スケート靴のブレードが氷を削る。
滑るたびに冷たい空気が当たる。
氷上に描かれる曲線は揺れることなく真っ直ぐだ。
見える情景は白黒と色味がない。
これらはいつもの事だ。ただいつものように滑り、跳ぶだけ。
それだけだ。
***
「あ、純くん。今練習終わったの?」
「うん。慎一郎くんも?」
「僕はさっき終わったんだ。今から帰るところだけど、純くんも一緒に帰る?」
「うん」
練習終わり、慎一郎くんと一緒に帰る。
慎一郎くんは他の子と違って話しやすいから練習の時とかは大体一緒にいる。
「そういえばね、さっきコーチが教えてくれたんだけど今日からうちのクラブに新しい子が入ったみたいだよ」
「へぇ」
「名前が難しくて、すぐに覚えられなかったから明日にでも挨拶しようかなって。純くんもどう?」
「興味ない」
「あはは…純くんらしい」
他人のことなんて興味ない。どうせ会ってもすぐに忘れちゃうし。
そんなことしてるなら滑っていた方がマシだ。
新しく入った子が僕たちと年齢が近いのと、男の子が少ないことから、コーチは慎一郎くんに仲良くするよう言ったのだろう。
慎一郎くんは優しいから、お願いされたら大抵断らない。慎一郎くんはもっと断るってことをした方が良い。
次の日。
いつものようにリンクに来てみれば、慎一郎くんと一緒に誰かいた。この子が昨日言ってた新しく入ってきた子だろう。
「慎一郎くん」
「あ、純くん。この子だよ、昨日入った子。名前は明浦路司くん」
「は、はじめまして!明浦路司です!俺、夜鷹くんに憧れてスケート始めたんです!」
「そう」
他の子にはあまり興味はない。だけど、この子は一目見て、最初に思ったことは『眩しい』だった。
それくらい明るく、ハキハキとした子だった。
「慎一郎くん、先に滑ってるから」
「うん。明浦路くん、コーチもそろそろ来るから、また後でね」
「はい!」
いつものように氷上を滑り、跳ぶ。やっぱり、滑っている時が、氷上にいる時が一番落ち着く。
「純くん」
「なに」
「明浦路くん、今から滑るみたいだよ」
あけうらじ…さっきの子か。慎一郎くんが指差す先を見れば、コーチと一緒にリンクに上がるその子の姿があった。
「純くんの出ている大会を見てスケートをしたいと思ったんだって。だけど、家庭の事情があって少し時間が経ってしまったけど、なんとか説得して今来られてるんだって言ってたよ」
「ふぅん」
「僕たちより少しだけ年下だけど、中々できることじゃない。それほどスケートをしたかったんだね」
スケートをするのには、かなり金銭が必要になる。それは僕も、それこそ慎一郎くんも知っている。
けど、そんなのはどこにでもあることだ。
「慎一郎くんは、さっきからあの子のことばかり話すね」
「そう、かな?なんだか、放っておけない感じがしてね」
そうこうしているうちに、あの子は氷上に踏み入れた。
そして、滑った。
「!」
「わぁ…!」
僕も、それこそ慎一郎くんも魅入る。
それほどまでに彼の滑りは滑らかで、優雅だった。
「…慎一郎くん。彼、スケート始めたの、昨日からだっけ」
「う、うん。コーチから聞いた話ではたくさん転んだって聞いたんだけど…」
「つ、つつつ司くん!?すごく上手じゃないか!!」
「へへ、昨日、家で自主練したんです!早く滑れるようになりたくて、がんばりました!」
「がんばりましたって、それにしても…」
流石のコーチも驚いてるみたい。当然だ、昨日の今日でできる滑りじゃない。頑張るにしてもその範疇を超えてる。
「……」
「すごいね明浦路くん…、?純くん?」
「…面白い」
「え?」
気づけば僕は、その子のもとに行っていた。
「ねぇ」
「?わ!よ、夜鷹くん!?」
「そのスケーティング、どうやって修正したの?」
「え?」
その子はびくっと驚いた後、僕の質問に対する答えを出すのにうんうんと唸った。
