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「ねえねえ眼鏡お兄ちゃん、まだぁ~?」
何時までも固まっている幸人を急かすように、悠莉が見上げながら覗き込んでいる。
どうしたらいいのか分からないのだ、対応が。
改めて見ると悠莉はとても愛らしい。フランス人形のようなその造りは、愛狂しいと表現しても過言ではない。
穢れを知らぬ処か、疑う事すらも知らぬと思わせかねない程、その瞳は人を戸惑わせる。
彼女の前では、まるで自分が自分で無くなるような感覚を――
「ねえ~眼鏡お兄ちゃん?」
その声で幸人は、ようやく我に返った。暫し惚けていたのだ彼女に。
「あっ……ああ済まない。と言うより、何だその眼鏡と言うのは?」
“眼鏡お兄ちゃん”
特異点が常人として振る舞う為に、常に掛けている“異彩色魔眼擬装式眼鏡”の事を、幸人は特に気にしている訳でもないだろうが、その名称が微妙に気になったのだ。
「えっ? だって眼鏡だもん」
それは悠莉の幸人への主な印象が、『眼鏡を掛けた人』に他ならない。時雨が『変な頭の人』と同様。
「止めなさい、そんな変な名称は……」
それはそのまま『眼鏡お兄ちゃん』で固定してしまうと、また時雨におちょくられる原因になりかねない。只でさえ既に不味いのだ。
「じゃあ雫お兄ちゃん?」
「それはコードネームだ……。表でその名を呼んではいけないよ」
表でそんな裏の名を呼ばれた日には、特に病院内では更に不味い事に。
今の内に“表”の常識を教え込まねばならない。琉月の言う通り、悠莉は何故か殆ど表の事情に疎いと思われた。
「じゃあ……幸人お兄ちゃんって呼ぶね!」
「まあ……それなら――」
世間には『親戚の子を預かった』という事にしとけば、周りから怪訝に思われる事はないだろうと。
小尾に“お兄ちゃん”は、どうしても避けられないらしいが、幸人はそれで妥協するしかない。
それより――
「ってか、何故俺の名前を知っている!?」
仲介室より幸人は既に“裏”の住人。彼女に“表”を明かした記憶は無い筈。
「えっ? だってジュウベエがそう呼んでるし……。幸人お兄ちゃんじゃ駄目なの~?」
「いっ……いや、そういう訳じゃ……」
そうだったのだ。悠莉は幸人と同じ、動物と会話が出来る事を、焦りからかすっかりと忘れていたのだ。
「ねえジュウベエ? 幸人お兄ちゃんの名字は何て言うの?」
「ああ……如月だよ。だからお嬢は如月 悠莉になる事になるな」
「やったぁ! ボクに初めての名字~」
まだ幸人は許可した訳ではないのだが、悠莉とジュウベエは“表の設定”を、勝手に進めていた。
「勝手にそこまで進めるんかい……」
これには幸人も頭を痛めるが、親戚関係の子を預かった設定にするのが一番自然なのだから、これで通すしかない。まさか突然、実の妹が――とする訳にはいくまい。
それより幸人が気になった事。
「ん? 本名はどうしたんだ? 何もコードネームで通す必要は無いと思うのだが……」
それは悠莉という名が『コードネーム』であるという事。
裏の名が有れば、表の名が有るのが普通――
「本名? 何それ? ボクは最初から悠莉だよ」
だが悠莉は幸人の問いにそう答える。決してはぐらかしている訳ではなかった。
「それって……どういう……」
“どういう事だ?”
