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※師弟if
スケートリンクに靴を置きざりにして、夜鷹は闇を歩いていた。
教えるべきことは教えた。
あとは狼嵜光が自分で、金メダルを掴み取らなければいけない。彼女だけのスケートへの衝動を見つけなければいけない。
いつか彼女を手放す時が来る。あらかじめ決めていたことだ。
それをするべきタイミングは、今だ――――夜鷹にははっきりと分かっていた。
夜鷹にはそういう「時」を読む能力があった。
いわゆる直感のようなものだ。自分はこのとき、この瞬間に、こうするべきなのだという啓示(けいじ)のようなものがパッと頭に降りる。
これまでの人生も、たいていその直感に従っていれば道をたがえなかった。そうして夜鷹は金メダリストになった。だから、今回もその道しるべに従った。夜鷹にとっての人生とは道しるべにそって直線を歩いていくことだった。
が、そんな夜鷹の足がガクンッと傾いだ。
地面を踏み外す。とっさに体を立て直すこともできずに、深く深く、どこまでも落ちていく。
・
ふと目覚めたのは、真昼間の街中だった。
「ここは」
疑問に答える声はない。
ビルに挟まれた裏路地で、夜鷹は目を覚ました。
眼前には大通り。がやがやと騒がしく人々が往来し、耳を澄ますと電車の走行音とアナウンスが聞こえる。どうやら駅の付近であることを夜鷹は知る。
上着のポケットに手を差し込む。所持品は少なかった。サングラス、ライター、煙草、それに携帯。
ためしに携帯の画面をつける。圏外だ。
夜鷹は舌をうって、携帯をすぐ隣の壁にたたきつけた。パキンと液晶の割れた音がする。
まったく。肝心なときに使えない――――使えないくせ、こちらの都合などおかまいなしに、やかましく鳴り続ける。だから夜鷹は携帯が好きではなかった。
苛々しながら、煙草をくわえて火をつける。白煙をあたりにまき散らした。
「あ、あの」
けぶった視界の中に人影が見えた。
その人影は、はっきりと夜鷹の方をむいて喋っている。
まだ幼さがのこる面立ちの少年だ。制服を着ているため中学生だと分かったが、そうでなければ小学生といわれても納得しただろう。うすっぺらい胴体から、棒のような手足がひょろりと伸びている。ドングリのような丸い瞳が印象的だった。とにかく、その少年が何歳だろうと夜鷹はかまわなかった。赤の他人など等しくどうでもよかった。
「なに」
夜鷹が興味なさそうに答えると、少年は肩を揺らした。怖がっているのだろう。
どうやら自分の言動は誰にとっても――――女子供が相手だとなおさら――――威圧的にうつる。夜鷹はそれを知っていたけれど、だからといって態度を変えるつもりはなかった。だって彼にとって子供に好かれることはたいして重要ではない。
少年がぎゅっと鞄の肩紐を握った。そんなふうに怯えているくせに、夜鷹からけっして視線を外そうとしない。
変わってる。夜鷹はふうんと横目で迎え撃った。
「口がきけないの」
「そんなことないです。あの、それ」
少年がおずおずと指さしたのは、夜鷹がついさっき投げ捨てたばかりの携帯だった。
「携帯、落ちてますよ」
「そうだね」
正確には「落ちてる」ではなく「捨てた」だ。けれど通りすがりの子供にそう説明する義理はない。むだに喋るのはおっくうだ。
「そうだね、って……」
もとから大きな少年の目が、さらに見開かれた。想像とは違う返答をよこす夜鷹にとまどっているのだろう。
早くどこかへ行ってしまえばいいのに。
夜鷹はだんだん面倒になって、あからさまに不機嫌になる。けれども恐る恐る、という足取りで少年は夜鷹に近づき、地面に転がる携帯を拾うと