「えと、えと、コーチにお手本で見せてもらった滑りと、夜鷹くんが出てた大会の映像をいっぱい見て、覚えました!」
「それだけ?」
「えっ、えと、はい」
「そう」
見て、覚える。それだけでここまで出来るなんて普通はできない。そう、普通は。
けど、彼はそれが出来る。身体に覚え込ませる時間もいるだろうけど、そこは問題ないだろう。
「…ふふ、」
「?えと、夜鷹くん?」
「純?」
「コーチ、この子と一緒に滑ってみてもいい?」
「え、いきなりお前と滑るのは…」
「彼、実際に見せてやった方が覚えるの早いと思う。大会のことを考えたら、その方がいいんじゃないの?」
大会なんて、本来はクラブに入って2日目の子が視野に入れるのはあまりにも早すぎる。
けれど、この子は違う。
「うぅむ…」
「渋るならもう行くよ。時間が無駄。転びそうになったら僕がいるし、大丈夫」
「あの、コーチ。僕も一緒に行きますから」
慎一郎くんも手伝ってくれるんだ。それなら思う存分滑れる。
「…わかった。だが、気をつけるんだぞ」
「うん。行くよ、司くん」
「はわ…!は、はい!」
「明浦路くん、ゆっくりでいいからね」
その後、ステップやジャンプも見せてみたが、やっぱりその場でいきなり見てすぐやるというのは難しいらしい。
だけど、ステップはスケーティングが安定しているから上達は早い。これなら初級はすぐに受かるな。
「すごいね明浦路くん。クラブに入って2日目なのに初級の課題がもう出来るなんて」
「そう、ですかね…」
「これならジャンプもシングルはすぐ跳べるね。明日はジャンプをするよ」
「え、あ、明日も見てくれるんですか!?」
「うん」
「コーチが許可してくれたら、だけどね」
「〜〜〜あ、ありがとうございます!!」
「声でか」
「元気があっていいじゃない」
「よし、司くん。いったん休憩にしようか」
「はい!」
あれから、司くんは色々と出来ることが増えた。
一回転のジャンプはもちろん、二回転、三回転までできた。ただ、まだ三回転のジャンプは少し不安らしいから、コーチが見てくれている。
「明浦路くん、ほんと上達早いね。このままなら6級のバッジテストもすぐ受けられそうだね」
「あれだけ出来てれば今すぐにでも受けたらいいのに」
「自信がないと難しいからね」
なんであんなに出来るのに自信がないのか。それが僕にはよく分からない。
司くんは色々と考えるより、やらせた方が良いんだから。
「司くん、三回転不安なら今修正したら良いよ。僕が見てるから」
「え!いいんですか!?」
「純くん、司くんは今休憩中なんだよ?」
「後で僕たちとすれば良い。修正できる時間があるのにしないなんて、それこそ無駄だよ」
「そうは言ってもだなぁ…」
「コーチ!俺なら大丈夫です!まだ動けます!」
ふんす!と意気込む司に、コーチも折れた。これ以上の押し問答する時間が無駄だということが分かったようだ。
「じゃあ行こ、司くん」
「はい!」
「コーチ、僕も見てるんで大丈夫ですよ」
「ああ…」
「ん、だいぶ良いんじゃない」
「そうだね。さっきよりも軸はぶれてないし、着氷も安定してる。これなら大丈夫だよ」
「あ、ありがとうございます!」
「それじゃあ休憩にしようか。純くんもだよ?さっきコーチに言ったんだから」
「分かってる」
もう少しだけ滑ろうと思っていたけど、慎一郎くんにはバレバレみたい。ちぇ。
リンクから上がってロビーのベンチに座るとベンチの冷たさが沁みる。
まぁ僕は元から体温低い方だから少しだけだけど。
「純くん、上着は?」
「どうせまたすぐに練習するから、別に良い」
「だめだよ?ただでさえ純くん体温低いんだから、少しでも温かくしてないと。コーチから温かいお茶もらってくるね。明浦路くんのも持ってきていいかな?」
「え!俺自分で取ってきます!」
「いいんだよ。明浦路くん練習続きだし、少しでもちゃんと休まないと」
