札幌市営地下鉄南北線。北24条駅からさっぽろ駅へと向かう車内は、土曜日の夕刻とあって満員状態だった。
3号車中央の座席に座る、在ロシア大使館、ラリーサ、コドチェンコワ2等書記官は、黒色のリュックを抱えながら周囲の乗客達を観察していた。
目の前のスーツ姿の男性は、今しがた乗ってきたばかりの乗客。
その右隣の若いカップルは、北12条駅からスマートフォンを片手にゲームに夢中になっている。
会話はなく、時折ぶつかる男性の肘に、隣のふくよかな女性が不快な顔を向けていた。
扉前のベビーカーから聞こえる赤ちゃんの笑い声。
我が子をあやしながら、周囲の乗客に気を使う中年夫婦の光景は微笑ましく、ラリーサは、故郷の家族を思い出していた。
ウクライナとロシアとの戦争で、国外退去処分となったラリーサは、サハリン沖で日露共同開発事業に携わる技術員として1週間前に再来日した。
目的はひとつ。
札幌市営地下鉄をターゲットとした破壊活動。
滞在先のホテルには遺書も残してあった。
同胞の活動家らは札幌を中心に、あらゆる公共交通機関でテロを実行する手筈となっていた。
日本国を混乱させ、ロシア国民の安全確保を名目に、根室から極秘部隊が侵入し、その後正規軍が北海道へ進軍する作戦だった。
ラリーサは赤ちゃんを眺めながら思った。
『私のカタラモノはなに?』
問いかけた自分の不甲斐なさを、ラリーサは呪った。
此の期に及んで人間らしさが芽生え始めている。
前に抱えたリュックの脇ポケット。
そこに収まる黒色のステンレスボトルには灯油が入っている。
ガソリンでも良かったが、ラリーサにとっては灯油の方が身近な存在だった。
一般人による、地下鉄車内での自殺。
そうでなければならなかった。
どうせ死ぬのだ。
世の中を変えられるのならば、自分のちっぽけな命などこの国にくれてやる。
弟と東京駅で交わした言葉が去来する。
弟は今頃、横浜市営地下鉄の電車で同じ想いをしている事だろう。
ラリーサは、グッと唇を噛んだ。
電車がさっぽろ駅へと近づく。
ラリーサは、ポケットの中のZIPPOのライターを握り締めた。
灯油を自身の身体にかけて火を点ける計画は自ら考えたものだ。
爆弾では意味がない。
それに、セキュリティーでも不安はあった。
結局のところ、手段はなんでも良かったのかもしれない。
この世に未練はないからだ。
ラリーサは、ステンレスボトルに手を掛けて、ポケットからライターを取り出した。
その時、目の前のスーツ姿の男性の手が腕を掴んだ。
ゲームに夢中になっていた筈のカップルが、ラリーサに覆い被さる様にして身体を拘束した。
女の声が耳元で聞こえる。
『公安です。もういいでしょうー』
ラリーサは泣いた。
戦死したウクライナ人の恋人の元へは、まだ行けそうもない。
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