テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「埃しか、見ておりません」
私は、つかまれた手首を引かなかった。
引けば、何かを隠していると言うのと同じだった。
「蔵の二階は、ずいぶん長くお掃除をされていなかったようで。箱の上に、指の跡がつくほど積もっておりました」
お義母さまの指が、ゆっくりとほどけた。
手首に、白い跡が残った。
手袋の上からでもわかるほど、強く握られていた。
「……そう」
お義母さまは、私から目を離さなかった。
手は離しても、目だけは、私の顔の上に残っていた。
「蔵の鍵は、今日から私が持ちます。厨房の鍵掛けには戻さないわ」
「かしこまりました、大奥様」
お義母さまは座敷を出ていった。
廊下の角を曲がる前に、一度だけ、振り返った。
*
その夜、厨房の鍵掛けを見ると、蔵の鍵のフックが空になっていた。
洋館の浴室の鍵の隣に、もう一つ、空のフックが増えた。
この家の鍵は、少しずつ、誰かのポケットの中へ消えていく。
半地下の部屋で、私は榊さんにメッセージを打った。
叔母さまが入札会の話を。大奥様に、蔵のことを聞かれました。鍵を取り上げられました。
返事は、一分もしないうちに来た。
何と答えた。
埃しか見ていない、と。
少し間があって、もう一行。
それでいい。今夜は、もう動くな。
画面を伏せた。
それでいい、という五文字が、しばらく目の奥に残った。
*
翌朝、お義母さまから言いつけがあった。
「露地の脇の紫陽花を、切っておいて。茶会の日に、咲き終わった花が見えるのは見苦しいわ」
和館の茶室へ続く露地の脇に、紫陽花の株がいくつも並んでいる。
梅雨の盛りを過ぎて、青かった花は、端から色が褪せはじめていた。
私は剪定鋏を借りに、物置へ行った。
鋏を手に取ってから、少し迷った。
紫陽花の切り方は、知っている。
花から二つ下の節、ふくらんだ芽のすぐ上を、まっすぐに切る。そうすれば、来年もそこから花がつく。
三年前の夏、源さんに教わった切り方だった。
嫁いで最初の梅雨、私は紫陽花を花の首のところで切ってしまった。
翌朝、源さんは何も言わずに、私の切った株の前にしゃがんで、鋏を入れ直してくれた。
――花から二節。芽の上だ。斜めに切ると、雨がたまって腐る。
それだけ言って、また黙って行ってしまった。
家政婦が、そんな切り方を知っているのはおかしいだろうか。
旅館の庭にも紫陽花はあった、と言えばいい。凛さんの旅館に、本当に紫陽花があったのかどうか、私は知らないけれど。
露地の脇にしゃがみ、一本目の茎を指でたどった。
花から、一つ。二つ。
ふくらんだ芽の上で、刃を当てる。
ぱちん。
茶色くなった花が、手袋の手の中に落ちた。
*
十本目を切ったとき、背中に視線を感じた。
振り返ると、松の木の下に、源さんが立っていた。
手拭いの鉢巻きに、作務衣。腰の剪定鋏が、朝の光を一つ跳ね返していた。
いつから、そこにいたのだろう。
「……おはようございます。大奥様に言いつかって、紫陽花を」
源さんは、返事をしなかった。
ゆっくりと歩いてきて、私が切った株の前にしゃがみこむ。
日に焼けた太い指で、切り口を一つずつ、確かめるように触れた。
花から二節。芽の上。まっすぐ。
源さんの指が、最後の切り口の上で止まった。
長いあいだ、動かなかった。
蝉が、一匹だけ鳴きはじめた。
今年、初めて聞く蝉だった。
「去年の十一月の、二十日だ」
源さんが、ぽつりと言った。
私のほうは見ずに、紫陽花の葉を見たまま。
「若奥様が死んだ日の、夕方」
息が、止まった。
若奥様。
この人は、私をそう呼んでいた。
嫁いだ日から、あの夜まで。お義母さまが「奥様」で、私が「若奥様」。前の奥様、ではなく。
「わしは、ガレージの裏の生け垣を刈っとった。そうしたら、ガレージの中で、堂島が若奥様の車の下に潜っとった」
源さんの指が、紫陽花の茎を軽くつまんだ。
「車の掃除をするやつじゃねえ。あいつの指は、いつも油で黒い。けど、あの日は、肘まで黒かった」
私は、剪定鋏を握りしめていた。
手袋の中で、指の傷が脈を打っていた。
「その晩、若奥様の車が、坂から落ちた」
