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幼い元和は母に連れられ、一度だけ父の舞台を観にいったことがある。
日々食い扶持に困る生活のなか、舞台上で腹いっぱいまんじゅうを食べる父に、激しい嫌悪感を抱いたものだった。
修の芸はまれに宴会場などで大きな反響を得ることがあった。
演目を終えて喝采を浴びたあとには、酔った客から酌を勧められることも多い。
そのたびに修は、手に取ったお猪口を左右へと自在に移動させながら飲んだ。
そうして得た特需のような臨時収入をもって、家族は外食にでかけたりもした。
しかし馳走をまえにしてなお浮かない母を見て、幼い息子の心が晴れるはずもない。
ひとり上機嫌な修は、周囲の客を楽しませようと無償で奇術を披露した。
「大人になってわかったんだが、親父は人を楽しませることが好きな人間ではあった。だがまわりが飽きているにもかかわらず、執拗におなじ芸を繰り返した。
つまり親父は空気が読めない男だったんだ。これは舞台に立つ人間としては致命的な欠陥だ」
大垣はししとうをほおばりながらそう言った。
家族での外食を終えると、修はレストランでの母と息子のつれない態度に憤りを再燃させ、容赦のない仕打ちを加えたりした。
日常的に暴力が横行するうえに、臨時収入にありついた日にも暴力がつきまとう。
幼い元和は暴れる父を恐れるあまり、押入れのなかを主な寝床として育った。
酔った修は、たびたび世間への憎悪を吐露する。
「なぜ世間は俺の奇術を認めないのか」
修はいつもそう嘆いた。
元和の幼心に宿るのは、死ぬほどつまらない奇術を誰が受け入れるのものか、という純粋な反発心だけだった。
元和ははやく大人になり、父の呪縛から解き放たれるのを毎晩夢見た。
元和が15になった年、修は脳卒中で倒れこの世を去った。
寂れた町の小さな葬儀場で、修は天へと召された。
葬儀の場で母は一滴の涙も流さなかったが、それが気丈な振る舞いでないのは、元和だけが知るところだった。
参列者たちはこれから路頭に迷うであろう母子に同情の視線を送ったが、当の元和は父からの開放を心底喜んだ。
遠巻きに母子を眺める参列者の群れを抜け、ひとりの紳士が母のまえにやってきた。
高価な礼服に身を包んだその紳士は、息子元和の身柄を引き受けたいと申しでた。
紳士は言った。
「半年ほどまえ、我が社の忘年会に余興として修さんにきていただいたのですが、彼はじつに立派な奇術師さんでした。舞台の演目は大変すばらしく、社員は修さんの芸をみて大笑いしておりました。おかげで宴会はとても盛りあがったのですが、そのあとがいささかまずかったのです。
深酒をしたひとりの社員が羽目をはずしてしまい、宴会場の隅で静かに酒をたしなむ修さんにむけてこう言いました。
『奇術がペテンでないのなら、服を脱いで酒を移動させてみろ』と。
修さんはその社員によって上衣を脱がされてしまいました。
静まり返る宴会場のなか、修さんは徳利をもってとぼとぼと舞台にあがりました。そして社員一同が見つめるなか高々と酒を掲げ、見事に手から手に酒を移し替えたのです。もちろん全員が袖の内側を通していると思い込んでいましたので、修さんの芸を見た社員からは地鳴りがするほどの喝采が起こりました。修さんは拍手のなか、手にした酒をおいしそうに飲んでから言いました。
『私は天才奇術師だからこうした芸当ができますが、ほかの奇術師にはけっして無理強いせぬようお願いいたします。奇術というものは、種が明かされると廃業に直結してしまうものなのです。会社様の立場で言うところの、第一級機密事項漏洩に該当するでしょう』
多くの社員は直ちに非を認め、宴会場のところどころから謝罪の声があがりました。舞台上からそれを見つめた修さんは、深く頭を下げたあとつづけてこう言いました。
『謝罪などとんでもありません。このように上半身をさらけだすことで、私の芸はさらなる信憑性と神秘性を獲得したのです。私は学ばせていただいたのです。それをご教示くださった社員様に、心から御礼を申しあげます』
私は舞台に立つ本物の奇術師の姿に、いたく感動しました。いてもたってもいられず舞台に赴き、社員を代表してもう一度非礼を詫び、今後彼に助力することを誓ったのです。ですが、それからまさか半年足らずで亡くなられるなんて、無念で仕方がありません」
紳士はそう言って、息子の元和をぜひ我が社の社員として迎え入れたいと申し出た。
そうして元和は見習い社員となって貿易に関するノウハウを学んだ。
やがて独立、類まれなる商才を開花させて現在に至る。
「幼いころ、舞台でうまそうにまんじゅうを食う親父を憎悪してたが、ありゃ、まんじゅうなんていう大層なもんじゃなかった。安い小麦粉を練って固めただけの塊だ。
それを客席が笑いに包まれるまで猛烈な勢いで食ってたってわけだ。親父の毎日の食事は、その小麦粉の塊と日本酒だった」
思い出を語る大垣の瞳には、もはや父への憎悪など浮かんでいない。
ツトムはまるで大垣の幼少期を疑似体験するように、話を傾聴した。
「さて……」
と大垣は言った。
「俺がなんでこんな長話をしたかわかるか?」