「どうぞ」
と差し出した。怖いもの知らずだ。
夜鷹はじっと彼を見た。一向に受け取ろうとしないでいると、だんだん少年の顔に焦りがうかぶ。
なんておせっかい。慎一郎と同じで、厄介ごとにも首をつっこんでいって損をするタイプだ。
無視という選択肢もあったし、夜鷹はどちらかといえばそうしたかった。
しかし最終的には掌を出した。その方が面倒にならなさそうだと、しかたがなく折れたのだった。
さて。夜鷹と少年にはちょっとした縁ができたわけだ。
夜鷹は人を使うことに抵抗がない人間だった。縁が出来たからには、役立たずの携帯よりもこの少年を使うべきだと考えた。
「ねえ君」
「な、なに?」
「今って何時?」
「ええと三時くらい、ですかね?」
「ここはどこ。そこの駅の名前は?」
「ええと――――」
少年はとある駅名を答えた。夜鷹はそこを知っていた。愛知県名古屋市の、中心区から遠くもなければ近くもない駅名。
ただ、知っているだけで利用したこともなく、疑問が増えるばかりだ。
意識を失う直前、夜鷹はひとり闇夜を歩いていたのに、気づけば昼間になっていた。しかも知らない街に移動していたのである。
どこの誰が、どういう目的で自分を眠らせ、移動させたのだろう。心当たりはなく、そのうえ不明点が多い。意識を失ってからどれだけの時間が経過したのかも、さだかではなかった。
「今日は何日?」
首元の服をくつろげる。そういえばいやに暑いのだった。
「九月四日」
「は?」
強い声が出る。
そんなはずがない。全日本ジュニアスケートは毎年十一月に開催される。夜鷹が光に別れを告げたのはその直後だ。九月などありえない。
けれども夜鷹はとうとつに悟った。
周囲の景色、気温、人々の服装――――たしかにどれをとっても、夜鷹の思う十一月ではなかった。
少年を見る。純朴そうな顔でこちらを見上げている。彼が嘘をついているようにはどうしたって見えなかった。
「今って、西暦何年」
少しためらってそう問うた。少年もこの質問には違和感を覚えたようで、おかしなことを聞くんですね、と苦笑した。
「――年ですけど。それが何か?」
なるほど。夜鷹の知る暦の、十年以上も前だ。
溜息をもらして黙りこくるしかなかった。つまり、全ての情報を統合すると、こうなる。
『夜鷹は十年以上も昔にタイムスリップしている』。
にわかには信じがたい。
夜鷹はこれが質の悪いドッキリ企画ではないか、といぶかしんだけれど自分にそんなものを仕掛ける怖いもの知らずは、まずいない。
氷上で生きることをやめ、靴を置きざりにしたせいだろうか。夜鷹は存在価値を失い、元の世界から追放されてしまったらしい。
「ねえ。今の人ってもしかして夜鷹純?」
「親戚とかじゃない? あの人まだ二十歳にもなってないでしょ?」
「でも似すぎじゃない?」
ゆっくりと顔を上げる。女性が二人、夜鷹を見ながらひそひそと話している。
裏路地でどっかりと座り込む夜鷹は、悪目立ちしていた。この時期の「夜鷹純」はとっくにテレビで大々的に取り上げられていた。一般人にも顔を知られている。
さっさと場所を変えるべきだ。
立ち上がった夜鷹を、心配そうに少年がのぞきこんでいる。引きとめたくせに急に口をつぐまれて困っているようだった。
「貴方の名前、夜鷹っていうんですか?」
女性の会話が、彼にも聞こえていたのだろう。
少年の呼び方はやけに慣れていた。「夜鷹純」を知っているのかもしれない。ひょっとして彼もスケート関係者なのだろうか、と夜鷹は片眉を上げた。
太陽の下で顔を見られないように、さっと路地の奥を向く。
「そうだけど。でも忘れて」
どうせ二度と会うこともない。
夜鷹は足早にその場を去った。
