テラーノベル
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翌朝。王太子府の中庭は、朝露が光を反射してきらめいていた。
清朗は、いつものように爽やかな笑顔を浮かべ、官吏たちと談笑している。一見、何も変わらない。
だが、縫季は少し離れた回廊の影から、清朗を注意深く観察していた。
(何か……違う)
清朗の笑顔は確かにそこにある。けれど、薄い。表面だけを張り付けたような、奥行きのない明るさだった。
「清朗殿、昨日の配給の件ですが」
若い官吏が声をかける。清朗は頷き、笑顔のまま答えた。
「異状ないよ。すべて手筈通り」
「はい。ただ……南の集落から、少し報告が」
「報告?」
「夜になると、民が落ち着かないと。不安を訴える者が増えているようで」
清朗の表情が、わずかに曇った。
「……そうか」
「何か、ご存知ですか」
「いや」
清朗は少し考えるように目を伏せた。それから、迷いを払うように顔を上げる。
「配給が、まだ足りていないんだ。量を増やす。医官府に伝えてくれ」
「増やす、ですか」
「民が不安なのは、支援が届いていない証拠だ。もっと手厚くすれば、落ち着く」
官吏は頷いた。
「承知しました」
「殿下のためだからね」
その言葉に、官吏が一瞬だけ表情を止める。驚きというより、戸惑いに近い。
「……え?」
「殿下が安心して政を行えるように。それが俺たちの仕事だろう?」
声は明るい。だが響きが、どこか平らだった。言葉が先に出て、気持ちが追いついていないみたいに。
官吏は曖昧に頷いた。
「……はい。その通りです」
「じゃあ、また後で」
清朗は軽く手を振り、その場を離れた。
縫季は、その一連を見届けた。
(……逆だ)
落ち着かないのは、支援が足りないからではない。香が切れているからだ。足せば足すほど、次に切れたとき、もっと苦しくなる。
清朗は知らない。だから、増やす。善意で、増やし続ける。
(『殿下のために』)
以前の清朗なら、もっと冗談が混じったはずだ。軽さがあるから、周りも安心する。だが今は、軽さが消えている。
縫季の胸の奥が、わずかにざわついた。
(見落とすな)
自分にそう言い聞かせ、縫季は視線を追い続けた。
◆
午前の中頃。
縫季が記録室へ向かう回廊を歩いていると、前方から重い足音が近づいてきた。
白と金の官服。胸元の紋様は、王族を示すものだった。
「おい。縫季とやら」
声には最初から棘がある。男は三十代半ばで、体格がよく、顔に自信の痕跡だけが残っている。
「北の出だと聞いたが」
「そうです」
「殿下のお側に置かれているそうだな」
縫季は一礼した。
「光栄なことと思っております」
「光栄?」
男の声が低くなる。
「殷は、血を重んじる国だ。殿下のお側に仕える者は、然るべき家の出でなければならない。それが、この国の秩序というものだ」
縫季は何も言わなかった。
言わない、というより、言う必要がない。相手は答えを求めていない。圧を求めている。
「素性の知れぬ者が、殿下のお気に入りなどと。いつから殷は、血の重みを忘れた――」
「縫季!」
明るい声が、回廊に飛んできた。
清朗だ。大量の木簡を両腕に抱え、少し息を切らせながら駆け寄ってくる。
男が振り返る。
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
清朗は男を見て、一瞬だけ目を細めた。それからすぐに、いつもの笑顔に戻った。
「あ、柴公子殿。お久しぶりです」
「……清朗」
「縫季、ちょうどよかった。殿下が探していた。例の配給の件で」
清朗は縫季の腕を引き、自然な動作で男から遠ざける。
躊躇がなかった。迷いがなかった。それだけで、清朗という男が分かった。
「柴公子殿、失礼しますね。殿下のご命令なので」
男は何か言いかけたが、「殿下のご命令」という言葉の前で口を閉じた。
「……行け」
低い声だけが残った。
回廊の角を曲がったところで、清朗は縫季の腕を離した。
「大丈夫か?」
「問題ありません」
「あの御仁は柴公子殿。陛下の甥御だ」
清朗は声を少し落とした。
「血縁を重んじる御仁だ。殿下のお側に、家の後ろ盾がない者がいるのが面白くないんだろうな」
「それは、分かります」
「でも」
清朗は立ち止まり、縫季を振り向いた。
その目が、さっきまでの『薄い笑顔』とは違う。芯があった。
「殿下は、血じゃなくて実力で人を選ぶ。それが殷を強くしてきた。柴公子殿みたいな御仁が何を言っても、殿下の判断は変わらない」
一拍。
「だから、お前も気にしなくていいんだ」
その言葉は、励ましというより、事実の確認に近かった。
縫季は清朗を見た。
さっき中庭で見た、平らな笑顔とは違う。今の清朗には、奥行きがある。
(これが……本当の清朗か)
帝辛の隣で、言葉を挟み、空気をほどく男。誰かが困っていれば、当たり前みたいに動く男。
その軽さは、軽率ではない。重さを知っているから、あえて軽く運んでいる。
縫季は短く頷いた。
「……ありがとう」
清朗はにっと笑った。
「礼はいらない。俺はああいう手合いが嫌なだけだ」
そう言って、また木簡を抱え直した。
「それと、お前もう少し力を抜け。俺の前でまで畏まられると、こっちが疲れる」
清朗は軽く手を上げ、歩き出した。
その背中は、まだ迷いを持っている。重さを、まだ運べている。
(これが、後で失われるのか……)
縫季は、その背中をしばらく目で追った。
コメント
1件
うわあ、清朗の“薄い笑顔”の描写、すごく心に残りました……。表面だけの明るさと、縫季を助けるときの芯のある目との対比が、一層彼の優しさや重みを感じさせて。柴公子への対応も、自然に縫季を庇う動きに出るところ、清朗の人間性がよく出てるなって思いました。「軽さは軽率ではなく、重さを知っているからあえて軽く運んでいる」──この一文、めちゃくちゃ好きです。次が気になります!