そう言って慎一郎くんはコーチのところに行ってしまった。彼、やるって決めたらとことんやるんだよね。
「ああ…鴗鳥くんに行かせてしまった…」
「気にしないでいいよ。慎一郎くん頑固だから、やるって決めたら意地でもやるよ」
「がんこ…?」
「それより、司くんは上着とかいいの?」
「はい!俺、平熱が高いので全然平気です!冬でも半袖で過ごせちゃうんですよ!」
「流石にそれはないんじゃない?」
「ホントですよ!ほら!」
ずい、と司くんは僕に両手を差し出した。触れ、ということなのかな。
仕方なく片手をその掌に乗せればじんわりと温かくなっていく。
「…!」
「ね?あったかいでしょ?……はっ!!俺としたことが夜鷹くんになんてこと!!す、すすすすみません俺調子に乗っちゃって、」
そう言って司くんが手を引っ込めようとしたから、その前に手首を掴んだ。司くんはびっくりして金色の目をこれでもかと開いている。
「ぇ、」
「あったかいの、手だけ?」
「ぅあ、えと、全身もです…?」
「そう」
「ひゃわっ!?」
掴んでいる手を思い切り引いて、傾く司くんの体を抱き込む。
「ん…あったかい。ぽかぽかする…」
「ああああああの、よ、夜鷹くん…!?お、俺さっき滑って汗かいちゃってるから、」
「別に臭くないんだからいいでしょ」
「そういうわけじゃなくて!!」
「お待たせ二人とも、て、純くん!?何してるの!?」
「なるほど。つまりは明浦路くんで暖を取っていたってことかな…?」
「うん。あったかいよ司くん」
「あうあう…」
ズズ、とお茶を啜る。慎一郎くんが用意するお茶っていつも温度ちょうど良いんだよね。おいしい。
ただ若干ブルブルと震えるのは抱き込んでる司くんの腕が震えてるからかな。
なんで?もしかして寒い?
「多分純くんが腕に捕まってるからだと思うよ…?」
「慎一郎くん、僕の考えてることよく分かったね」
「友達だからね。その状態だと司くんもお茶が飲みづらいだろうから、離してあげて?」
「む…」
名残惜しいけど、仕方ない。腕を離しただけでぽかぽかとした温もりがなくなった。なんだか惜しいな。
「明浦路くん、お茶は熱すぎてないかな?」
「はい!ちょうど良いです!ありがとうございます!」
解放された司くんはどこかホッとした様子で、慎一郎くんからのお茶を飲んでいる。
なんでホッとするの。僕に触られたのいやだったの?
「……」
「あの、鴗鳥くん…なんだが、夜鷹くんから睨まれてる気が…」
「ああ。別に睨んでいるわけではないよ。ただ、離れちゃったのが寂しいみたい」
「寂しい…?夜鷹くんが?」
「…僕が触れてる時よりも緊張してないから。僕に触られるのいやだったの?」
「!!そ、そんなことないよ!!ただ、憧れてる夜鷹くんにいきなり抱きつかれたから、ちょっとドキドキしちゃって……へんな勘違いさせちゃってごめんなさい…」
しゅん、と縮こまる姿は、滑っている時の伸び伸びとした姿と違ってとても小さく見えた。
でも、そうか。いやじゃないんだ。
それが聞けただけで、さっきまで感じたモヤモヤしたものは消えた。
「ん。じゃあ、スケートしてない時は僕のそばにいてよね。君、温かいから」
「えと、要するに人間カイロってやつですか…?」
「純くん、それは流石に…」
「本当は誰にもさせてあげないけど、慎一郎くんなら分けてあげてもいいよ。少しだけね」
「いや、僕は…」
「そ、鴗鳥くん!俺は大丈夫です!二人の役に立つなら遠慮なくどうぞ!暑苦しいってよく言われてましたけど、少しでも役に立てるなら嬉しいですから!」
キラキラと輝くその笑顔に思わずサングラスが欲しくなった。顔の半分以上隠れるけどそれでもいい。
慎一郎くんもあまりの眩しさに少し目を細めてる。
「えっと…それじゃあ、たまにお世話になってもいいかな?」
「もちろんです!」
