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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
私は、ベッドから起き上がらなかった。
窓の外の影に、寝返りを打つ音だけを聞かせた。
それから、眠りかけの人の声で答えた。
「……紫陽花の切り方を、教わっておりました。大奥様のお言いつけで」
「へえ。紫陽花ね」
飴を噛む音が、もう一度した。
「あのじじいは、もう口が軽くなる歳だ。あんまり近寄らねえほうがいい。ぼけた年寄りの話を真に受けると、ろくなことにならねえ」
砂利が鳴った。
影が、窓の前から立ち上がる。
「それと、家政婦さん。夜道には気をつけな。この坂は、ブレーキがよく利かねえ」
足音が、ガレージのほうへ遠ざかっていった。
私は、天井を見たまま朝まで目を閉じなかった。
ハッカ飴の匂いは、明け方になっても、窓の隙間にうっすらと残っていた。
*
住み込みの家政婦の休みは、週に一日。木曜日と決まっていた。
「根津の紹介所に、顔を出してまいります」
出がけに、厨房で蒼真のコーヒーを淹れながらそう言った。
蒼真は新聞から目を上げずに、「ああ」とだけ答えた。
七曲り坂を下りるバスの中で、私は窓の外を見なかった。
五つ目のカーブを過ぎるまで、膝の上で手袋の手を組んでいた。
神田の駅の改札を出ると、柱の陰に、濃紺のスーツの背中があった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
榊さんは、私の格好を上から下まで一度だけ見た。
トキさんに借りた、灰色のスーツ。白いブラウスに、首にはいつもの薄いスカーフ。
髪は、耳の後ろでピンで留めてある。
「事務員に見えますか」
「見えます」
榊さんは、それ以上何も言わずに歩きだした。
私は半歩後ろについて、ゆうべの窓の外のことを話した。ハッカ飴の匂いと、源さんの名前が出たこと。
「しばらく、源さんの帰り道に、うちの調査員を一人つけます。本人に気づかれないように」
榊さんは前を向いたまま言った。
黒い長傘を、手に提げていた。空は曇っていたが、まだ降ってはいなかった。
*
瑞雲堂は、古書店の並ぶ通りから一本入った、細い路地の奥にあった。
黒い格子戸に、墨の看板。
戸を開けると、古い木と、乾いた土の匂いがした。
懐かしい匂いだった。
鎌倉の、母の店と同じ匂い。
「入札会の下見なら、二階だよ」
奥の帳場から、白い髭の老人が顔を上げた。
小柄で、紬の着物の上に、毛玉の浮いたカーディガンを羽織っている。丸い眼鏡の奥の目が、榊さんを見て、少しだけ見開かれた。
「……宗一郎さんの」
「榊です。父がお世話になりました」
主人は、しばらく榊さんの顔を見ていた。
「目元が、そっくりだ」
それから、帳場の奥の暖簾を指さした。
「赤楽を見に来たんだろう。あれは二階には出しとらん。奥で見せる」
*
奥の小さな座敷で、主人は桐箱を一つ、畳の上に置いた。
蓋を開け、古い仕覆の口をゆるめる。
取り出された茶碗が、白い布の上に置かれた。
赤楽だった。
御影の蔵の茶碗と、形はよく似ていた。
口縁のゆるやかな波も、胴の膨らみも。
けれど、色が違った。
赤の奥に、夕方の空のような沈んだ光があった。何百年分の手のひらの脂を吸いこんだ、深い色だった。
「お手に取っても」
榊さんが聞いた。
主人がうなずくと、榊さんは私のほうを見た。
「佐伯さん。お願いします」
私は膝を進め、手袋を外した。
薄い手袋も外して、素手になった。左手の傷が、白い布の上に出た。
両手を、茶碗の下に差し入れる。
持ち上げた瞬間、茶碗が、手のひらに吸いついてきた。
軽かった。
両手の中で、ふわりと浮くようだった。土が、まだ呼吸をしているような温かさがあった。
目を、少しだけ閉じた。
――目で見る前に、手で聞きなさい。
ああ、これだ。
これが、曙だ。
目を開けて、茶碗をゆっくりと傾ける。
高台が見えた。削りの角は、何百年も撫でられて、川の石のように丸くなっていた。
その脇に、細い金色の線が一本、走っていた。
長さは、指の関節一つぶんほど。
ひびを漆で継いで、金の粉をまいた跡だった。
御影の蔵の茶碗の高台には、こんな線はなかった。
「金継ぎだよ」
