人気の少ない廊下に、私の走る足音だけが響く。
 『イザナくん!あのね!』
 その後、遅れて学校にやってきたイザナくんの傍へ急いで駆け寄り、興奮気味に今日のクラスメイト達の様子を伝える。
 
 私のことを友だちだと言ってくれたこと。
私に笑いかけてくれたこと。
今までのことを謝ってくれたこと。
 
 そんな初めての出来事に感情が高ぶって饒舌になる私に嫌な顔一つせず、小さく頷きを返してくれるイザナくんに喜びに満ちていた心も体もさらに飛び跳ねる。すべてが初めてのワクワクとした感情に、喉へ突き上げてくるような嬉しさを覚えた。
喉を素早く通る自身のはしゃいだ声が不自然に大きくなったり小さくなったりする。
 「…へぇ?良かったじゃねぇか。」
 そう、目を細めて笑うイザナくんの低くはっきりした声が、どこか怪しい含みを持って耳の中に入り込んで来る。同時に彼の耳に飾られている花札のピアスの金具部分が光に反射され、何かの意味を持ったようにギラリと鋭い光を放って輝く。
 『今までありがとうね。すっごい嬉しかった。』
 そう笑みを頬に滲ませた瞬間、自身の顔の奥に明るい灯火が点ったようになった。
ここまで私が“私”を保っていられたのはイザナくんのおかげだ。
イザナくんが私の傍に居てくれていなければ、今ごろ死んでいたかもしれない。
そう思い返した瞬間、イザナくんの存在の偉大さを再確認させられ、胸が痛くなるほどありがたさを感じる。
だがこれでようやくイザナくんに迷惑をかけることなく、普通に学校生活を送れる。イザナくん以外のクラスメイト達とも仲良くできる。そんな静かな喜びが水のように心の中に溢れ、突 き上げるような安堵感が胸を貫く。
「…どういたしまして」
 そんな中、イザナくんは私の頭を手の甲でグシャグシャと髪を乱すようなやや乱暴な手つきで撫でると、またもや意味ありげな口調で一つ声を落とした。
 
 
 
 「ねぇ○○ちゃん。放課後、先生に旧校舎の掃除頼まれちゃっただけどさぁ…」
 その日の放課後、いつも通り鞄に荷物を詰めている時だった。
手伝ってくれないかな?と様子を伺うような上目遣いで数人の女子生徒にそう頼まれる。
 『え、旧校舎? 』
 旧校舎とは、今私達が過ごしている校舎が出来てから閉鎖され、ずっと放置されている東にある校舎。
扉の鍵や蛍光灯が壊れていたり、古いペンキなど気分を悪くするような匂いが籠っていたりするからなるべく近づかないようにしてくださいと少し前のホールルームで生徒指導の先生に言われたことを思い出す。
 『なんでそんな場所…』
 昇降口や教室ならまだしも、わざわざそんな場所の掃除を先生が生徒に頼むのだろうか。
そんな疑問が雲のごとく沸き起こる様子を読み取ったのか、複数いるうちの一人の女子生徒が慌てたように口を開く。
 「んー、なんか新しい学習場所みたいなの作るらしいよ。」
 そう綴られた言葉にもまたもや胸につっかかる違和感を抱くが、ここでもしも断ってまたあのような関係が戻ってしまうのは嫌だ。せっかく良くなった環境に自らヒビを入れることだけは絶対にしたくない。
 『…分かった。手伝うよ。』
 俯き気味に視線を泳がせて、掠れておどおどとした声を零す。
自分の零した言葉に心が滅入りこんでいく。
 「やったー!ありがとうね○○ちゃん」
 そんな私とは反対にクラスメイト達は活気に満ちた笑みを顔全体に滲ませ、さっきとは違う、二段階くらい明るくなった声を出す。
もうここまで来てしまったのなら何があっても「いやだ」なんて言えない。そんな胸に湧き上がってきた慢性的な消化不良のようなやりきれない黒い感情に、私は無音のため息をつく。
 「じゃあ今から行こっか」
 「こっち!着いてきて」
 とんとん拍子で物事が進んでいき、女子生徒の一人に手を握られて私は鞄を持つ暇もなく教室の外へと引きずり出される。廊下を進んでいく足取りは他の生徒たちとは違い、段々と高い坂を上っていくように自然と重くなっていく。心が鉛を呑んだかのように重苦しい。
本当は今すぐにでもこの女子生徒の手を振り払って帰路へと走り去っていきたいが、自身の胸の奥深くに植え込まれた思い出したくもないドスグロいトラウマたちがそれを邪魔する。
 『…はぁ』
 もう一度ため息を吐いた瞬間、濃い不安が思考に影を落とす。なんとなく重い気分になる。
 
 ─…なにも起きなければいいのだが。
 
 
 
 続きます→♡1000
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