「…ん、だいぶ休めたね。練習戻るよ。次はコンビネーションジャンプにしてみようか」
「はい!」
再びリンクに上がる。
こんなに体がぽかぽかな状態で上がるのは初めてかもしれない。
いつも感じる冷たさが、この時は感じなかった。
「6級!受かりました!」
「うん」
「おめでとう、司くん」
司くんは6級のバッジテストを合格し、僕たちと同じ舞台に立つ。
次の大会では司くんとも滑れるんだ。
「スケートを初めて約一年…しかもほぼ初心者からここまで来られたのは、司くんがたくさん頑張ったからだね」
「そんな…純くんや慎一郎くんが色々と教えてくれたからですよ」
司くんがスケートを初めて約一年が経った。あれから司くんはメキメキと上手になった。普通だったら一年で6級まで受かることは珍しい。
コーチもすごく褒めてた。なんだろう、褒められてるのは司くんなのに少しだけ僕が嬉しくなった。頬が緩む感じがして、ちょっと触ってれば慎一郎くんも同じだったみたいで同じように頬を触っていた。
司くんは修正が早い。あれこれと言われるよりも自分の目で見て修正する方がいいんだ。
ただ、司くんだけだと分からない部分もあるからコーチも一緒に見ている。
「司くん、高峰先生が呼んでるよ」
「あ、はい!それじゃ先に行きますね!」
「うん、行ってらっしゃい」
最近、司くんのコーチとして、途中から高峰先生に変わった。
ジャンプはもちろんだけど、司くんのスケートの良いところはスケーティングだ。
それに目をつけたのがたまたま外部から来ていた高峰先生で、スケーティングにさらに磨きをかけるためにこうして僕たちと違う練習をしている。
司くんが上手になるのは良いことだ。僕と一緒に滑るのには大事なことだから。
けれど、いつも一緒に滑っていた彼がいないだけで、氷上は広く、冷たかった。
前までは当たり前だったことが違和感に思うくらいに、彼の存在は大きかった。
「……」
「純くん、やっぱり寂しい?」
「…なにが」
「司くん、一緒にいないからさ」
「別に」
「…」
「先に滑ってるね」
シャッ、とブレードが氷を削る。
冷たい空気が、全身に当たる。
目の前に見えるのは、氷の世界。
これが普通なんだ。いつも見ていた景色。
それなのに、いつもよりも息がしづらい。
「こんにちは!今日もお願いします!」
今日も今日とて、司くんは元気だ。眩しいくらいの笑顔で挨拶している。
前までは彼の視線は僕に向いていたのに、最近ではそれを感じることが少ない。
……僕は君がいないと氷上でも苦しいのに、彼はそうじゃないのか。
そう思うだけで、苦しさが増してくる気がした。
「…くん」
「……」
「純くん」
「!慎一郎くん?」
「どうしたんだい?呼んでるのに返事がないから」
「…別に」
「あのね、今日から高峰先生出張で少しの間不在らしいんだ。だから、その間司くんと滑るようにってコーチが言ってたよ」
「…司くんと?滑っていいの?」
「うん。久々に一緒に滑られるね」
その言葉で、僕はすぐさま司くんの元に向かった。
コーチと話していたが、そんなの気にしていられない。
「あ!純くん!今日からしばらく一緒に練習できるみたいで、え、ちょ、」
「うん、聞いてる。だから行くよ」
「わわ、待ってください!そ、それじゃコーチ、先に行きますね!」
「あ、ああ」
相変わらずぽかぽかと温かい手を掴んで、慎一郎くんが待つリンクに上がった。
「司くん、こんにちは。今日からしばらくよろしくね」
「あ、はい!こちらこそ!」
「ほら、行くよ。ついてきて」
「わ、待ってくださいよ純くん!」
慎一郎くんには悪いけど、話は後にしてもらおう。
今はとにかく、司くんと滑りたいんだ。
シャー…とブレードが氷上に滑らかな図形を描く。
ジャンプもない、ただのスケーティングだ。
それなのに、こんなにも満たされるのはなんでだろう。
「あの、純くん?」
