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サッピーの小説室
41
ラコン
2
第1話「微かな警告」
午前2時17分
ニューヨーク、ブルックリン。
冷たい雨が、街を包み込んでいる。
古びた倉庫街を、一台の黒いセダンが走っていた。街灯の光が濡れたアスファルト、タイヤが水たまりを踏むたび、暗闇に鈍い音が響く。
車は、地図にも名前が記されていないような研究施設の裏口で停車した。
運転席から降りた男は、周囲を確かめてから後部座席を開けた。中には、銀色の輸送ケースが一つ。ケースの側面には、白い識別番号と赤い警告表示が貼られていた。
「搬入は予定どおりか」
イヤホンから声が聞こえた。
「ええ。ただし、輸送中に温度管理装置が一度停止しました」
「中身は?」
「確認できていません。ケースは開けていませんから」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
「絶対に開けるな。あれは医療用の試作品ではない」
男は眉をひそめた。
「では、何なんです?」
「君が知る必要はない」
通信は切れた。
男はケースを台車に載せ、建物の中へ運び込んだ。
地下へ続くエレベーター。その壁面には、施設の名称が刻まれていた。
ノーススター生物研究所。
エレベーターが下降する。
地下四階。
扉が開くと、冷たい空気が流れ出した。白い照明に照らされた廊下の両側には、いくつもの実験室が並んでいる。
その一室で、研究員のエレナ・クロスは顕微鏡を覗き込んでいた。
彼女は三十代半ば。生物工学を専門とし、神経系と生体適応の研究に携わっている。
モニターには、一匹のクモの神経反応が表示されていた。
通常の個体とは明らかに異なる反応速度。刺激を与えてから運動が始まるまでの時間が、これまでの記録を大きく下回っている。
「あり得ない……」
エレナは測定を繰り返した。
結果は変わらなかった。
そのとき、背後の扉が開いた。
「クロス博士。例の試験体が到着しました」
彼女は椅子を回した。
「輸送中の状態は?」
「問題ないとの報告です」
「報告じゃなく、実測値を見せて。前回はそれで取り返しのつかないことになりかけた」
研究員が端末を差し出した。
エレナは画面を確認し、険しい表情を浮かべた。
数値の一部が、予測範囲から外れていた。
彼女は立ち上がり、輸送ケースのある部屋へ向かった。
その頃、飼育区画の天井付近では、一匹の小さなクモが換気口の隙間へ入り込んでいた。
誰も気づかなかった。
そして、誰も知らなかった。
この夜の小さな異常が、やがてニューヨークの運命を変えることを。
午前7時43分。
マンハッタンは、いつもの朝を迎えていた。
地下鉄の車両が轟音とともに駅へ滑り込み、歩道ではコーヒーを片手にした会社員たちが信号の変わる瞬間を待っている。高層ビルの窓には朝日が反射し、路上の露店からは焼きたてのベーグルの香りが漂っていた。
誰もが自分の一日を生きている。
その中に、特別な人間などいない。
少なくとも、今朝までは。
クイーンズにある古い住宅の二階で、一人の少年が目覚まし時計を止めた。
ピーター・パーカー、十七歳。
彼はベッドから起き上がり、窓の外を見た。向かいの建物の外壁には、昨夜の雨がまだ残っている。
机の上には物理学の教科書、分解途中のラジオ、現像した街の写真が散らばっていた。
ピーターは写真の一枚を手に取った。
横断歩道を渡る人々。誰かを急かすタクシーのクラクション。歩道に落ちた新聞を拾う老人。
彼が撮りたかったのは、街の有名な建物ではなかった。
そこに生きる人間の姿だった。
「ピーター! 遅刻するわよ!」
階下から叔母のメイの声が飛んできた。
「分かってる!」
ピーターは写真を置き、リュックを肩にかけた。
朝食のトーストを口に押し込み、玄関を飛び出す。
いつもの朝。いつもの学校。いつもの自分。
この街で起きている異常など、彼には関係のないことだった。
その日の放課後。