主人が言った。
「十年ほど前に、宗一郎さんが落としてひびを入れてね。坂上先生の口ききで、腕のいい職人に直させた。目録の写真は正面からしか撮らないから、裏の金は写っとらん」
私は茶碗を白い布の上に戻した。
両手で、音を立てずに。
主人の目が、私の手元を見ていた。
「あんた」
主人の声が、少しだけ変わった。
「鎌倉の『しらせ』の千鶴さんに、似た持ち方をするね」
息が止まった。
しらせ。
千鶴。
母の店の名前と、母の名前。十年前に母が死んでから、誰の口からも聞いたことのない名前だった。
「最初に手のひらにのせて、目をつぶる。あの人も、そうやって器を見た。若いころ、何度か競り合ったことがある。いい目の人だった」
私は、笑った。
笑うしかなかった。喉が引きつって、小さく咳が出た。
「……よく言われます。器の持ち方が、古くさいって」
凛の声で、そう言った。
母さん。
この人は、母さんを覚えてる。
心の中だけで、そう呼んだ。
手袋をはめ直す指が、うまく動かなかった。
榊さんは、何も言わなかった。
ただ、私が手袋をはめ終わるまで、主人との話を一つも進めずに待っていた。
*
「この茶碗の出品者を、教えていただけますか」
榊さんが切り出すと、主人の顔から笑みが消えた。
「それは言えん。商売の決まりだ」
「父の遺産です」
榊さんは、名刺を一枚、畳の上に置いた。
「父の遺産の分け方は、まだ話し合いが済んでいません。家の茶道具は、相続人の共有のままです。この茶碗の四分の一は、法律上、私の持ち分ということになる」
主人は、名刺を見下ろした。
長いあいだ、黙っていた。
「……控えは、裏の倉の帳面にある。出すのに手間がかかる。夕方に、もう一度来なさい」
*
店を出ると、雨が降りだしていた。
榊さんが、黒い長傘を開いた。
勝手口の傘立てにある傘と、同じ形の傘だった。
「入ってください」
断る間もなく、傘が私の頭の上に来た。
夕方まで、時間をつぶす場所を探して、二人で路地を歩いた。
古書店の軒先を、いくつも通り過ぎた。
榊さんは、何も話さなかった。
私も、話さなかった。
しらせ、という名前が、まだ耳の奥で鳴っていた。
母の店は、母が死んだ年に畳んだ。器は全部、母の知り合いの店に引き取ってもらった。私の手元には、母の手つきしか残らなかった。
その手つきを、覚えていてくれた人がいた。
角を曲がるとき、ふと、隣を見上げた。
榊さんの右肩が、濡れていた。
濃紺のスーツの肩から腕にかけて、雨が黒い染みになって広がっている。
傘が、私の側に大きく傾いていた。私の肩には、一滴もかかっていなかった。
「榊さん、肩が」
「濡れていません」
「濡れています」
彼は、傘を真っ直ぐに直さなかった。
「喉を焼いた人間は、首を冷やすと声が出なくなる。……調べました」
調べた。
家政婦の喉のことを。いつ、何のために。
私は、何も言えなくなった。
三年前、雨の勝手口で、私はこの人に傘を渡した。
いま、この人は、自分の肩を濡らして、その傘を私のほうへ傾けている。
古書店の軒先の雨だれが、二人の足元で跳ねていた。
*
夕方、瑞雲堂の帳場で、主人は古い帳面を一冊開いた。
二年前の十一月のページ。
一枚の紙が、帳面に糊で貼りつけてあった。
長持の底にあったものと、同じ形の控えだった。
こちらは、店に残す側の一枚だ。
赤楽茶碗 銘 曙 金八百万円。
売り主の欄に、お義母さまの細い楷書。
主人の指が、その下の欄を指した。
「本人だけじゃ心配だからと、立会人がついてきた」
そこに、もう一つ署名があった。
右上がりの、見慣れた字。
二億の保険の申込書と、同じ癖の字。
立会人 御影蒼真
コメント
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第25話、読み終わりました。 瑞雲堂の主人が「しらせの千鶴さん」って口にした瞬間、胸がぎゅっとなりました。母さんの手つきを覚えてくれている人がいた——その発見が、主人公にとってどれだけの意味があるか。言葉にできない感情が伝わってきました。 それと、榊さんの傘、ずっと主人公の方に傾いてたんですよね。「調べました」の台詞の重み。あの静かな優しさに、こちらまで声を失いました。 御影蒼真の署名がここでも。帳面に残った“立会人”の文字が、もう二度と同じに見えません。