どごんっ!
開始早々破壊されるアパートを後ろに、私は屋根の上を駆け抜けていた。
ビュンビュンと風を切る音が、横で五月蝿く鳴いている。
「逃げるつもりか?」
底冷えするような声が後ろから聞こえる。
逃げるつもりはないが、正直私だけでは無理だ。あの《怪物》は広範囲タイプ、私の能力も大まかに言えばそうなのだが、まあ正確には違う。
というか、余り能力は使いたくないのだ。
「ふむ…これは結界か。よく考えたものだ」
「……」
「逃げるつもりなら、早くこの結界を解いてくれ」
「解くかバーカ」
ぴしゃっ。頬に何かがぶつかってくる。親指をそれを拭い、確認するとそれは泥だった。
「…ッ!」
屋根を全力で蹴り、泥を振り払いながら横に飛び跳ねる。飛び跳ねた先には何もない、私はそのまま地面に落下した。
その直後、私がいた所を中心に泥が舞い上がった。
「……厄介だな」
近くにあった小石を掴み、《怪物》に向けてぶん投げる。小石は勢いのまま、《怪物》の肉体に到達し、貫通した。
…が、貫通したところはすぐに泥で埋まってしまう。
「ま、だろうな」
だが、面倒だな。再生したということは、体の何処かに核となるものがあるはずだ。
その核を見つけ出して、壊せればいいのだが…。
「黒鳥、行け」
影から鳩走る1つの黒い閃光が、また泥を貫いた。1匹、2匹、また3匹と。
鳥の群が閃光となり、ヤツの肉体に風穴を空けていく。
「……?」
だが、ヤツは動こうとしない。どれだけ風穴が空こうが、気にしていない様子だった。
どんどん増えていく風穴。流石にこれだと、再生が間に合わないだろう。この間に、核を見つけられるようなヒントがあれば…。
「余所見は良くないなあ」
「…っ!?」
突然耳元から聞こえた声。反射的に私はその場から、跳躍した。
ゆらゆらと笑う泥。黒い閃光によって空けられた無数の風穴が少しずつ再生されていた。
こいつ…まさか。
「ハッキリ言うと、俺はお前を殺せないんだ」
「……」
「ほら、俺って泥だから」
気付けば、ヤツの肉体は完全に再生されていた。彼によく似た顔が、こちらを見ている。それだけでも不快だ。
泥だから殺せない。きっとこの《怪物》は寄生や再生することに長けているのだろう。正直、かなり厄介だ。
なら、どうするか。その再生速度を上回る速度で、攻撃を仕掛けるか?しかし、先ほどの攻撃で分かる。それだけだと、こいつは倒しづらい。そもそも、こいつに核なんてものはあるのか?
先ほどの閃光、隙間なく風穴を開けれるよう操作した。が、ヤツは今もこうやって、完全に再生してそこに立っている。
もしかして…。
「…お前、本体が別にいるな」
今回は似たような《怪物》が複数いるのだと思っていた。何故なら、泥の《怪物》を探知した場所は森の中や、都内だと思えば、南でも見つけたり…。
正直、全部1つだとは思えない。
「はは、御名答。本体は他の所にいるよ」
やっぱりか…!
ということは今対面しているコイツは分体。本体は何処か…。
範囲が広すぎるせいで、全く検討も付かない…!