幸人は言葉を詰まらせた。普通は有り得ない。裏の顔を持つ者は、誰もが表の顔を持つ。
だが悠莉が何気無く洩らした、ある一言――
“初めての名字”
そして琉月が悠莉を託す時に言った、その言葉の意味を。
『世間の事も殆ど知りません』
この若さでエリミネーターのS級に位置する少女。
ならば悠莉は――
「ボクは物心ついた時から、既に狂座入りしてたんだも~ん」
そう。正に英才教育を施された、純正のエリミネーターという事に。
「なん……だと?」
悠莉は何気無く語ってはいるが、これには幸人のみならず、ジュウベエまで驚愕していた。
「お嬢……マジっすか……?」
「両親は……両親はどうしたんだ!?」
二人はその事実に焦りを隠せない。もしかしたら、ある可能性が――
「そんないっぺんに言われても……。両親? 知らな~い。ルヅキがボクにとって、お姉ちゃんみたいな人だから」
悠莉が困ったように受け答える。まるでそんな事は重要ではない、とでも言わんばかりに。
「それより~」
質問ばかりされても困ると、悠莉は話を逸らす。
「SS級エリミネーター、コードネーム『雫』……。ボクね、凄く憧れてたんだよ~」
途端に悠莉は目を輝かせて、幸人の腕に抱き着いてきた。
「ちょっ……ちょっと!」
その遠慮も恥ずかしげもない振る舞いに、流石の幸人も焦るしかない。と言うより最初からおかしく、何時もの彼の冷静さは何処にもなかった。これでは時雨に馬鹿にされるのも無理はない。
「通称“銀麗の死神”。カッコいい! 幸人お兄ちゃん銀色になるんでしょ? 見せて見せて~」
くりくりした愛狂しい瞳で、完全に戸惑っている幸人を上目遣いに見詰めながら、『雫』の姿へのおねだりだ。
断る事さえ憚れる、有無を言わせぬその魅力――
「だっ……駄目駄目! これは危険だから、簡単に見せれるものじゃない」
引き剥がすは出来ないが、幸人の真の姿、即ち眼鏡を外す事だけは、何とか拒否の態度を示せた。
「ええ~! 幸人お兄ちゃんのケチ……」
残念そうに唇を尖らせる悠莉。
「いや、ケチとかな訳じゃなく、ホント危険だから……ね?」
それを見て取った幸人の言い分。
言い訳がましいようだが、こんな場所で警告音を鳴らす訳にはいくまい。
「幸人お兄ちゃん……ボクの事が嫌いなんだ……」
その二つの瞳が徐々に潤んでくる。悠莉は今にも泣き出してしまいそうだ。
「違う違う嫌いとかじゃなくて! 今度ちゃんと見せるから……ね?」
慌てふためきながら、慰める幸人の姿がまた滑稽。
「ホント? 約束だからね!」
「あっ……ああ。分かった、約束だ……」
そんな二人のやり取りを、遠目で眺めるジュウベエの姿。
“えぇっと……あれ幸人だったっけ?”
「ククッ! すっかりお嬢のペースだな……」
ジュウベエは今は決して“見る事が出来なかった”幸人の姿に、失笑を隠せないが微笑ましくも見ている。
“アイツは昔から弱かったからな――”
「とりあえず帰ろうか? 此所が俺の家だから……分かった?」
早く話を切り上げたかった幸人は、サーモの情報を悠莉へと送信し、自宅の所在地を教えていた。
「は~い! ジュウベエ? 帰るよ~」
「ほいきた」
手招きした悠莉の下へと、意味深な想いを胸にジュウベエが駆け出す。
分子配列相移転により御帰還だ。
何時もは幸人と共にだが、今回は悠莉と共に。
手を広げて御待ちかねの悠莉の下へと、駆け寄って飛び込んだジュウベエは、しっかりとその腕にしがみつく。分子配列相移転の範囲内からはぐれない為だ。
「じゃあ出発進行~」
「はぁ……」
悠莉の掛け声と幸人の溜め息と共に、二人とジュウベエの姿が闇に薄れて消えていく。
屋根上には暗黙のみが残されていた。
************
「到着~」
それは時間にして、ほんの数秒。悠莉は如月家玄関前に姿を現していた。その腕には勿論、しっかりと掴まったジュウベエの姿も。
「動物病院自宅兼用。ここが幸人お兄ちゃんの家なんだね~」
「そう。そしてお嬢の城だ」
「きゃは! わぁ~いボクの城~」
二人のこのはしゃぎ様。疲れているから早く帰ろうと言っていた割には、それが全く感じられない。疲れているのかすら怪しい。
「幸人お兄ちゃん? 早く~」
「おう幸人、早く鍵を開けてやれ。お嬢は御待ちかねだ」
二人より寧ろ幸人の方が御疲れの模様。
「はぁ……」
同時に到着したが、それまで二人に呑まれて無言だった幸人は、急かされている事に溜め息を吐きながら、玄関の鍵を開けた。
当然室内は暗いので幸人は先に入り、玄関脇に備えられた灯りを点ける。
「お邪魔しま~す」
その瞬間、幸人の脇をすり抜けて室内に上がり込んでくる悠莉。
「ここはもうお嬢の家なんだから、お邪魔しますじゃなく――」
「あ! それもそうだよね~。ただいま~」
「そうそう、お帰りだ」
二人を見送る幸人は、玄関で立ち竦んでいた。
どうやら本当に此所に住み込むらしい。主人の意思は御構い無しで。
幸人のそれは、これからどう悠莉と接していけばいいのか? その思いで胸中は不安しかなかった。
気ままな独り暮らしも、望まぬ終わりを告げると――その時だった。
「あぁっ! 何よこれぇ!?」
室内に先に入った悠莉が、突如甲高い声を上げていたのは。
「何だ?」
立ち竦んでいた幸人も、その声を聞きつけて反射的に動き出す。
まさか空き巣に入られた訳でもあるまいが、世の情勢下では何が起きてもおかしくはない。
そう思うと急に不安になる。盗られて困る物が無い訳ではない。
特にパソコンデータ。狂座の極秘プロファイルが他者に洩れた日には――
“依頼外で該当者の口を塞がねばならない”
「どうした!?」
焦りの声と共に、室内に飛び込んだ幸人が目にしたのは、立ち竦む悠莉の後ろ姿。
「なん……なのよ……これ?」
震える悠莉の声に不安が募る――