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コメント
1件
うわ、今回の話すごく重かったね…。数字がどんどん膨らんでいくところ、なんだか息が詰まるような感じがしたよ。しかも清朗の名前が何度も出てくるの、本当に不気味。善意の形をしてるからこそ厄介、っていう縫季の言葉、すごく刺さった。まだまだ謎が深まってるけど、縫季の冷静な視点が頼もしい…。次が気になるよ。
夜。
王太子府の記録室は、昼の喧噪が嘘のように静かだった。油灯が卓の上を照らし、橙色の光が帳の端を柔らかく縁取っている。外から虫の声が聞こえるだけだ。細く、途切れ途切れに。
縫季は座に深く腰を沈め、広げた帳に目を落とした。倉庫で見た項目を、数で直しに来た。「安堵配給」が、どれほどの頻度で、どれだけの量で動いているのか。それを確かめなければ、歪の全体像は見えない。
指先で文字を追う。
「安堵配給。穀物、二百斤。配給先:民生安定。医官経由」
そこから先の記録は、途切れない。そして、増えている。
「穀物、三百斤。塩、五十斤」「穀物、四百斤。塩、八十斤」「穀物、五百斤。塩、百斤。油、三十斤」「穀物、六百斤。塩、百二十斤。油、五十斤」「穀物、七百斤。塩、百五十斤。油、八十斤」
縫季の目が、鋭くなる。
(急に、膨らんでいる)
通常の配給は、月ごとに計画され、ほぼ一定の量が維持される。急激に増えることは、まずない。だが「安堵配給」だけは、何かに駆り立てられるように膨張し続けている。
縫季は次の読み進めた。そこには、配給の承認者の名前が記されている。
「裁可:清朗」
またその名だ。縫季は帳の上で指を止めた。
帳は正確だ。正確すぎて、現場を映していない。市井で見た、あの老人の震える手と同じだ。帳には「足りている」と書いてある。だが、その「足りている」が、どこへ消えているのか――帳は答えない。
(承認が、清朗)(供給元も、医官府)(配給先は『民生安定』――)
文字の向こうで、線が少しずつ一本に寄っていく。揺れたのは胸ではなく、判断の方だ。この流れは、追えないように作られている。
縫季は読み進めた。供給元を管理する帳。
「出し元:医官府。預かり役:清朗」
(医官府が、配給を握っている)
医官府は医療の部署だ。薬草、医官の配置、民の健康。それらを司る場所が、物資の動脈に手を伸ばしている。しかも、名義は清朗。
縫季は別の記録へ目を移した。医官府の活動記録の、さらに隣。
偶然、視界に入った一本の簡。
「東境、異民族の動き。斥候報告」
縫季の手が、止まった。
(……東境?)
この時代の殷に、東境の脅威はないはずだ。灯台に保存された記録では、この時期の殷は安定していた。東の異民族との接触が現れるのは、さらに後年の記録だ。
なのに、斥候報告がある。
縫季は書付を手に取った。日付は――十二日前。
安堵配給が始まってから、三日後。
「東境、小規模な集落に不審な動き。詳細不明。継続監視中」
言葉は慎重だ。事件とは書いていない。異常とも断定していない。ただ、「不審」とだけ。
(十年、早い)
縫季は書付を元の位置へ戻した。指先が、わずかに冷えている。
保存記録に残る流れだけを見れば、この報告は現れないはずだ。だが、存在している。
安堵配給が始まった。世界線の記録が薄れた。そして、ありえないはずの動きが、東境に現れた。
点が、また一本、繋がった。
縫季は医官府の活動記録へ視線を戻す。
「民の安寧のための巡察」「民の壮健を保つための配給の定め」「病を未然に防ぐ施し」
どれも整っている。言葉は正しい。善意の形をしている。
縫季は油灯の光の下で、その『正しさ』を見つめた。
(善意だから、厄介なんだ)
悪意なら止められる。名義も経路も疑われる。だが善意は疑われない。むしろ守られる。そして守られた善意ほど、利用しやすい。
ふと、帝辛の姿が浮かんだ。配給の帳を指先で追い、数を確かめる目。あの人は、制度を信じている。信じられるように作ってきた。
(その人の国に、『信じさせるための流れ』が混ざっている)
縫季は、その想像を押し込めた。今は感情ではない。今は、手順だ。
帳の端にある、受け取りの刻と印の記載欄へ視線を滑らせる。――印が動く。名義が動く。それだけで、いくらでも流れは作れる。
縫季は立ち上がった。油灯の火が、わずかに揺れた。
月が浮かんでいる。静かで、穏やかな夜だ。だが、この静けさは、何も起きていない証拠ではない。
(明日、清朗に会う)
まず、事実を取る。清朗が何をしているのか。なぜ「安堵配給」を始めたのか。誰のために、どこへ流しているのか。そして、その背後に誰がいるのか。
縫季は帳を元に戻し、記録室を出た。廊下は暗く、足音だけが響く。胸の奥に残るのは、甘さではなく冷えた確信だった。
(入口は、ここだ)