「なに」
「えと、なんで手を繋いだままなんでしょう…?それに練習は…?」
「練習はちゃんとするよ。ただ今は、司くんとこうして滑っていたかっただけ。だめだった?」
「い、いえ!俺も、純くんと滑るの、すごく嬉しいですから!」
にへ、と笑った彼を見て、すぅ、と体内に空気が入っていく。
さっき感じていた息苦しさも、今はない。
「今から三回転のコンビ跳ぶから、ちゃんと見ててね」
「はい!」
「なぁ、慎一郎」
「はい?」
「純に悪いことしてしまったかなぁ」
「そんなことは…けど、司くんがいなくて寂しそうだったのは事実なので。かくいう僕も、寂しかったですよ」
「そうか……純も、ちゃんと人の子なんだなぁ」
「そりゃそうですよ。でも、そうですね……司くんの前だけだと思います」
「うゔ、ゔ〜〜〜…!!」
「君、泣きたいのか喜びたいのかどっちかにしなよ」
「これは仕方がないんじゃないかな」
今日、全日本ノービスが終わった。僕が金で、慎一郎くんが銀、そして司くんが銅で表彰台を独占した。
僕と慎一郎くんはほとんどの大会で一位、二位に並ぶことが多いから周りもさして興味を示さなかったが、代わりに司くんへの関心が際立った。
ブロック予選の大会が初の大会だった司くんは、慎一郎くんを抑えて一位となった。
僕はシードだったから練習してて出なかったけど、今思えば出ればよかったと思ってる。
初出場であの慎一郎くんを抑えての一位。まずそこで司くんの存在が認知された。
そして今日、銅ではあるけどメダルを獲得したことで更に司くんがこの世界に知られることになる。
全日本という大きな舞台でメダルを獲れたことへの喜び、そしてそれでも上のメダルを獲れなかったことへの悔しさで顔はぐちゃぐちゃになっていた。
二つの感情を一つの顔で表すなんて器用だな。
「司くん、ティッシュいる?」
「ぅぅ、はい、ありがとうございます…」
「そろそろ泣き止めばいいのに」
「司くんにとっては初めての全国で初めてのメダルだから、嬉しく思うのは仕方ないよ。上のメダルを獲れなかったことに関しては、僕も負けていられなかったから何とも言えないかな」
「っ、そ、それはわかってます、わかってますけど…、」
涙を止めたいとは思うが、結果のことを思うとまだ涙が出てきていた。
難儀な感情だな。
「司くん」
「っ、純くん…?」
「ん」
「…?」
「人肌に触れれば落ち着くって前に慎一郎くんが言ってたから。だから、ん」
「え、と…」
僕の意図を察してくれてないのか、ぽかんとして微動だにしない。
いつも僕と一緒にいるんだから、分かるでしょ。
少し苛立ちながら、僕は司くんにぎゅ、と抱きつく。
うん、やっぱり司くんは温かい。大会後だからよりそう思う。
「わ!じゅ、純くん…?」
「ほら、泣き止みなよ。目腫れちゃうよ」
ぽんぽん、と優しく司くんの背中を撫でる。
涙が、とか鼻水がとか、色々と司くんが言うけど別にどうでもいい。
身長はそんなに変わらないのに、泣いている時は少しだけ小さく見える。
「んん、純くん冷たいね…」
「そりゃ君に比べたらね。これでもいつもより温かい方だよ」
「ぅむ…」
火照った体が少し冷めたからか、落ち着いたからかは分からないけど、司くんの力が抜けた。
これ寝てるな。
「慎一郎くん、司くん寝ちゃった」
「そうみたいだね。大会後だし疲れが出ちゃったのかも。コーチのとこまで運ぶの手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
司くんの身体を動かして横抱きで抱える。本当は俵みたいに運びたかったけど今前にそれをしたら驚かれたからやめた。
「大丈夫かい?」
「うん。司くん思ったよりも軽いんだよ」
「そうなんだ。……司くん、後ですごく驚くだろうなぁ」
「何か言った?」
「なんでもないよ。じゃあ行こうか」