「びっくりした?したよなあ、まさか単体での仕業なんて。思わなかっただろ?」
「ああ…思わなかったさ!」
上半身を低くし、足で地面を蹴る。一気に《怪物》との距離を縮め、そして私は拳を振り翳した。
拳は曲線を描き…何にも当たることはなかった。シュッと空気を切る音がした。
「……クソがよ」
そこには誰もいない。小さな泥も、何も。
「逃げられた、か…」
シュルシュルと結界が解けていく。
…もう夜か。
空を見上げると、そこには光放つ満月が浮かんでいた。星は…かなり見える。
余り、ここら辺が都会ではないからだろう。
「……はあ、とりあえず…」
発信機を取り出し、電波を繋げる。
「聞こえてるか、聞こえるなら応答してくれ」
『はあい、コードネーム【眠り姫】でえす』
発信機越しに、彼女の明るい声が聞こえる。その声に少しだけ癒された気がした。
「【鴉】だ。そちらはどうだ」
『特に問題はないです!』
「侵食は?」
『まだまだって感じですかね、言うても、覚醒までは1年掛かるくらいだと思います』
「そうか…なら良かった。そのままよろしく頼む」
『はい!あ…』
「どうした?」
バタバタと、発信機から雑音が聞こえる。これは…赤ちゃんの泣き声?
『うわあ!ごめんねえ、あっ、お漏らしか!…あ、ごめんなさい!切ります!』
「了解」
まあ、相手は赤ん坊だしな。そいうこともあるんだろう。…大変だな。
赤ん坊の侵食はそんなに、か。まあ、覚醒しても赤ん坊の体だと、余り動かないからな。いや、泥で何とかできるか…?
情報が少ないせいで、判断が難しいな。
それはそうと本部に連絡をしないと。
「こちら、コードネーム【鴉】」
『…こちら【ローズ】本部、コードネーム【蜘蛛】よ。何か用?』
甘く、ねっとりとした声が耳に纏わりつく。声は人それぞれなのは分かるが、やはり慣れない…。
「…《泥人形》についての新たな情報を」
『成る程、言ってみなさい』
「今回の件,全て単体の《泥人形》の仕業であり、本体がいる模様。私が交戦した《泥人形》は分体であり、この本体に関しては《泥人形》からの情報。現在、《泥人形》逃亡中」
『了解したわ、他には』
「《泥人形》が覚醒した際、本人は錯乱状態に。恐らくですが、《泥人形》が本人の精神に侵入し、何かしらの影響を及ぼしたかと思われます。また、《泥人形》は再生や、分裂、寄生に長けていると予想。攻撃能力はそこまで高くないかと」
『分かったわ、みんなに伝えとくわね。では、健闘を』
「健闘を」
…《泥人形》。
色々と厄介な相手だ。広範囲に広がる敵は、余り好きじゃない。特に分身する奴は。
が、仕方ない。それも我々の役目だ。
アパート…結構壊れてしまっているな。言うても、2階の壁だけだが…。大家さんは旅行中だと聞いたが、一応後で伝えておこう。
彼は死んだ。あれだと、確実に助からない。分かっていたことだ。
本当はアレに期待していたのだが…まあ、彼は所詮、そこら辺の一般人であり何の力もない。
だから、仕方ない。きっと、どうしようもない。
最後の彼の悲痛な表情。叫び声。彼の過去に一体何があったのかは知らない。
知らないが…何かしらはあったのだろう。だからこそ、覚醒されてしまったのだ。
「はあ…帰るか」
《泥人形》を追いたいところだが、何せどこに行ったのかが分からない。まあ、地道に探すしかないよな…。
♦︎♦︎♦︎
「少し失敗したなあ」
廃工場、誰もいないはずの場所に、男の声が響いた。
泥のような濁った瞳をした男は、目の前に立っている人間を観察する。
不気味な程に白い肌、黒が混じった、泥のような赤色の瞳。床に着くまで伸ばされた、黒い髪の毛。
男はひとしきり観察し終えたあと、ふうっと息を吐く。
「失敗作だなあ…さて、どうしようか、この子」
男は少し悩み、そしてハッと顔を上げる。
「どうせなら、適当にどこか歩かせよう!そこで覚醒するならよし、出来なかったら出来なかったで始末すればいいし。うん、これでいいよね!」
ニコッと男は笑うと、機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、廃工場を背に去っていった。
残された人間…いや、人間の形をした《何か》はゆっくりと顔を上げ、そして、顔を歪ませた。
その表情は、どこか狂気に染まっていた。
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