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鷹槻れん/鷹槻うなの

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#極道
鷹槻れん/鷹槻うなの

19,895
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

1,598
父は、店の二階に戻ってきた。
金曜の朝、黒い車が商店街の角に止まり、宇野が後ろの扉を開けた。父はゆっくり降りて、商店街の石の道を見て、藍色のシャッターを見て、何も言わずに戸をくぐった。
「正市さん」
工房から、源さんが出てきた。手を拭きながら。
「源さん。世話をかけた」
「餡は、ことはが炊いてる。おれは豆を見てるだけだ」
「嘘をつけ」
父は、工房を覗いた。鍋。へら。木箱。父の木箱が、いつもの場所に戻っている。父はそれを見て、長く黙った。
「……おれの箱、使ったのか」
「六百、七日。全部、お父さんの箱で」
父は、箱の縁に手を置いた。置いて、撫でた。餡を練る手の癖で。
工房の隅に、椅子が一つ増えていた。源さんが、どこからか持ってきたものだった。背もたれのある、古い椅子。
「正市さんの席だ。立つな。座って、文句だけ言え」
父は、椅子を見て、源さんを見て、座る。座って、文句を言う前に、少し笑った。
母が、二階から降りてきて、父の肩に手を置く。ことはは、その三人を工房の戸口から見ていた。借金のない店に、父が帰ってきた。三か月かかって、やっと。
「ことは」
父が、座ったまま言った。
「車、氷川さんのか」
「うん。宇野さんが、運転してくれた」
「本人は」
「……来ない。仕事だから」
父は頷いた。頷いて、工房の壁を見た。
「変な男だ」
三度目だった。
◇
午後、本店。
催事部の事務所の奥に、小さな会議室があった。ことはは、藍色の紙に包んだ試作を、箱に二つ持ってきていた。豆大福と、十二月の試作の柚子の菓子。
麗華は、先に座っていた。黒いスーツ。催事部の課長の顔。隣に蓮田が、帳面を抱えて立っている。
「おかけになって」
ことはは座った。
「催事、お疲れさまでした。一番だったのね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「それでね。本店の食品の売り場に、柊屋さんの常設の台を出したい、という話が、上から来ているの」
上から。誰からかは言わなかった。
「常設は、催事と違うの。毎日、本店の客に売る。数は、催事の六百じゃ足りないわ。千、二千。それを毎日」
「……それは」
「だから、こういう形を考えました」
麗華は、紙を一枚、机の上に滑らせた。
製造は、松月堂の工場で。柊屋は、監修と、名前。
ことはは、紙を読んだ。二度読んだ。
松月堂。大手の和菓子のメーカー。本店の食品売り場にも、何種類も並んでいる。
「職人さんの手は、本店の量と格には合わないでしょう。だから、作るのは松月堂さんに任せて、柊屋さんは、味を見て、名前を貸す。それで、売り場に『柊屋』の看板が立つの。悪い話じゃないと思うけど」
悪い話ではない。名前が立ち、金が入り、店は楽になる。
源さんが、要らなくなる。
ことはは、紙から目を上げた。
「源さんの手は、どうなりますか」
麗華は、首をかしげた。
「源さん? ああ、あの職人さん。おいくつだったかしら」
「六十六です」
「そう。じゃあ、ちょうどいい時期じゃない」
何がちょうどいいのかは、言わなかった。言わなくても、分かった。
「柳町のお店で、今までどおりになさればいいじゃない。本店の分は松月堂さんが作るんだから、関係ないでしょう」
関係ない。本店に柊屋の名が立って、柳町の店に客が来なくなれば、源さんの手は、どこに要る。
ことはは、箱の蓋を開けた。
「試作です。豆大福と、十二月に出す柚子の菓子。一度、召し上がっていただけますか」
麗華は、箱を見た。藍色の紙。白い餅。黄色い柚子の餡。
見て、蓮田に言った。
「下げて」
蓮田が、箱を持った。持って、ことはを見た。見て、箱を部屋の隅の台に置いた。
「返事は、十二月一日まで。それまでに、お考えになって」
麗華は立ち上がった。ことはは、紙を持ったまま座っていた。製造は、松月堂の工場で。柊屋は、監修と、名前。
名前だけ。
◇
店に戻ると、父が工房の椅子に座っていた。
椀を拭いている。源さんが豆を見ている。母が店先。退院の日の、夕方の工房だった。三人が、いつもの場所にいる。
「本店の話は、どうだった」
父が、椀を拭く手を止めずに聞いた。
ことはは、鞄の中の紙を、出さなかった。
「……まだ。返事は、十二月一日まで」
「いい話か」
「分からない」
嘘ではなかった。いい話かどうかは、誰にとってかで変わる。父は、それ以上聞かなかった。聞かないで、椀を拭いた。
ことはは帳場に行って、引き出しを開けた。契約書の封筒の上に、麗華の紙を置いた。製造は松月堂、柊屋は名前。閉めた。
源さんの背中が、鍋の前にある。六十六歳。ちょうどいい時期。
ことはは、引き出しの上に手を置いた。置いたまま、しばらく動かなかった。
◇
夜、屋敷。
遼は八時に帰ってきた。食堂を通りかかって、ことはの手の中の紙を見た。
「それは」
「麗華さんから。常設の話です。製造は松月堂、柊屋は監修と名前だけ」
遼は、紙を見なかった。ことはの顔を見た。
「受けるな」
「……理由は」
「言う必要はない」
「うちの店のことです」
「だから言っている」
遼はそれだけ言って、書斎へ行った。扉が閉まる。
ことはは、紙を机に置いた。受けるな。理由は言わない。受けなければ、源さんは残る。受けなければ、麗華は次の手を打つ。それは、七日の間に覚えた。
ことはは、紙を裏返した。白い面に、何も書いていない。
白い面の上に、源さんの大きな手が浮かんだ。それから、椅子に座って工房の壁を見ていた、父の顔が。
コメント
1件
**はる。:** 父さんが帰ってきて、工房にいつもの空気が戻ったところからの、名前だけ貸せっていう本店の提案…重いな。源さんの手が「要らない」って言われるのが一番辛かった。ことはが引き出しの上に手を置いたまま動けなかった気持ち、すごく分かる。遼の「受けるな」もすごい強いな。続きどうなるか気になるわ🔥