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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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雨の音だけが続いた。
千歳は下駄の先を見た。石の色が、水で黒くなっている。梢の衣装の裾が、その黒に触れていた。
申し訳ございません、と言わなければならない。姉のほうです、と。自分は穴埋めで、本当の梢は病で寝ていて、それも嘘で。
「……私は」
「濡れている」
男は千歳の言葉を待たなかった。
「入れ」
背を向けて、車寄せの奥へ歩いていく。追い返さない。千歳は一つ息を吸って、濡れた裾を持ち上げ、ついていった。
玄関の扉は、千歳の背の二倍ほどあった。
中に入ると、雨の音が遠くなった。床が板で、天井が高く、電灯が白い。有明の屋敷の電灯は黄ばんでいた。ここのは、昼のように白い。
白髪の男が立っていた。背筋が伸びている。懐から時計を出して、一度見て、懐に戻した。
「旦那様」
それから千歳を見た。
「奥様」
声は、雨より冷たかった。千歳は頭を下げた。
その後ろに、もう一人いる。年配の婦人だ。扇で口元を隠している。仲人の白鳥夫人だ、と千歳は思い当たった。結納のとき、一度だけ有明の屋敷で見かけた。
白鳥夫人の目が、千歳の顔で止まった。
扇が下がった。口元が見えた。色がない。
婦人は何も言わなかった。扇を上げ直して、目をそらした。
男――御堂玲司は、それを見ていたのか、見ていなかったのか、分からない。
「広間へ」
とだけ言った。
広間は、有明の屋敷の客間を三つ並べたほど広かった。絨毯があり、暖炉があり、火が入っている。千歳は入り口で止まった。濡れた裾で絨毯を汚すわけにいかない。
「座れ」
玲司は暖炉の前の椅子を一つ引いた。
千歳は動けなかった。言わなければならないことがある。座る前に。
「私は、梢ではございません」
声が出た。思ったより大きく出た。
「姉の――」
玲司の目が、千歳の袖の中の右手に、一度下りた。
「名前はどちらでもいい」
玲司は椅子の背に手を置いたまま、こちらを見ていた。
「ここでは君は御堂の妻だ」
白鳥夫人が、扇の陰で小さく息を吸うのが聞こえた。
千歳は玲司の顔を見た。何も読めない。怒っているのでも、笑っているのでもない。ただ、言ったとおりのことを言った顔だ。
「白鳥夫人」
玲司は千歳から目を離さずに言った。
「祝言は予定どおりに」
「……御堂様が、それでよろしいのなら」
夫人は扇を握りしめて、頷いた。
祝言は、その広間で上げた。
暖炉の前に膳が運ばれ、盃が置かれた。女中が二人、戸口に控えている。白鳥夫人が盃に酒を注ぎ、玲司が口をつけ、千歳が口をつけた。親族はいない。歌もない。
千歳は盃を膳に戻した。布を巻いた右手は、袖の中に入れたままだ。左手だけで、できることはそう多くない。
玲司はそれを見ていた。何も言わなかった。
食堂は洋風で、長い卓に椅子が並んでいた。
膳が運ばれてくる。飯、味噌汁、焼いた魚、煮物。湯気が立っている。
千歳は卓の脇に立った。給仕の者が、どこにいればいいのか分からない。女中が戸口にいるから、自分はその手前だろう。
「何をしている」
玲司が、卓の向こうから言った。
「給仕を」
「座れ」
玲司は自分の隣ではなく、向かいの椅子を引いた。
千歳は椅子を見た。
座って食べたのは、母がいた頃が最後だ。十年前になる。
椅子に座ると、膝が卓の下に入った。それだけのことに、手が震えた。
「冷めますよ、奥様」
戸口の女中頭が言った。ふくよかな人で、膳の上を指で一度数えてから、下がった。