翌日、コーチや慎一郎くんから運ばれた経緯を知った司くんから横抱き禁止令を出された。
「なんでだめなの」
「俺が!とてつもなく恥ずかしくなるので!!」
そして、僕と慎一郎くんがひと足先に中学へと上がり、出場する大会もノービスからジュニアになった。
司くんがジュニアに上がるのはあと二年先。同じ舞台に立たないのは残念だけど、二年くらいなら待ってられる。
そう、思ってたのに。
「…司くんが、やめた?」
二年後、コーチから聞かされたのは司くんがクラブを、フィギュアをやめたというものだった。
「あ、ああ、……」
「…………」
「は、ちょ、え?どういうこと…?」
上からいのり、光、理凰。それぞれの反応は三者三様に違う。
3人の視線の先には、自分たちのコーチ。…正確にはいのりのコーチ、明浦路司を正面から抱きしめる光のコーチ、夜鷹純と、動揺する司の肩を掴み今からでも泣きそうな顔をしている理凰の父兼コーチ、鴗鳥慎一郎の姿があった。
***
「まさか、こんなところで会えるとは……ぅぅ、」
「ちょ、慎一郎さん!?泣かないでください!!」
「慎一郎さんだなんて……昔みたいに慎一郎くんと呼んでくれないのかい?」
「ぅ、そ、それは…」
流石に大の大人があの状態はいけないから、という光の提案で司くんの所属するクラブに寄らせてもらった。
色々周りが騒がしいけど、そんなのどうでもいい。
「司くん、もうちょっとこっち寄って」
「ぅえ、あ、はい……」
「コーチ…」
「ええ…なにあのクソジジイ…いつも見るのと違う……」
「つ、司先生、いったいこれは…?」
「えーと…」
司くんがクラブを、フィギュアをやめたのは中学に上がる前。理由としては金銭面らしい。兄弟が多い家族らしいから、一人のために高額なお金を出すにはいかなくなったようだった。
それでも諦めきれずに、陸での練習をひたすらにしていたところ、成人過ぎた頃に偶然高峰先生と再会し、年齢のことも考えて、アイスダンスに転向したらしい。
結果は全日本で4位。初めて出場したペアにしてはいい成績だと思う。
けれど、演技中にリフトを失敗したことを引きずってしまったみたいで、アイスダンスを引退。
その後ペアである高峰先生の娘にクラブのアシスタントコーチに誘われ、今はこの子のコーチをしている、とのことだった。
数十年ぶりに再会して説明されたそれに、僕は思わず司くんのおでこにデコピンした。
「いたっ!!え、純さん…?」
「…のに、」
「?」
「待ってたのに、君のこと。慎一郎くんだってそうだ。またジュニアで一緒に滑れるって、そう思ってたのに。君は僕たちになにも言わずに去った」
「っ、それは…」
「君がやめたと聞かされた時から、僕は氷上にいても息がしづらかった。引退した後は尚更だ。ただ死へと近づくだけだった」
光と出会い、光のコーチになったあとも、それは変わらなかった。ただ光を自分と同じようにする、それだけを考えてやってきた。
「司くん、純くんは…いや、僕もそうだ。あの時すごく寂しかったんだよ。せめて、一言でも言ってくれればよかったのに…」
「……ごめんなさい。本当は二人に言おうと思った。けど、言ってしまったら、本当はやめたくない、もっと純くんたちと滑っていたいって想いが溢れちゃいそうだったから……」
服越しでも、触れているところが強張っているのがわかる。それだけあの時の決断は司くんにとっても大きな事だったんだろう。
けど、それは僕を置いていった理由にはならない。
「許さないよ」
「っ、」
「これだけの間僕を置いて行ったんだ。それ相応に償ってもらう」
「…なんでもしますよ。けど、金銭に関してだったら少し待ってもらうようにはなりますけど、」
「君、僕が今更そんな事で許すと思うの?」
僕とあれほど一緒にいたというのに、そんなことしか考えられないだなんて。
尚更、離すことなんて出来ない。