「あ、あの! 待ってください!」
少年がうしろで叫んでいても、気にも留めない。
過去の世界にいるなんて信じがたい。混乱はしている。
けれど、その場で立ち尽くしてしまうほど絶望しているわけでもなかった。なるようになるだろう。夜鷹は氷の上でもたったひとりだったのだから。
ひとまず資金を調達しなければならなかった。
携帯は未来のものというだけあって、契約も無効になっている。こうなるともうただのガラクタだ。支払い機能だって使えたものではない。
そういうわけで、夜鷹は自身の家のひとつでもあるマンションを訪れた。
慎一郎と会うとき、わざわざホテルを借りるのが面倒で長年借りている拠点だった。幸いにも生体認証をキーにしているので、十年後の夜鷹であってもやすやすと突破できた。
がらんどうな部屋だ。
画面の割れたテレビと、厚手のカーテン、グランドピアノ、水やりをしなくとも育つ観葉植物(慎一郎が入居祝いにくれたものだ)、それから水や食料のはいったダンボールが適当に積まれている。ちなみに十年後も、これとほとんど変わらないインテリアのままである。
夜鷹はふと、複数あるダンボールをあさった。
見つけたのは通帳だ。夜鷹はだいたいの資産を顧問弁護士に預けていたけれど、例外の口座を一つもうけていた。
マンションを目指しているときに、そういえばそんなものがあったな、とぐうぜん思い出したのだ。
このとおり、夜鷹はすっかり通帳の存在を忘れていた。裏を返せば、この時代の夜鷹純も通帳がなくなったところで気づかないだろう――――まったく都合のいいことに。
夜鷹は盗みを働いたとは思えない、どうどうたる足取りでマンションを出た。なにせ自分の金だ。罪悪感もない。ともあれ、これで当面の金銭は確保したということである。
小さくあくびをこぼし、ホテルの候補を脳内であげていった。
いざというとき、奇妙な力がはたらいて金が転がり込んでくる。
幸運ではない。必然である。
夜鷹は生来そういう星の下に生まれていた。
・
夜鷹はうすぼんやりと生きた。
彼には異分子の自覚があった。だから友である慎一郎に「タイムスリップしてきた」と顔を見せることもできない。慎一郎はお人よしだ。タイムスリップなんて荒唐無稽も言えば信じてくれるだろうけど、それにより現役時代を駆ける慎一郎に負担をかけたくなかった。
友とも切り離された人生。
それはそれで、諦めがついていた。
そもそも靴を置きざりにしてから、夜鷹は生きる執着をうしなっていた。生物学上、呼吸はしているが人間らしく生きているかといえば分からなかった。
いつか手持ちの金がつきて、飢え死にしかけても、夜鷹が抗うことはないだろう。夜鷹は氷の上のいきものだった。氷に乗れなければ、何をしていても半分死んでいるようなものなのである。
それでも時折、この時代の「夜鷹純」のスケートを見た。
ぞっとするほどに研ぎ澄まされた演技だと、皆が彼を絶賛した。夜鷹自身もそう思った。だが、自分自身のスケートなだけに、予想の域を飛びこえることはないのである。
画面の中の「夜鷹純」は記憶のままのスケートだった。夜鷹から見た「夜鷹純」はそういう意味では、ちっともおもしろみがない。ああ「夜鷹純」だな――――と思うに留まるのである。
「夜鷹純」では夜鷹の心を動かすことはできない。
それだけが事実だ。
だから、やがて夜鷹はスケートを見ることすら止めてしまった。いよいよ彼の人生は闇に閉ざされかけていた。
夜鷹がタイムスリップして、数年後。
「あっ――――よ、夜鷹さん?」
彼は思いもよらぬ場所で再会をはたした。
