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斉藤さんはロッカーの場所を教えると、「リハーサルが……」と短く言い残し、逃げるように持ち場へと戻っていった。その背中は、チューバという楽器の重厚さとは対照的に、どこか落ち着かない軽さを孕んでいるように見えた。
私は手袋をはめ直し、篠原さんのロッカーの中身を慎重に改めた。
事件の証拠のようなものは見つからなかったが、中からは彼女が直前まで手にしていたであろう日常の断片が次々と現れた。
「……柊さん、これ」
ロッカーの隅、予備の楽譜が詰め込まれた隙間に、数片のオレンジ色のガーベラが紛れ込んでいた。現場に落ちていたものと全く同じ色、同じ鮮度だ。
「ロッカーの中にも花びらがあるということは、彼女は会場に来る前に花束を持っていた……あるいは、ここで花束を受け取ったということですね」
「察しがいいね、南さん。現場には花びらしか落ちていなかった。つまり、犯人は彼女を殺害した後、わざわざ花束を持ち去ったということだ。鈍器代わりの花瓶でもない限り、花束を奪う心理は一つしかない」
「……独占欲、あるいは贈った本人による回収。痴情のもつれ、ですか」
「まぁそんなところだろうが、断定は避けよう」
さらに奥を調べると、小さな貴金属店のロゴが入った包装紙と、その中から純銀製の髪留めが見つかった。繊細な彫金が施され、中央には小さな真珠が埋め込まれている。一目で高価だとわかる、華やかで品のあるデザインだ。
「間違いなく贈り物ですね。包装紙まであるなら、最近もらったばかりのものか……。彼女がコンサートマスターに就任したお祝いか、あるいはプロポーズの類でしょうか」
「さて、この髪留めを贈った王子様がこのオーケストラの中にいるのか、それとも外にいるのか。……とりあえず、片っ端から聞き込みに回りましょうか」
私が手帳を取り出すと、柊さんはロッカーの扉を指先で軽く叩きながら、退屈そうに欠伸をした。
「聞き込み? 刑事という生き物は本当に、泥臭い地道な作業が好きだね。靴底を減らすのが仕事だと思っているのかい? 靴屋を喜ばすだけだよ」
「基本ですよ。地道な捜査こそが真実への近道です」
「僕に言わせれば、それは嘘をつく時間を相手に与えているだけだ。……南さん、もっとスマートにやろう。彼らは演奏家だ。言葉よりも雄弁に真実を語る道具を、全員が持っているじゃないか」
柊さんはそう言うと、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「追悼コンサートを開いてもらおう。……いや、今はその準備のための追悼リハーサルかな」
「……何て不謹慎な。彼女が亡くなったばかりなのに、演奏させるんですか?」
「不謹慎だからこそ、本音が出る。悲しみに暮れて音が震えるのか、あるいは罪悪感でリズムが狂うのか。……全員をステージに上げ、彼女の不在という最大の嘘を突きつけるんだ。それですべてがわかる」
私たちは再び、楽団員たちが集まるステージへと向かった。指揮者――先ほどネットで調べたら名前は諸星さん――はオーケストラの前で声を上げた。
「さて、篠原が亡くなった以上新しいコンサートマスターを決めねばならない。あくまで暫定的だが、今野、君に任せる」
今野と呼ばれた女性はコンサートマスターに選ばれるという嬉しい出来事のはずなのに、不謹慎と思ったのか顔を引き締めたまま返事をした。
「はい、わかりました」
そんな光景を見て、私はこそっと柊さんに耳打ちをした。
「見ましたか? 普通の人はこういう時は空気を読んでキリっとするものです。あなたみたいにへらへらしたり失礼なことを口にしたりしないんです」
「はいはい、今から不謹慎なことをするぞ。すみません!」
柊さんの大声に、指揮者のタクトが止まり、重苦しい空気が漂う。柊さんは迷いのない足取りで指揮台のすぐそばまで歩み寄った。
「皆さん、手を止めて聞いてほしい」
柊さんの声がホールの高い天井に反響する。団員たちの視線が、怒りや戸惑いを孕んで彼に集中した。
「篠原さんの訃報は、すでに皆さんの耳に届いているだろう。というか僕が言った……警察としては、このまま公演を中止にするのが筋かもしれない。だが、僕は提案したいんだ。彼女が最後に座るはずだったその席を空けたまま、一度だけ、彼女に捧げるための演奏をしてほしい」
「……何だと?」
諸星さんが絶句するが、柊さんは畳み掛ける。
「彼女はコンサートマスターだ。このオーケストラの心臓だった。その心臓が止まった今、皆さんがどんな音を出すのか、彼女も空の上で聞きたがっているはずだ。……それに、音楽家なら言葉で釈明するより、音で弔う方が性分に合っているだろう?」
柊さんの視線が、チューバを抱えたまま固まっている斉藤さんや、バイオリンを強く握りしめている他の奏者たちを、ゆっくりと、執拗に舐めるように動いた。
「さあ、始めようか。誰が一番、彼女の死を『喜んでいる』のか……。その不協和音を、僕に聴かせてくれ」
柊さんの挑発的な言葉に、ホールの空気が一気に張り詰めた。
私は彼の暴走に冷や汗をかきながらも、その場にいる全員の表情を逃さぬよう、鋭く目を凝らした。