千歳は箸を取った。左手では持てない。右手を袖から出した。白い布が、電灯の下で目立つ。
玲司は見なかった。自分の飯を食べていた。
千歳は味噌汁の椀を持った。温かい。椀が、温かい。
一口飲んだ。
出汁の味がした。それだけなのに、喉の奥が詰まって、千歳は椀を置いて、湯気を見た。箸を持ったまま、しばらく動けなかった。
「冷める」
玲司が言った。顔は上げなかった。
千歳は飯を食べた。炊きたてだった。
二階の部屋に通された。
和室で、畳が新しい。火鉢に火が入っていて、布団が敷いてある。隅に鏡台。窓があって、雨の庭が見える。
寝間着が、布団の脇に畳んであった。
「ここは君の部屋だ」
玲司は戸口に立ったまま言った。中には入ってこない。
千歳は部屋の真ん中に立ったまま、動けなかった。
「私は、何をすれば」
「何もしなくていい」
玲司は障子に手をかけた。
「眠れ」
障子が閉まった。足音が廊下を遠ざかり、階段を下りて、消えた。
千歳はその場に座った。火鉢の熱が、膝に届く。
障子の外に足音が来て、「奥様」と女の声がした。食堂にいた女中頭だ。盥と手拭いを持っている。
「髪を。濡れたままじゃ、風邪をひきますよ」
「自分でいたします」
「そうですか」
女中頭は盥を置いて、それでも出ていかずに、千歳の髪から簪を抜いた。手が早い。濡れた髪を手拭いで包んで、押さえる。
「旦那様がね。髪を乾かしてから寝かせろ、って。それだけ言って、書斎に入っちまいました」
千歳は答えられなかった。女中頭は髪を拭き終えると、火鉢の炭を足して、盥を持って出ていった。
眠れなかった。
布団に入っても、畳が柔らかすぎて、体が落ち着かない。女中部屋の三畳は、畳が擦り切れて板の硬さが背中に当たった。あれに慣れている。
夜明け前に目が開いた。いつもの時刻だ。体が勝手に起きる。
千歳は廊下に出た。雑巾がない。台所はどこだろう。階段を下りかけて、足が止まった。
何もしなくていい、と言われた。
手が、何かを拭きたがっている。その手を、千歳は袖の中にしまって、部屋に戻った。
朝、障子の外で足音がした。
「奥様。お目覚めでございますか」
家令の声だ。昨夜の、白髪の。千歳は障子を開けた。
家令は懐中時計を見て、懐に戻してから、封書を差し出した。
「有明家より、旦那様宛てに。旦那様が、奥様にお渡しするようにと」
封は切ってあった。玲司が読んだあとだ。
千歳は受け取った。藤乃の字だ。整った、きれいな字。
『このたびは娘の急な病により、姉を代わりに差し向けましたこと、お詫び申し上げます。病が癒え次第、正しい娘の梢を送り、姉とお取り替えいたします』
廊下の向こうから、玲司が来た。洋服で、外へ出る支度だ。千歳の手の中の手紙を見て、立ち止まった。
「三日のうちに、妹を連れてくるそうだ」
コメント
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読ませていただきました……第2話、とても静かで、それでいて胸の奥がぎゅっとなるお話でした。 千歳さんの「座って食べたのは母がいた頃が最後」という一文に、ぐっときました。椅子に座るだけで手が震える、その感覚が痛いくらい伝わってきて。女中頭さんの「冷めますよ、奥様」も、無理に優しくしない距離感が逆に温かくて。 玲司さんも、「何もしなくていい」「眠れ」とだけ言って去るのが、逆に千歳さんをどう扱えばいいか戸惑ってるようにも見えて。あの味噌汁の温かさが、彼女の詰まった喉を溶かしていく場面が忘れられません。 最後の藤乃からの手紙で、また風向きが変わりそうな予感……この先、どうなるんでしょうね。千歳さんが少しでも、この屋敷で「いる場所」を見つけられますように。続きがすごく気になります🥀