源さんは、ゆっくりと立ち上がった。
腰を、拳で二度叩く。
「警察にゃ、聞かれなかった。旦那様には、家のことを外で喋ったら辞めてもらうと言われとる。わしは、もう七十四だ。ここを追い出されたら、行くところがねえ」
それから、自分の腰の剪定鋏を抜いた。
ぱちん、と空を一度だけ切った。
「わしは、何も見とらん」
源さんは、私の顔を見た。
皺に埋もれた目が、まっすぐに、私の目の奥を見ていた。
「……若奥様のことはな」
鋏を腰に戻し、源さんは背を向けた。
松の木の下を通り、温室のほうへ、ゆっくりと歩いていく。
その背中に、何か言わなければと思った。
ありがとう、でも、ごめんなさい、でもない何かを。
口から出たのは、凛の言葉だった。
「……源さん。紫陽花の切り方、これで合っておりますか」
源さんは、立ち止まらなかった。
「合っとる」
背中のまま、それだけ言った。
「勝手口の沈丁花も、まだ生きとる。来年の春も、咲くだろ」
私が嫁いできた日、黙って勝手口の脇に置いてくれた鉢だった。
この家で、私のために置かれた、最初のものだった。
源さんの姿が、温室の陰に消えた。
私は紫陽花の前にしゃがんだまま、しばらく立てなかった。
褪せた花の束を胸に抱えて、手袋の甲で、目元を一度だけ押さえた。
お義母さまに見つかったら、花粉が目に入ったと言おう。
わかっている、と源さんは言ったのだ。
私が誰なのか。それでも黙って、そこにいてくれる、と。
この家で、私の名前を知っている人が、一人増えた。
*
午後、幼稚園のバスから降りてきた陽翔が、露地の脇で足を止めた。
切った花を、私はまだ捨てずに、籠に集めていた。
色の褪せた青と、薄い紫と、まだ少しだけ桃色の残ったもの。
「それ、捨てるの?」
黄色い帽子の下から、陽翔が籠をのぞきこんだ。
「はい。もう、咲き終わりましたので」
「……ひとつ、もらってもいい?」
陽翔は、ぴょんたを脇に抱え直した。
「ぴょんたのお部屋に、かざるの」
私は籠の中から、いちばん色の残っている一輪を選んだ。
茎を短く切りそろえて、陽翔の手のひらにのせる。
「お水に挿してあげてください。コップに半分くらい」
「はんぶん」
「茎の先を、ときどき少しずつ切ると、長もちします」
陽翔は、花を両手で包んだまま、私を見上げた。
「りんさん、お花のこと、知ってるね」
「……少しだけです」
陽翔はうなずいて、洋館の玄関へ走っていった。
花を落とさないように、両手を胸の前で揃えたまま。
和館の縁側に、お義母さまの着物の袖が見えた。
いつから見ていたのか、私にはわからなかった。
*
その夜、榊さんに一行だけ送った。
源さんが、あの日の夕方、堂島がガレージで私の車の下に潜っていたのを見ていました。
返事は、少し遅れて来た。
証人になる。だが、いまは名前を出すな。あの人を守るのが先だ。
私は、画面の上の文字を指でなぞった。
同じことを考えていた。
十時に、灯りを消した。
鉄のベッドに横になると、天井近くの小さな窓が、ぼんやりと明るく見えた。
外の地面すれすれの、細長い窓。昼間でも、人の足首しか見えない窓だ。
その窓の向こうで、砂利が鳴った。
一度。
それから、何かが窓の前に、ゆっくりと下りてくる気配。
甘くて、すうっと鼻に抜ける匂いが、窓の隙間から流れこんできた。
ハッカ飴。
私は、息を殺して窓を見上げた。
ガラスの向こうに、角刈りの頭があった。
しゃがみこんで、窓に顔を寄せている。暗い部屋の中を、のぞきこむように。
飴を噛み砕く音が、ガラス越しに聞こえた。
「家政婦さん。起きてんでしょう」
低い声だった。
「源のじじいと、朝っぱらから、何を話してた?」
コメント
1件
うわ、この回、静かで重くて、でもすごく温かい時間が流れてて…。紫陽花の切り方一つに込められた源さんの“見て見ぬふり”じゃなくて“見届けて守る”覚悟、胸に来ましたね。最後のハッカ飴の気配で一気にサスペンスが戻ってきて、続きが気になって仕方ないです。凛さんがまた一人、心強い味方を得たのが本当に良かった。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73