「僕と滑って。今から。限界まで」
「…え、そ、それでいいんですか…?」
「それでいいのか、なんて簡単に言うね。言ったでしょ、” 限界まで “って。…君の足腰が立たなくなるまでいてもらうから」
「!!!」
慎一郎くん、と言えば僕の考えをわかってくれていたようで、リンクの枠をさっそく借りてきてくれた。よく分かってるね。
僕は司くんを俵のように担ぎ上げてリンクに向かう。司くんが重いから下ろしてだの色々言ってるけど、全部無視。
子供達がいる中で横抱きにされなかったことを感謝してほしいくらいだ。
ドサ、と氷上に司くんを下ろす。
未だ混乱中の彼をよそに、僕はスケート靴を履いてリンクに上がる。
そして、彼の手を引いて立ち上がらせる。
「わ、」
「さぁ、覚悟はできたかな」
「ひぇ…」
「じゃあ、まず一曲目。いこうか」
もう、僕から離れようだなんて考えないでね。
その後息も絶え絶えに滑る司の姿と、その光景を無表情で見る夜鷹の姿があった。
慎一郎はそんな二人を少し離れたところから嬉しそうに見守っていた。子供たちは事前に帰るように伝えてある。
よって、この場にいるのは純、慎一郎、司だけ。
「じゅ、純くん!もう、もう無理です!!」
「何言ってるの、まだ立ててるじゃない。ほら、次の曲だよ。これ、慎一郎くんの曲ね」
「僕の曲もかい?嬉しいなぁ」
「し、慎一郎くんまで…!!」
僕のだから
今日は光の練習日ではないから、司くんのいるクラブに来た。
司くんと再会してからは練習日以外はこうして司くんのいるクラブに顔を出している。
今では顔パスで入れるくらいで、受付の人も僕だと分かると通してくれる。
「ああ、夜鷹さん。こんにちは」
「ん。司くんいるよね?」
「はい。この間まで合宿でいませんでしたからねぇ」
つい先日まで、司くんはクラブの合宿のため県外に出ていた。
まだ滑れるのになんでコーチ業を、て思ったけど彼の意思は慎一郎くん並みに固いから何を言っても無駄なのは分かってる。
でも、離れていた分、一緒にいないと気が済まない。
リンクに向かえば司くんはいた。いたのだが、何か状況が違う。
なんていうかこう…
「…修羅場?」
「純くん?」
「慎一郎くん?なんでここにいるの?」
「理凰が、司くんに練習を見てもらいたいって言うから連れてきたんだ。司くんが行った合宿があっただろう?あれに理凰も参加させてもらってね。あれから理凰、司くんのことがとても好きになったみたいで」
僕も司くんの良いところを聞けるのは嬉しいよ、と話す慎一郎くんは本当に嬉しそうだ。
確かに見てみれば、異様に懐く理凰の姿があった。あの距離感は慎一郎くんとそっくりだ。
よく見ればそんな理凰を司くんの教え子が引き離している。
なるほど、修羅場に見えたのはあの子と理凰が司を取り合っているからか。
「理凰、最初はすごく司くんのこと毛嫌いしてたんだよね。光のこととか、僕のこととかで色々と理凰には重荷になってしまっていたんだけど、合宿の時司くんが理凰の曲を踊ってくれたみたいでね。そこからはもうストーンって落ちていっちゃったよ」
「司くんの滑りは目を引いちゃうから。僕たちだってそうだった」
「そうだね。本当に、司くんには感謝しているよ。あんなに楽しそうにしている理凰は久々に見たから」
「慎一郎くんにはあの修羅場が楽しそうに見えるの?」
僕が言えたことじゃないけど、慎一郎くんは頭の中に花が咲いたいるみたいだ。特に司くんとか理凰のことに関しては、蝶まで飛んでいる。
「純くんはここには何か用事が?」
「ううん。司くんに会いにきただけ」
「もしかして、結構な頻度で来ているのかい?」
「光の練習がない日は来てるよ。あとは練習前とかに時間があれば来るかな」
「意外と来てるんだね…」
「離れていた時間を考えれば、少ない方だよ」
今でもまだ足りない方なんだ。司くんには我慢してる僕を心から褒めてほしい。
