テラーノベル
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私は社の備品である小型のボイスレコーダーのスイッチを確認した。
念の為、佐藤さんとの会話を録音するのだ。
佐藤さんの自宅近くのカフェを選んだのは鴻上さんで、本格ラテアートが人気だとテレビでも紹介されていた。
店の奥の半個室スペースを予約してくれていた。
佐藤さんは今年の春に調理の専門学校を卒業し、我が社に入社した二十歳の男性。在籍していたのは二か月半だった。
まだ学生っぽさが抜けない、気の弱そうな表情。
以前の職場から聞き取り調査されるとなれば、不安に思っても仕方がないかもしれないが。
佐藤さんは、十九時五十八分に息を切らしてやって来た。
約束は二十時。
「すみません、お待たせしてしまって」と、佐藤さんは深々と頭を下げた。
Tシャツにジーンズ姿で、リュックを背負っている。
「いえ。お仕事帰りにご足労をおかけしました」
鴻上さんが立ち上がり、名刺を差し出す。
それを受け取る佐藤さんの手が、震えているように見えた。
わかるよ。
こんな極上イケメンの名刺なんて、恐れ多くて震えもするよね。
私は名刺を渡さなかった。
「私は人事部の乾です。佐藤さんの離職の際に手続きをしました」
「それは、その、ありがとうございました」
「あ、どうぞ座ってください。お仕事帰りでお腹空いてませんか?」
「いえ、大丈夫です」
「では、コーヒーでも」と言って、鴻上さんがカフェメニューのページを開いて佐藤さんに見せた。
「乾さんは?」
「ラテアートって……カフェラテですよね?」
「ラテならなんでも描いてもらえますよ? モカとか抹茶とか。ただ、勤務しているスタッフによって描ける絵が違うから、聞いてみましょう」
佐藤さんは、急に嬉々として饒舌になり、慣れた様子でスタッフを呼んだ。
常連らしく、スタッフも佐藤さんに少し親し気に説明する。
結果、私はモカラテにハート、鴻上さんはカプチーノにリーフ、佐藤さんはカフェラテに白鳥を描いてもらうことにした。
「ここのアートはフリーポアという技法で描かれているんです。ミルクを流し込みながら描くんですけど、すごく難しいんです」
「詳しいんですね」
「はい。その、調理全般が好きで、エクセランに入社したのも、キッチンでの修行のつもりだったんです。けど……」と、佐藤さんの表情と共に言葉も重くなる。
「フロアに配属になってしまった?」
鴻上さんが言った。
「はい……。僕が入った頃にちょうどフロアのアルバイトが二人も辞めてしまって」
「そのようですね」と相槌を打ちながら、鴻上さんがチラリと私を見た。
何だろうと思って三秒ほどで気が付いた。
私はボイスレコーダーを取り出し、テーブルに置いた。
「録音させていただいてもいいですか? 佐藤さんにご迷惑は掛けませんので」
「えっ……? ……はい」
戸惑いながらも承諾してくれて、私はスイッチを入れた。
「電話で話した通り、O駅前店のスタッフの雇用に関して調査しています。ここ一年ほどで退職が続いたので。この録音は、調査の責任者に報告する際にのみ使用します。O駅前店のスタッフが聞くことはありませんから、安心してください」
「はい。いえ、いいんです、聞かれても。二か月ちょっとしかいませんでしたし、もう辞めたので」
「そうですか。では――」
「――お待たせいたしました!」
女性スタッフがラテカップを三つ、トレイに載せて持って来た。ソーサーをそれぞれの前に置き、アートを崩さないようにカップをのせた。
「うわ、可愛い」
中央に大きなハート、その周囲に小さなハートが散りばめられている。
ミルクを流し込んでと言っていたが、こんなに小さなハートを、どうやって描いているのか。
スポイトでたらすとか?
鴻上さんのリーフも、幾重にもミルクの筋が描かれている。
飲むのが勿体ないと思いつつも、折角のモカラテが冷めてしまってはと、ゆっくりと口をつけた。
チョコレートの甘さ、コーヒーの苦み、ミルクの甘さと、何層もの味が口の中に広がる。
「美味しい……」
緊張感のない肩の力が抜けた声が出てしまう。
ハッとして顔を上げると、佐藤さんはラテアートの写メを撮っていた。鴻上さんは私を見て、目を細めている。
「すみません、仕事中に気の抜けたことを言って」
「気にし過ぎだよ」
佐藤さんがスマホを置き、鴻上さんが彼に向き直った。
「では、退職の理由を聞かせてください」
「……はい。直接の理由は……店長です」
「辞めるように言われたとか?」
「いえ。ただ、店長と一緒にフロアにいると、その、仕事が……なくて」
「仕事がない?」
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