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代々木公園の静寂から一転、アムール・ホールは開演を数時間後に控えた熱気に包まれていた。
重厚な扉を開けた瞬間、管楽器のチューニングの音、弦を擦る鋭い音、そしてスタッフたちの足音が混ざり合い、混沌とした不協和音が押し寄せてくる。
柊さんはその喧騒の中、躊躇うことなくステージ裏の入り口へと突き進んだ。
「ちょっと、柊さん! ここは関係者以外……!」
「警察だよ」
柊さんは私の静止を遮るように、近くにいたスタッフの腕を掴んだ。警察手帳を掲げているのは、彼の後ろにいる私なのだが。
「……本日、まだ会場に来ていない、あるいは連絡がつかない奏者はいるかな?」
柊さんの声は、オーケストラの騒音を切り裂くように響いた。スタッフは戸惑いながらも、手元の名簿を確認する。
「ええと……バイオリンの篠原さんが、まだ見えていません。リハーサルの時間なのですが、電話も繋がらなくて。……彼女、いつもは一番乗りなんですけど」
「篠原さんだね。……残念だが、彼女はもう来ないよ。死体で発見された」
柊さんはまるで、明日の天気予報でも伝えるような平坦なトーンで言い放った。その場にいたスタッフや、音出しをしていた演奏者たちの手が止まる。一瞬にして、ホールが凍りついたような静寂に支配された。
「……え? いま、なんて」
私は慌てて一歩前に出た。
「警視庁捜査一課の南です。……今朝、代々木公園近くで二十代の女性の遺体が発見されました。状況から見て、今しがたお名前の挙がった篠原さんの可能性が非常に高いです。現在、身元の確認を急いでいます」
悲鳴とも溜息ともつかない音が、周囲から漏れる。
「……信じられない。篠原が?」
奥から現れたのは、燕尾服を羽織った初老の男――このオーケストラの指揮者だった。
「彼女の荷物か何かは会場にありませんか?」
柊さんの問いかけに、彼は顔を青くしながら、近くにいた体格の良い青年に声をかけた。
「斉藤くん。……彼らに彼女の私物を案内してくれ。数日前からの連続公演だ、楽屋に荷物を置いているはずだ」
斉藤と呼ばれた青年は、大きなケースを抱えていた。中身はチューバだろうか、彼自身の体格に見合う重厚な楽器だ。彼は沈痛な面持ちで頷き、「こちらです」と私たちを促した。
楽屋へと続く長い廊下。斉藤さんの背中は、先ほどまでの活気が嘘のように丸まっていた。
「……篠原さんは、どのような方だったんですか?」
私が尋ねると、斉藤さんは一度足を止め、絞り出すように答えた。
「……彼女はこのオーケストラのコンサートマスターでした。技術はもちろん、人柄でみんなに慕われていたんです。僕みたいな若手の面倒もよく見てくれて……」
「コンサートマスター?」
聞き慣れない単語に、私は思わず呟いた。すると、横を歩く柊さんが、退屈そうに天井を見上げながら口を挟んだ。
「簡単に言えば、オケの現場責任者だ。指揮者の意図を組んで演奏者たちを統率する。指揮者が王なら、彼女は宰相。……あるいは、現場で最も権力を持つ実務家だね。演奏者全員が、彼女のボウイング一つに運命を委ねる。……それほど重要な人間が、なぜ路地裏でガーベラと一緒に転がっていたのか。興味深いと思わないかい、南さん」
柊さんの言葉には、死者への悼みよりも、パズルのピースを眺めるような冷徹な好奇心が透けて見えた。
「……柊さん。言葉を選んでください」
「嘘をついても始まらないよ。彼女が殺されたことで、このホールの空気間はすでに壊れ始めている。……斉藤さん、ここだね?」
斉藤さんが立ち止まったのは、いくつかの名前が貼られた共通楽屋の扉の前だった。 「……はい。篠原さんの荷物は、あの奥のロッカーにあります」
扉を開けると、そこには彼女が今日、手にするはずだった日常が、主を失ったまま静かに呼吸していた。