そんなことを思っていれば、司くんを取り合う子供たちの声がさらに大きくなった。
なんかヒートアップしてるみたい。
『私の司先生は…』『俺の明浦路先生が…』と自分のものだという主張が強くなっていく。
側から見れば先生大好きな教え子たちの図、で済むんだろうけど、ああ何度も何度も主張されると腹が立つ。
僕は彼の憧れで、きっかけで、目標で。
彼のスケートも僕から形成されているもの。
スケーティングも、ジャンプも、教えたのは僕。
あの子達が見ているものは、僕からできているもの。
つまり、司くんは僕のだということ。僕の司くんを許可なしに見れることを感謝してほしいくらいだ。
あの子たちも、司くんが誰のものか分かれば落ち着くかな。
「ねぇ」
「あ!純くん!来てたんですね。すみません気づかなくて」
「別にいいよ。さっきまで慎一郎くんと話してたし」
「ま、また来たんですか夜鷹さん!」
「なんでクソジジイがここにいるんだよ!光の練習は!」
「休みだから来てるんだよ。それに、君よりかはここに来てるから」
「は…?」
「り、理凰くん、夜鷹さん、光ちゃんの練習ない日とか、結構うちに来てるんだよ…」
私の司先生に会うために、と言えば理凰は僕の方を見て睨んでくる。別に怖くもなんともない。子供だなと思うだけ。
「君たち、さっきから見てて思ったんだけど」
「は、はい…?」
「なんだよ」
「私の、俺の、と司くんを取り合ってるみたいだけど、無駄だよ。だって彼、僕のだから」
「「………はあぁぁぁぁぁぁ!?!?」」
「うるさいよ」
「いや絶対純くんのせいだよね!?」
リンクに思い切り響く二人の声。もう少し静かにしなよ。司くんの声のデカさで耐性があるからいいけど。
「司くん、手」
「え、あ、はい…」
「あーーー!!!また司先生の手握ってる!!前にダメって言ったのに!!」
「君に決める権利はないよ」
「離せよクソジジイ…!!」
「いやだ」
「純くん、大人げない…」
「何が。僕のそばにいる約束、忘れたの?」
「あれはスケートをしていない時であって…」
「寒いんだから仕方ないでしょ」
繋いでいた司くんの手を僕の頬に当てる。昔と変わらないぽかぽかとした温かい手だ。冷えた頬がじんわりと熱を持っていく。
「ちょ、」
「君たちもいい加減言い合うのやめたら。どれだけ言い合おうが司くんが僕のものに変わりないんだから」
「だから純く、ん!?」
「「あ”ーーーーー!!!」」
僕の主張が強くなればこの子達の主張も収まるかと思って、繋いでた司くんの手を頬から口に動かしてそのまま指に口付けた。
これで落ち着く、司くんを独占できる。そう思っていたのに、理凰たちが足にしがみついて司くんから離すし、逆に司くんの方も慎一郎くんが引き離してた。
「なに」
「なに、て!!え、分かってないんですか!?は、はは、はれんちなことしたのに!?」
「ハレンチ?」
「そうだよクソジジイ!!明浦路先生に、き、き、きすなんて!!早く拭け!口だけじゃなくて手も!明浦路先生の温かさがお前に付いてるだけで腹が立つ!!」
「り、理凰…司くんと引き離した僕がいうのもあれだけど、言葉が少々悪いような…」
「こいつ相手には別!!あ!明浦路先生も手しっかり拭いてください!!」
「あ、う、うん…?」
理凰たちを見るからに、指への口付けは駄目だったようだ。
あの子供いわく、ハレンチ?になるらしい。口にするわけでもないのに、変なの。
というか、いつまでしがみついてるのこの子達。
「離れなよ」
「「いやだ!!!」」
「純くん…」
「え?え?」
慎一郎くんも、いつまでも司くんの肩掴んでないでよ。
僕の司くん取らないで。
あの後、子供たちを抑えてちゃんと司くんは返してもらって温かさを堪能した。
「ぅぐ、じゅ、純さんくるしぃ……」
「僕から離れた罰だよ」