ピーターは科学研究クラブの一員として、ノーススター生物研究所を訪れることになっていた。
研究所が高校生向けに開催した見学会。参加者には、先端医療や遺伝子研究の現場を公開するという。
科学に強い関心を持つピーターにとって、願ってもない機会だった。
見学バスが到着すると、ガラス張りの建物が夕陽を反射していた。
入口で身分証を確認され、金属探知機を通り、案内用のカードを渡される。
「この施設、銀行より厳重じゃないか?」
隣にいた友人のレオ・グラントが小声で言った。
「研究データは企業の財産だからね。」
案内役のエレナ・クロス博士が現れ、生徒たちを実験棟へ導いた。
「ここで行っている研究は、将来的に人間の治療へ役立てることを目的としています。ただし、生物の能力を人間にそのまま移植するような、単純な話ではありません」
彼女の説明に、ピーターは耳を傾けた。
実験室の一つでは、人工的に作られた筋繊維が電気刺激に反応して収縮していた。別の部屋では、神経細胞の活動がモニターに映し出されている。
そのとき、廊下の奥で警報が鳴った。
研究員が慌ただしく走り抜けていく。
「第三区画の環境制御に異常が発生!」
「見学者を第二棟へ移動させて!」
エレナの顔から笑みが消えた。
「皆さん、こちらへ。指示に従ってください」
ピーターは列に続いたが、曲がり角の向こうに開いた扉が見えた。
扉の内側には、赤い警告灯。
そして、ガラス越しに並ぶ無数の飼育ケース。
その一つだけが、空になっていた。
見学者が別の棟へ移動する途中、ピーターは落としたペンを拾うため、列から少し離れた。
そのとき、廊下の非常扉が自動的に閉まりかけた。
反射的に手を伸ばす。
扉の隙間から、暗い実験室の内部が見えた。
床には破損したケースの破片が散らばり、モニターには赤い警告表示が点滅している。
ピーターは、床を這う小さな影に気づいた。
一匹のクモだった。
黒い体。腹部に走る赤い模様。脚は細く、普通のクモと変わらない大きさだった。
だが、その動きは妙だった。
クモは床の亀裂を避け、落ちたガラス片を迂回し、迷いなく扉の隙間へ向かってくる。
ピーターがしゃがみ込んだ瞬間、クモは彼の手首へ飛び移った。
「っ!」
鋭い痛みが走る。
ピーターは手を振り、クモを払い落とした。
床に落ちたクモは、すぐに暗闇へ消えていった。
「どうした?」
レオが振り返る。
「いや……何かに噛まれた」
「大丈夫か?」
「あぁ、だいじょぶ。たぶん、小さなクモだよ」
ピーターは手首を確認した。小さな赤い跡が二つ残っている。
そのとき、廊下の向こうからエレナの声が聞こえた。
「全員、建物の外へ! すぐに!」
ピーターはレオとともに移動を再開した。
研究所を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
手首の痛みは、いつの間にか消えていた。
だが、帰りのバスの窓に映った自分の顔を見たとき、ピーターは妙な違和感を覚えた。
車窓の向こうを走る車のナンバープレートが、以前より鮮明に見える。
遠くの話し声が、妙にはっきり聞こえる。
気のせいだ。
そう思い込もうとした。
その瞬間、彼の頭の奥で、鋭い警告のような感覚が弾けた。
ピーターは反射的に身をかがめた。
直後、バスが急ブレーキをかけ、窓の外で金属が激しくぶつかる音が響いた。
乗客たちが悲鳴を上げる。
ピーターは座席に手をついたまま、息を止めていた。
まだ何が起きたのか、理解できていない。
ただ一つだけ分かった。
危険が迫る、その瞬間よりも早く。
自分の体は、それを知っていた。
第1話「微かな警告」・完
コメント
1件
おお、スパイダーマンの再構築…! しかもただのリメイクじゃなくて、研究施設の生々しい空気感とか「微かな警告」っていうタイトルの効かせ方がめちゃくちゃ好みだわ。 ピーターが噛まれたあと、危険を先読みする感覚が突然訪れるシーン、ゾクッとした。この「気のせいだ」って打ち消す感じ、スパイダーマンの入り口として完璧すぎる。 次、どうなるんだろう。めっちゃ気になる🔥