こうで、梢の泣き声が小さくなっていた。聞いているのだ。聞いていて、何も言わない。
台所のほうを見た。土間の暗がりに、とよの曲がった背中が見える。盆を拾っている。腰を折るのに、ずいぶん時間がかかる。
「……私が、参ります」
藤乃は頷きもしなかった。
「支度をなさい。梢の衣装を着て」
衣装は、袖が短かった。
梢の寸法で仕立てたものだ。千歳のほうが背が高い。袖口から手首が出て、右手の甲が、袖の下から出てしまう。
鏡台の前で、藤乃がその手を見た。
「その手を、人前に出すのではありません」
白い布を取り、千歳の右手にきつく巻いた。甲の、赤く引きつれた痕が隠れる。
「不吉な手」
藤乃はそう言って、布の端を結んだ。
千歳は巻かれた手を見た。痕は、梢がまだ小さかった頃の、あの夜のものだ。煙の中で、熱で眠っている梢を抱えて、戸に手をついた。それだけのことだ。藤乃はあの日から、この手を不吉と呼ぶ。
鏡の中の自分は、知らない人に見えた。白粉と、梢の衣装と、布を巻いた手。
戸口に、とよが立っている。
何か言おうとして、言わず、前掛けで手を拭く。拭いてから、千歳の袖に触れた。濡れた袖はもう脱いでいるのに、とよは袖の先を指で確かめて、それから、濡れていた右の肩を撫でる。
千歳は頷いた。それしかできない。
門の外に、自動車が止まっている。
黒い車体に雨が当たっていた。運転手が降りて、帽子を取り、後ろの戸を開ける。口はきかない。
藤乃は玄関から出てこなかった。見送りは誰もいない。白鳥夫人は向こうで待っているという。
千歳は一人で乗った。革の座席は冷たく、濡れた髪から水が落ちて、梢の衣装の衿を汚す。
自動車が走り出すと、窓の外を雨に打たれた町が流れていった。市電、電柱、傘の群れ。千歳は窓を見るのをやめて、膝の上の布の手を見る。
御堂玲司。二十七歳。財閥の当主。千歳が知っているのは、名と歳と、梢が襤の内で泣きながら数えた噂だけだった。
「梢と、申します」
声に出してみた。自分の声が、自動車の中で小さく聞こえる。
「有明梢と申します」
二度目は、少しましだった。千歳は布の結び目を指で押さえ、もう一度、口の中だけで言った。梢。今日から、そう呼ばれる。母がつけてくれた名前は、あの屋敷の女中部屋に、櫛と一緒に置いてきた。
三十分ほどで、自動車は速度を落とした。
石の門柱の間を抜ける。庭が広い。雨の向こうに洋館があって、玄関の前に、屋根のある車寄せが見える。
その車寄せの下に、人が立っていた。
一人だ。傘を持っていない。黒い洋服の男が、雨の縁に立って、自動車をじっと見ている。
運転手が戸を開けた。
千歳は降りた。下駄が石を踏む。梢の衣装の裾を持ち上げ、顔を上げる。
男は近かった。背が高い。雨の音が強くて、ほかに何も聞こえない。
男は千歳の顔を見た。それから、目を下ろす。布を巻いた右手に、目が止まった。
長かった。
梢と申します、と言わなければならない。千歳は口を開きかけた。
男のほうが先だった。
「君は妹のほうではないな」
草原草原(くさはらそうげん)

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瑠璃マリコ
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コメント
1件
読み終えました。第1話からもう世界に引き込まれましたね。まず冒頭の雨の描写が鮮やかで、千歳の立場や家の中での扱いが無理なく伝わってくる。藤乃の「品がない」「不吉な手」という言葉が、どれだけ日常的に千歳を削ってきたか想像できる。それでも千歳は淡々と動き続ける。その静かさが胸に刺さりました。 そしてラストの御堂玲司の「君は妹のほうではないな」。この一言だけで、彼がただの噂の不気味な男ではないと予感させる。千歳が「梢」として生きようと決めた瞬間に、それを一瞬で見抜く存在が待っている—この構成、好きです。続きが気になって仕方ない。