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いつの頃からか雨の降らない涸れた王国があった。天の恵みを失い、渇きに打ちひしがれる民草を想う賢王は様々な創意工夫を凝らしたが王国は滅びへと歩みを進めていた。
賢王には一人の息子があった。女神も恥じらう美丈夫で、また悪鬼も傅く勇敢さ、そして何より美しい王国と勤勉な民草を深く愛していた。
王の子は神々に救いを希い、女神の口利きもあって一つの予言を賜った。曰く、遥か南の地に祝福されし大理石あり。その大理石に秘められたる一人の乙女を連れ帰ったならば王国は潤いを取り戻す。
王の子は躊躇うことなく決心し、王国を飛び出し、遥か南へ。幾多の困難を越え、多くの悪漢、怪物を誅伐せしめ、大理石の乙女に見える。
乙女は絶えることなく涙を流し、その涙は大地に潤いをもたらした。王の子は熱意と愛で以て涙の乙女を口説き落とし、故郷の王国へと連れ帰った。
そうして乙女の涙は王の子の故郷に潤いを取り戻した。木々は緑に輝き、民草の餓えることのない豊饒を約束された千年の王国が築かれた。
潤いの御子と呼ばれた王の子は王国の中興の祖として崇められ続けた。後の世へ、そしてまた遥か彼方の地へ伝わる物語だ。
牛の如き大男がいた。名をアードフ。押しも押されもせぬ豪傑で、誰よりも勇敢で慈悲深かった。腰には一振りの刀剣。その巨躯に相応しい威容を備えている。
そしてその巨躯よりも剣よりも確かな、鋼の如く強い霊感を帯びた意志を秘めている。涙の乙女を奪う、という志だ。
アードフは緑地の大国仰ぐ者の土地にいた。その肥沃な土壌に豊かな実りを得、神と王を崇める多くの民を養い、幾多の戦に勝利した兵どもの名声は砂塵と共に砂漠を越え、渡り鳥に伴われて海を越え、万国に響き渡る強国だ。
アードフはメグ・サトラの栄えある都にいた。月と星々が最も輝く深い夜。建物の押し迫るような裏路地から僅かに見える王宮を見つめる。街は珍しく熱狂に包まれているが、裏路地に届くのはささやかな熱唱とわずかな喧噪だ。
太陽と渇きを恐れる砂漠の民を引き寄せる都は砂原のどこよりも水に溢れている。水源を擁する中央の王宮より幾本もの水道が伸び、いくつかの貯水湖を経て、都を取り囲む穀倉地帯へと流れ込んでいる。渇きと死の風に囲まれた水の都だ。
都には狡猾な商人が集い、才に輝く芸術家が集い、知に富む賢人が集っている。そしてそれ以外の生産に隷属する民草は逃げ出したくてもそうできなかった。
メグ・サトラの都は北の地には流れない温くて甘やかな水と、そして熱くて苦い血の街だった。豊かな実りは年ごとに重くなる税制によって運び去られ、貧困にあえぐ人々は仕事を求めて都に集い、血も涙もない貴族やその私兵によって戯れに処刑された。そしてそれら全てを知っていながら暴君鰐の如しは容認し、更なる蕩尽に餓え、邪な精霊も目を背ける程の贅沢に溺れていた。
裏路地を出で、祭日のメグ・サトラの通りを行くアードフの心中は真昼の砂漠よりも熱く燃え滾っている。
祝いの日ばかりは暴君グラアソンとて血を流すことを許さない。誰もが笑い、歌い、踊らなくてはならず、泣く者も泣かせる者も容赦されない。一年の間に課せられた税には遠く及ばないが、王宮から多くの恵みが齎され、人々は失ったものを少しでも取り戻そうと躍起になっている。
屋台や見世物を前にして楽しげに笑う罪なき人々を見るのがアードフには辛かった。明日から再び始まる地獄のことを考えないようにとする人々の引きつったような笑顔が恐ろしかった。
大男アードフは歩いているだけで耳目を集める。祭りの夜を哨戒する兵士たちも警戒し、緊張を見せる。もちろん、たとえ牛を組み伏せ、熊を退治できるアードフとて、諸外国との歴戦の戦いを乗り越えた軍団を相手に一人立ち回ろうとは思わない。
いくら義憤に己が心を燃やしても、金と才知で築かれた王宮で屈強な兵士たちに見守られて宴を開く暴君グラアソンを誅するなどというのは得策ではない。
だがアードフの決意に満ちた足跡はメグ・サトラの都の水道を遡り、水源を独占する王宮へと伸びていく。
女神への慈悲深き御心に祈り、暴君の罪深き所業を憎み、アードフは確信していた。世に名高い涙の乙女こそが王国の権威、暴君グラアソンの権力の源泉である、と。
涙の乙女を奪ってしまえば、遠からずグラアソンの権勢は失墜し、貴族も兵士も民草も暴君に従う理由を失うだろう。
王宮は常日頃と変わらず兵士たちによって守られている。しかし暴君の剣として時に残虐な兵士たちとて響く楽の音に浮足立ち、都の屋台から流れてくる肉と油の匂いに気もそぞろで、王宮から漂ってくる酒と白粉の香りに酔っていた。
アードフは容易く王宮に忍び込み、涙の乙女の元へと向かう。ただ流れてくる水に逆らって進めばメグ・サトラ王国の源へと行き着ける。
かくして辿り着いたのは王宮の中央、玉座よりも高い高台の階段井戸だった。流麗にして緻密、幾何学的に設計されたそれそのものが王宮の如き建造物である深い深い階段井戸のようだが、実際のところはもはや水が汲みだされることはなく、実質的には水を貯めおく貯水池であり、今も常に水が溢れ続けている。
