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大垣とツトムは、ラ・コンナートをでた。
歩いて3分ほどの場所にある立ち飲み屋に入り、ワインの渋味とは対極にある甘いアルコールを注文した。
「おい、これぜんぶくれ」
大垣はスタンディングテーブルに置かれたメニュースタンドを手に取って、即決注文をした。
「いつもありがとうございます」
店員も驚くことなく注文内容を厨房に伝達した。
ツトムの心には、アルコール作用ではない興奮状態がつづいていた。
人生における命題ともいうべき能力の情報が、波のように押し寄せ、肩の力を抜けないままだった。
「やっぱりこっちのほうが断然落ち着く」
大垣はジョッキになみなみと注がれた梅酒ソーダを満足そうに飲んだ。
「ラ・コンナートは自分の店なのに落ち着かないんですか」
「俺みたいなもんはな、しょせん底辺からのしあがってきた人間だ。
カッコつけてイタリアンレストランなんぞ経営してても、この体と細胞は焼き魚と焼酎で作られてんだよ」
サラリーマンでごった返す立ち飲み屋に、大垣のよれたスーツがしっくりと溶け込んでいる。
大垣が100名以上の従業員を抱える貿易商社の社長だと伝えても、誰も信じはしないだろう。
「ひとつ、使える単語を教えてやろう」
大垣が声を押さえながら言った。
「人がいる場所では、能力のことを『ビッタ』と呼ぶんだ。そうせんと万が一にも能力の話を聞かれたりしたら、精神異常を疑われるからな」
「ビッタ、ですか?」
「イタリア語で能力のことをアビリッタと言うらしいんだが、シェアハウスのヤツらが勝手に造語にしてビッタと呼んでるんだ。能力も能力者もひとくくりに、すべてビッタだ」
大垣はテーブルに届いた椎茸の串焼きを口に放り込んだ。
ツトムは息だけの声で、ビッタと3回復唱した。
「大垣オーナーはビッタではなく、ぼくはビッタです」
「正しい用法だ」
大垣は1杯めのジョッキを飲み干し、さっそくおかわりを注文した。
ツトムのジョッキにはまだ半分ほども酒が残っていたが、大垣はツトムの2杯めも頼んだ。
ツトムも追うようにジョッキを空けた。
「オーナー。そろそろ長いお話を聞かせください。シェアハウスはビッタであることが入居条件であるのは理解できますが、家賃も光熱費も無料で、さらには毎月の活動費まで支給されるなんて、あまりに疑わしくあります」
「……」
「ただオーナーが嘘つきでも詐欺師でもないのは、直感でわかります。洋菓子店で神谷ひさしさんのビッタも実際に目にしましたし、店で働くビッタの従業員さんたちの姿は、とても詐欺被害者には見えませんでした。
いまだに幻想の内部にいるようですが、現状ではなにもかもつじつまは合っているように思えます。だからお聞きしたいのです。一体オーナーの目的はなんであり、またオーナーの目にはなにが映っているのでしょうか」
吐きだすように気持ちをぶつけたツトムは、ここでようやく肩の力を抜いた。
「いまのおまえの発言よりも、30倍も長くなるぞ」
「300倍でもかまいません」
ふたりはジョッキを掲げてかち合わせた。
ツトムの心に宿る猜疑心はすべて拭えたわけではない。
それでも危険だと判断すべき要素はいまのところ存在しなかった。
シェアハウスへの入居も就業もすべてツトムの自己判断に委ねられていて、その高待遇こそが不信と直結しているだけに、大垣の口からことこまかな情報を聞く必要があった。
「覚悟して聞けよ」
「肩の力を抜いて聞こうと思います」
「面倒なヤツめ……」
大垣はそうつぶやいたあと、すべてを明かしはじめた。
***
株式会社CJルート代表大垣元和は、幼少期を父の日常的な暴力に怯えて過ごした。
奇術師を生業とする父、大垣修(おおがきおさむ)は、世間に対しつねに憎悪を抱いていた。
息子元和はそのはけ口としての役割を母とふたりで担った。
修は舞台での余興を主な収入源としていたため、稼ぎは不安定で家計はいつも火の車だった。
しかし修は奇術師以外の職に就くことなく、有り余る時間のなかで募る苛立ちを、蒸留酒と暴力によって相殺させていた。
修の定期収入といえば、キャバレーショーの合間に披露する簡易的なマジックショーだけだった。
