コメント
0件
ボーン……。
地の底から音がこだまする。深く長く響いて……。ううん、違うわ。あれは一階の柱時計の音……。
『レナ……』
誰かが呼んでいる?
その声はくぐもっていて、男か女か区別がつかない。よく知ってる声のような、初めて聞く声のような不思議な感じ。
『レナ……』
私はふっと目を開けた。
『レナ……』
薄暗い部屋の中で半身を起こす。妙に頭がすっかりしている。昼間の熱っぽさが嘘みたい。もしかしたらこれは夢かもしれない。だって……ほら。
『レナ……』
「誰?」
そっとベッドを降りると、声を追って廊下を出た。電気をつけないまま、軋む階段を下りる。
居間に下りて柱時計を見上げると、針は零時と少しを指していた。さっきの柱時計の音は、やっぱり零時を知らせる音だったんだろう。
『レナ……』
また声が聞こえる。
「……こっち?」
微かな声は、物置部屋の方から聞こえる気がする。導かれるようにして、ただ声を追った。
そっと物置部屋のドアを開けると、埃にワックスやゴムが混じった雑多な匂いがする。ここには窓がないから……流石に電気をつけないと真っ暗。
中に入ってドアを閉めてから、電気をつけた。白茶けた明かりが物置部屋を照らす。掃除用具やペンキのカン、お母さんの旅行用のカバンなんかが仕舞われている。
……ここに入るのは数年ぶり。家のことは全部アーウィンがやってくれるから、私は物置部屋に用がない。自分で掃除しようにも、いつも綺麗で掃除する場所がないっていうか……。
そんな我が家の優秀なお手伝いさんの性格を反映しているのか、物置もきちんと整頓されていた。
「あれ?」
物置の奥の壁を見て、首を傾げる。突き当たりの壁に、鉄製の引き戸があった。……こんなところにドアなんてあった?
「?」
思い出せない。あったような気もするし、無かったような気もする。何のドアだったかな……。
好奇心にかられてドアをそっと引っ張った。鉄の引き戸は重くて、ドアとレースが擦れる音が響く。そっと、そっとね。こんな時間にベッドを抜け出してることがバレたら、怒られちゃう……。
扉を開いたら、湿った風が吹き込んだ。扉の向こうには、黒く細い空間が下に伸びている。コンクリートの階段が下へと続いていた。
びっくり。うちに地下があるなんて。ちょっと覗いてみようかな。いいよね、お家の中には違いないもの。それにまだ夢かもしれないという思いも捨てきれない。
寝ぼけていた頭は、次第に冴えてきた。体がいつになく軽くて変な感じなのだ。もう熱があって身体が重いのに慣れっこだから、今の状況の方が少し違和感がある……。こんなに調子がいいなら、少しくらい動き回ったってきっと大丈夫。
棚から小ぶりの懐中電灯を取ると、慎重に階段を降りていった。
背後のドアを開けっぱなしにしてあるので、この辺りはほんのり明るい。こんな通路があるなんて知らなかった……。何のための通路なんだろう?
懐中電灯で照らすと、木組みや石畳が見てとれる。お母さんやアーウィンはこの地下道のこと知ってるのかしら?危ないから二人で私に内緒にしていたのかな?
地下道は緩やかに下っている。足を止めた。何だか思ってたよりも先が長い。
振り返って今来た方に懐中電灯を向けてみる。暗い通路はゆっくり下りながらグネグネ曲がっているため、振り返ってももう物置の明かりは見えない。
あんまり遠くには行けないわ。こんな時間にベッドにいないことが分かったら、アーウィンが心配するもの。流石にこれが夢でないことは、もう分かっていた。戻ろうかな……でも……。
迷いながら前を向き直すと、懐中電灯の光が何かをとらえる。
「?」
さっきは気づかなかったが、壁際に何かある。何の気無しに、歩み寄った。
「!?……何これ」
壁の両脇に一人ずつ、二人の人間が向かい合って座り込んでいる。膝を抱え深くうなだれた首には、赤いロープが巻かれていた。それは緩やかに垂れ下がって、二人を結びつけている。私は呆然とそれを見つめていた。これは……何?
