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※この物語はフィクションです。
実在の人物及び団体、事件などとは一切関係ありません。
〈File3:緑の目の怪物〉
「コンビニ強盗の目撃者の目は節穴だな。犯人は身長170センチもない。もっと小柄なはずだ」
その言葉は推測というには力強く、なにかに裏打ちされたように芯のある言葉だった。
「……悪いけど、それはないわ」
「ほーう。君はなぜそう断言できるんだ?」
「あなたのいう目が節穴の目撃者、私だもの」
男の主張を認めるには疑問が残る。
私が見たコンビニ強盗は確かに170センチはあったし、なにより目の前の男は現場にいなかった。
見てもいないのに、犯人の特徴を言い当てられるわけがない。
「おもしろい。君はなぜ170センチ以上あると判断したんだ?判断材料を聞かせてくれ」
男の双眸が嬉々として細められる。
まるで割れたガラス細工のような瞳だった。
すっかり繊細さをなくしながら、ぎらぎらと鋭利な光を反射している。
気後れしそうになる自分を奮い立たせるように、私は背筋を伸ばした。
「現場に居合わせて、強盗と向かい合って立ったのよ。その時、目線の高さがほぼ一緒だった。私の身長が約161センチ。ヒールは10センチくらいあるから、170センチはあるわ」
「なるほど」
「それに犯人ならさっき交番に自首してきたわ。170センチ以上ある、左利きの男がね」
「それなら、なぜ君はここに戻ってきたんだ?」
「それは……」
「買い物なら、この近くに同じ系列のコンビニがあるだろう。営業を再開しているかもわからないこのコンビニに拘る理由でも?ただの野次馬か?それとも目撃者として、メディアのインタビューでも受けるつもりか?」
それは私の中で事件が解決していないからだった。
自首してきた立野の体格は犯人と似ていて、犯行に使った目出し帽を持参していた。
証拠と特徴が揃っても、まるで長い糸が縺れて絡んでしまったように、私の中に疑問がわだかまっていた。
「……あなたは、どうして犯人は170センチもないと思ったの?」
事件解決の糸口を求めて、男に尋ねる。
男はアスファルトに残されたカラーボールのインクに目線を流した。
インクが乾ききっていないうちに転んで、咄嗟に腕をついてしまったんだろう。
くっきりと腕の跡が残されていた。
「俺はこのインクの跡を、犯人が転倒した際についた腕の跡だと判断したが、違うか」
「そうよ。私がカラーボールを投げつけたの。そのインクが顔まで飛んだ上に、目出し帽で視界が狭かった。しかも犯行に失敗して焦ってて、そのせいで転んだんだと思うわ」
男は唇の端に笑みを湛え、深く頷く。
「それならこれは、左の尺骨の跡で間違いないな」
しゃっこつ、と唇で音をなぞる。
それが腕の骨のひとつだとすぐには思い至らなくて、男を見つめ返した。
尺骨、腕の骨、橈骨の相棒。
私の知識はその程度だった。
「尺骨は前腕の骨だ。小指側の。腕にインクがついたのは、頭を庇ったからだろう。つまり防御創。おそらく転倒した際にも、同じ場所をついたはずだ」
「それはわかるけど……だからなんなの?」
「法人類学的手法を用いれば、尺骨から身長を推定することができる」
男はポケットを漁り、メジャーを取り出した。
なぜメジャーを持ち歩いているのか口を挟む間もなく、男はインク跡に沿ってメジャーを伸ばした。
「この尺骨の跡は約25センチだ。人種や性別ごとに身長を推定する公式は、イギリスの統計学者やアメリカの法医人類学者によって考案されたが――」
「ちょ、ちょっと待って。なに、その身長推定って」
「たとえば……今ここに白骨化した遺体があるとする」
「はあ!?」
唐突な例え話に、眉を寄せて男を見据えた。