もちろん客は異なる目的で訪れている。
「さっさと女を出せ!」
「くだらねぇもの見せてんじゃねぇよ!」
そうした罵声を浴びることもしばしばだった。
つまりは経営者の一声によって、すぐにでも失職しかねない不安定な立場にあったのだ。
家族3人が暮らすには、キャバレーの稼ぎだけでは足りるはずもない。
残りは母の内職と、偶発的に舞い込む宴会や寄席での即金が頼りだった。
一本の細い糸に支えられた極貧生活だった。
しかし修は自らの奇術を売り込むといった努力をするような男ではない。
日々酒を飲み、仕事が舞い込むのを待つだけの男だったのだ。
あまりに受動的な修に対し、母は苦言を呈することはなかった。
ひたすら手土産品の加工を行うことで生活の足しにした。
「親父の手はいつも震えていた。でも俺とおふくろを殴ったあとには、手の震えが止まるんだ」
大垣は自分の手を見つめながらそう言った。
大垣修が唯一の武器として扱う奇術は、たったの一種類。
片手につかんだ物体を、瞬時に反対側の手のひらに移す。
それだけだ。
舞台に立って30秒もたずと飽きられてしまう単純な芸当だったが、修は様々な工夫を凝らすことでどうにか演芸として成立させた。
最初は左手にもつコインを、大げさな身振り手振りを交えながら、逆の手に移して披露する。
次にやや速度をあげてもう一度披露する。
しかし3度めにもなると、客たちは例に漏れず飽きはじめる。
修は舞台上からその反応をじっくりと観察しながら、客の退屈そうな姿を見ては、困惑の表情で立ち往生する。
すると舞台袖から台座を押した補佐人が現れる。
補佐人が運び込んだ台座のうえには木箱が乗せられていて、そこには大量のまんじゅうが山積みになっている。
現れた大量のまんじゅうを修がぽかんと眺めていると、補佐人は言葉を発することなく、食べろとアゴをしゃくる。
自分がなにをすべきか察知した修。
まずはまんじゅうを手にとって口のなかに放り込む。
すると補佐人は憤慨し、逆の手に移してから食べるようにと指示する。
ようやく状況を理解した修は、まんじゅうに手を伸ばして片手に乗せる。
合わせたように補佐人が、台座からアナログ時計とめくり台を取りだしては、客席にむけて大々的に披露する。
『これより、大垣修が』
『3分間で』
『木箱の饅頭をすべて平らげます』
3枚の用紙が順にめくられた。
『すべて平らげます』と書かれためくり紙に目を丸くした修。
木箱に積まれた大量のまんじゅうに面食らい舞台からの逃亡を図る。
案の定、補佐人に首根っこをつかまれ舞台中央へと連れもどされる。
へたるようにその場にしょげこむ修のまえに、まんじゅうの木箱が置かれ、補佐人は有無を言わさず時計を掲げる。
いよいよ逃げ場をなくした修が覚悟を決めたのに合わせ、補佐人は首にかけた拍子木を叩いて、演目開始を告げる。
制限時間は3分間。
修は左手でつかんだまんじゅうを、右手に移動させて口に放り込む。
「うまい」
そうひとり言をつぶやきながら、満足そうに口に入れて平らげていく。
となりで時間を計測する補佐人は、優雅にまんじゅうを食べる修に対し、次第に焦りを募らせていく。
しかし修は速度をあげることなく、おいしそうにまんじゅうを食べつづける。
やがて痺れを切らした補佐人が、地団駄を踏みながら客を煽りはじめる。
「はやく食べろ!」
「さっさと食って消えろ!」
木箱に残る大量のまんじゅう。
鬼の形相で地団駄を踏む補佐人。
野次を飛ばす観客たち。
修はようやく自分が追い込まれているのを察し、顔を真っ赤にしながら速度をあげていく。
まるでワニが獲物を丸飲みするように、修はまんじゅうをほとんど噛むことなく飲み込む。
観客の呼吸を読み、ときに水が欲しいと手を差しだしては補佐人に拒絶されてはしょげ、ときにむせ返って苦しそうに胸を叩きもがく。
そうしてちょうど3分。
台座のまんじゅうは修の腹にすべて収まるのだった。
観客はみな、もだえ苦しむ修の滑稽な姿に大きな笑い声をあげ、最後には喝采を送る。
演目を終えた修は客席に頭を下げることもなく、真っ青な顔のまま匍匐前進で舞台から去っていく。
修はたったひとつの奇術を、こうして演目として成り立たせた。