懐中電灯に浮かび上がる二つの人影。それが紛れもなく本物のヒトだと分かった時、悲鳴をあげて身を翻す。足がもつれて何度も転がった。
懐中電灯が放り出されガシャンという嫌な音がする。それを気にしている余裕はない。パジャマを泥だらけにしながら、必死に地下道を駆け戻った。
短い階段を駆け上がる。早く外へ!私はドアに飛びついた。
「!?」
ドアを開けようとして、驚愕。ない……、こっち側にはドアノブがない!!
鉄のドアは鉄の壁と化していた。とりすがる場所さえない。両手を強く押し付けてなんとかスライドさせようとしてみたのに、鉄の板はびくともしない。動かない!そんな!!
焦りと混乱の中で、必死に鉄の扉を引っ掻きながら思い出す。開けておいたはずなのに!!
ちゃんと押さえておかなかったから、ゆっくり閉まったのかもしれない。だけどーー。
「!……開かない!どうしよう!!」
扉を拳で叩いた。
「アーウィン、起きて!!ここを開けて!ねえ、アーウィン起きて!!誰か!!」
家にはアーウィン以外誰もいないことを知っていながら、声の限り叫ぶ。
「誰かここを開けてーー!!」
あれからどれくらい経ったのだろうか。鼻をすすり上げた。ドアを叩き続けた手は、小指側の側面が赤くなってしまっている。どれだけ叫んで叩いても、彼が来てくれる気配はない。当たり前よね、寝てるはずだもの。
鉄の引き戸は思ったより分厚くて、叩いても大きな音が出ない。声だって、アーウィンの部屋まで届いていないだろう。振り返り、長く伸びる地下道を見つめた。
「…………」
もしかしたら他に出口があるのかもしれない。ぎゅっとパジャマの裾を握った。大丈夫よ……朝になってベッドにいなかったら、アーウィンが捜しに来てくれるもの。大丈夫……。私は立ち上がる。
地下道の入り口は寒気がするほどではないが、空気がひんやりと湿っていた。物置部屋への扉があるのに、今は戻ることができない。
奥に進むと、足元にさっき放り投げた懐中電灯が転がっている。取り上げてスイッチを入れてみた。明かりはつかない。中の電球が割れちゃってるみたい。仕方ないわ、置いていこう……。
進むと、地下道が続いている。音もなく、水が石壁を伝って落ちていた……。
明かりがないので一歩づつしか進めない。闇の中では距離感とか時間とか……いろんなものが曖昧になる気がする。しかもあたりは一段と湿気が濃い。パジャマごと、しっとりと水を含んでいく。
「…………」
ロープを跨いで、この二人の間を通らなければならない。大丈夫……大丈夫よ。死んでいるもの。死んだ人は動いたりしないから……。と自分に言い聞かせて、胸の前で両手を組み合わせた。
「失礼します。通してくださいね……」
触れないように、慎重に素早く二人の間を跨ぎ越す。ほっと息をつこうとした瞬間、悪臭に口と鼻を抑えた。何これ?ひどい臭い!!胃液が逆流しそうになって涙が出る。ついさっきまで、なんの臭いもしなかったのに!
口だけで息をしながら、恐る恐る死体の門を振り返った。ここを抜けてからだ。何も遮るものなんてないのに、どうして?
座り込む二つの人影はただただ静かだ。
赤い縄で繋がれた二つの死体は、何かのゲートにも見える。誰がなんの目的で作ったのか、見当がつかない。ずっと直視はできない……。
やがて下っていた道が緩やかに上り始めていた。少しホッとした。このまま地下に潜り続けていたら、出口なんて望めないもの。
死体の門を通ってから妙な臭いが漂っている。何かが腐ったような臭いと、微かに甘い匂い……?