訝しむ私の視線は歯牙にもかけず、男は立ち上がって衣服についた砂埃を払う。
「完全に白骨化していて、軟部組織は残っていない。つまり、骨は繋がっておらずバラバラだ。さあ、君ならどうやって彼、あるいは彼女の身長を測る?」
問われ、脳裏にぼんやりと骨が浮かぶ。
200以上もある骨の名称を、私は多分4分の1も知らない。
「頭蓋骨、下顎骨、舌骨、頸椎、腰椎、鎖骨、胸骨柄、胸骨体、剣状突起、第一から第十二肋骨、上腕骨、尺骨、橈骨……さあ、どうする」
男はまるでその腕に骨を抱えているように、私に迫った。
膨大な骨の山を前に、私は途方に暮れてしまう。
剣状突起ってどこの骨だ。
「……骨を元のように並べて測るとか?」
言いながら、「この測り方はないな」と思った。
身長は骨の長さのことじゃない。
人がまっすぐ立った時の、足から頭のてっぺんの長さまでが身長だ。
「このやり方じゃダメね。骨を測っただけじゃ、皮膚や脂肪の厚みまでわからないわ」
男は私の答えを予期していたのか、したり顔で頷く。
「その通りだ。だから身長を推定するための公式がある。四肢骨から身長を割り出すのは一般的だが、人種や性別ごとに用いる公式は変えなければならない。たとえば全く同じ身長の白人と黒人がいたとする。しかし一般的に白人は黒人に比べては大腿骨が長く、黒人は白人に比べて脛骨が長い。つまり同じ身長でも人種によって骨の比率が異なるということだ。そのために人種や性別、骨ごとに用いる公式を変える必要がある。そこで、身長や人種がわかっている献体の骨を計測し、回帰直線方程式による身長推定式が考案された。もちろん人種や性別ごとに式は異なるが、幸いにもここはほぼ単一民族の国、日本だ。式は日本人向けのものでいいだろう」
まるで読みなれた本でも朗読しているように饒舌な語りべは、口を挟む隙を一切与えなかった。
私の右耳から左耳へ、ただただ言葉が素通りしていく。
言葉というより、意味をなさない音の群れだ。
そして男は懐からメモ帳を取り出すと、ボールペンを素早く走らせる。
「日本で広く用いられているのは藤井式だな。藤井式の左尺骨、性別を男と仮定すると公式は、Y=3.25X+792.01だ。この尺骨の跡は25センチ。これを式に当てはめると……」
淀みなく動いていた男の手が止まる。
ページを破るなり、私に押し付けた。
自信に煌めく瞳に促され、仕方なくメモ書きに視線を落とす。
そこに記されていた数字は……。
「160.451センチ……!?」
約160センチということは、私の目算よりも10センチは低いことになる。
ヒールを脱いだ私の方が、いくらか背が高いはずだった。
「もし犯人が本当に170センチ以上あるなら、この尺骨の跡は28センチから29センチはあるだろうな」
「……ありえないわ」
否定した傍から、胸のわだかまりが大きくなる。
男の言葉の真偽は定かではない。
法人類学的手法とやらが、どれくらい正しいものなのか素人の私では判断のしようもなかった。
だけど、この得体の知れない男と私の意見の食い違いこそが、自首してきた男に抱いた違和感の正体であるような気がした。
「ありえない?君は本当にそう言い切れるのか?君は犯人を目撃し、自首してきた男とやらにも会ったんだろう。なのに浮かない顔で犯行現場であるコンビニに戻ってきている。なにかがおかしい、そう気づいていながら、なぜ不自然な証拠を認めようとしない」
巧みに言葉を組み立てる緑の目の男が、私には怪物のように見えた。
骨の数が同じでも、肺で酸素を取り込んでいても、赤い血が通っていても、私とは根本的になにかが違っている。
そんな気がした。
けれど、心臓が肋骨を叩くような高揚感があった。
少しも揺るがない様子の怪物に、私はある提案をする。
それは――。
〈続〉