中央には白大理石の四阿と見紛う巨大な寝椅子があり、そこには大理石の巨大な娘が横になり、涙を流し続けていた。
アードフの想像していたよりもずっと大きな乙女だった。これでは隠密に連れ去ることなど不可能だ。とはいえアードフはここまで来て諦めるつもりもなかった。
大理石でできた涙の乙女は戒められていない。つまり自分の意志でこの場に居り、涙を流し続けているのだ。
アードフは乙女の元へ進み出で、奴隷が市民に、市民が貴族に、貴族が王に、王が神にそうするように恭しく頭を下げる。
「華々しきメグ・サトラの母よ。渇する者と餓える者を見捨てぬ慈悲深き女神よ。どうか私の言葉を聞き届け給え」
涙の乙女は濡れた瞳でアードフを見下ろし、柔らかげな彫刻の唇を開く。「母じゃないし、女神でもないから。噂に浮かれて決めつけないでよね」
「失礼致しました。無思慮を謹んでお詫び申し上げます。ただ砂漠の民に対する貴女様の慈愛は赤子に対する母の如く、貴女様の慈悲は信心深き者どもに対する女神の如く、と愚考致しました故」
「まあ、良いけどね。悪口じゃないし」涙の乙女はアードフを見定めるように目を細める。「それで何の用? 王宮の人じゃないよね」
「我が名はアードフ。無辜の民の苦しみを憂い、グラアソンの暴虐に憤りし者。恐れ多くも罰の神に成り代わり彼奴めの不遜を正すべく参りました。彼の暴君に相応しからぬ権勢は偏に貴女様の威光に頼るもの。ひと時御隠れくださったならば必ずや臣民の目は啓き、グラアソンに相応しき罰が下されましょう」
「グラアソン君ってば暴君になったの? ちょっと前までこんなに小さかったのに」と言って涙の乙女は大理石の指で輪を作る。
「然様でございます。王統が確かとて国を滅びに向かわせて良いわけではありません」
「ううん。それはそうかもしれないけど。でもなあ」涙の乙女ははっきりしないことを言う。「約束は約束だし。ずっとここで大地を潤し続けるって誓ったんだもん」
「貴女様を掘り刻みし王子は既に崩御されております」
乙女の涙が更に溢れ、階段井戸の水面が波打ち、アードフの胸まで濡らす。
「分かってるよ。そんなこと。グラアソン君で何代目だと思ってんのさ」と言う涙の乙女は苛立ちを隠さなかった。「あ。グラアソン君」
アードフは立ち上がり、振り返る。高台の下に不敵な笑みを浮かべる暴君グラアソンがいた。涙の乙女に子ども扱いされるには老いた男だ。とはいえ蓄えた髭は艶めいて、目は爛々と燃え輝き、背はすっくと伸びて肉体に衰えるところはない。周囲は主人の合図を待ちかねる猟犬の如く戦意を滾らせる兵士たちが固めていた。
「俺の寝首をかこうとした痴れ者はごまんといたが、我が国の水源を狙う愚か者は初めてだ。その化生の女もまたこの国の宝、それに触れるは百度死んでも足りぬ罪よ。が、乙女の涙に免じて一度で許そう。俺も民草を干上がらせたくはないのでな」
「ほざけ! いくら水が満たされようとも民の血が流れれば本末転倒だ!」
「養っている数に比すれば、僅かな贖いだろう」
「貴様の享楽に贖う筋合いはない! 血を欲するならば見せてやろう! 冷たくどす黒い貴様の血を!」
アードフは伝来の剣を抜き放つ。分厚く幅広で、巨躯を誇るアードフに見劣りしない威圧感を放っている。一方でアードフの血を啜らんとする兵士たちの槍は二十を超える。
一斉に高台を駆けあがってきた兵士を出迎えるまでもなく、アードフもまた雄叫びをあげて駆け降り、一振りの剣で幾本もの鋭い穂先をさばく。振り下ろされる一刀は鎌に刈られる葦の如く容易く槍を両断し、穿たれた鎧の隙間から砂漠の薔薇の花弁の如く紅を迸らせた。瞬く間に二十を超える花が咲き、そこにアードフは数えられなかった。
グラアソンは感心した様子で髭を撫でつける。
「義に厚く情に深い愚か者は何を欲する?」
「賢明なる父祖の継いできた血の流れぬ国だ」
その時、流れ続ける水が勢いを増す。涙の乙女がさらに多くの涙を流していた。
「また死んだ。可哀想に。可哀想に」
涙と嘆きが階段井戸の庭園に満たされる。
「なお悲しいとよく泣くのだ」とグラアソンが涙の乙女を見上げて独り言のように呟く。
気に留めず、アードフは宣告する。「最期に言い遺したいことはあるか?」
アードフは剣を高らかに構え、グラアソンの脳天に狙いをつける。
「この国を担う者に伝えておかねばならんことがある」アードフの返事を待たずにグラアソン王は続ける。「奴は悲しくなくとも泣く。その涙で千人を潤す。誰かが悲しんでいると更に泣く。その涙で一万人を潤す。そして奴自身が悲しむと嵐の如く泣き喚く。その涙で十万人を潤す」
その言葉の伝えんとすることを理解し、死を握るアードフの掌が僅かに緩む。しかしもう後戻りはできない、涙の乙女と共に発展してきたメグ・サトラの王国と同様に。
アードフは覚悟を取りこぼさぬように握りしめ、振り下ろす。
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