夜鷹が拠点に決めたホテルの、すぐ近くだった。その青年は見るからに「道路工事のバイト中です」というのが分かる服装だった。頭にはヘルメット。夜間であったために髪色すら判別できず、夜鷹は声をかけられても、自分にむけてのものとは思わず素通りしかけた。
「待ってください!」
そういって、青年がヘルメットをとる。
それでも夜鷹は彼を識別できなかった。夜鷹の記憶にとどめおかれるのは一握りの人間だけだ。その青年は、夜鷹の記憶には引っかからなかった。
「君、だれ? 僕の知り合いじゃないのなら話しかけないで」
夜鷹はろこつに迷惑だという顔をした。
「うっ。俺なんかのこと、貴方は覚えていないですよね……当然です」
彼は気を悪くしたふうもなく笑ってみせた。夜鷹は彼がしっぽを巻いて逃げることを期待していたのに、そうならなかったことへ、わずかな苛立ちを覚えた。
青年は緊張した顔で話しはじめた。
「俺、数年前に貴方が道端で座りこんでるところに鉢合わせたことがあって……携帯が壊れて困っているみたいだったから、声をかけたんですけど。そんなの覚えてないですよね……」
覚えていない。が、覚えていないなりに記憶を掘る。
あのとき、夜鷹に声をかけてきたのは線の細い少年だったはずだ。けれど目の前にいるのは体格のいい青年。あのときの少年と、この青年ではずいぶんイメージがちがう。
むしろ夜鷹は、眼前の青年にべつの人物を重ねていた。
似ている。遠い未来で宣戦布告をしてきた、あの男に。
まだ命の灯を燃やしているのにもかかわらず、その稀有(けう)な能力を、凡庸な少女のためにくべる愚かな男のことだ。
夜鷹はその男の名前を聞きはしたが、覚えていない。ただスケートのこととなると夜鷹の記憶力はすばらしかった。
いつだったか夜のスケートリンクで共に滑ったことがある。男がすさまじい勢いでジャンプ習得をしているさまを傍で観察しているとき、慎一郎がしきりに名前を呼んでいた。
名前は思い出せない。けれど音としてなら思い出せる。
印象に残るスケートにどんな曲があてられていたのかを、ふいに思い出せるのと同じ感覚だった。
たしか彼の名前は。
「あけ――――あけじ、つかさ」
「明浦路です!」
ぎょっとする大声だった。
夜鷹はとつぜんそんな声を出した司を、とがめるように睨んだ。
青年は動じなかった。その両目いっぱいに涙をたくわえて、ぐずぐずと鼻を鳴らした。どうして急に泣き出したのか夜鷹には意味が分からない。
「あけうらじ、つかさ、です。俺の名前をなぜ知ってるんですか?」
まあ当然そうなるだろう。夜鷹はちょうどいい言い訳が思いつかず、投げやりにこう言った。
「君が滑っているのを見たことがある」
その言葉をどう受け取ったのか。
そっけない返事を、彼――――司はまるで宝物でももらったような表情で聞いていた。
「光栄です。俺みたいな、無名で、コーチすらついてないやつを見てる人がいたなんて」
そうだ。彼は未来でも、こういう顔を夜鷹に向けていた。きらきらと眩しいものでも見るかのような視線。
司はどこか思いつめた様子で、夜鷹に向き直った。
「ずっと貴方のことが気になっていました。もしかして夜鷹さんって、スケートの夜鷹純の血縁者ですか?」
「いいや」
間髪入れずに否定する。
「でも、あまりにも似ている……」
「似ているだけ。それ以上何もない」
嘘はついていない。夜鷹はこの世界の夜鷹純といっさい喋ったことはないし、まったく別の人間だ。
夜鷹はそうそうに会話を断ち切りたかった。
けれど司はめげずに言葉をつむぐ。ここで喋るのをやめたら彼は死ぬのだろうかと思うくらいの気迫があった。
「俺のスケートを見たことがあるってことは、夜鷹さんも名古屋のスケートリンクを利用してるってことですよね。もしかしてコーチを経験していたり……」
夜鷹はぎろりと目を細めた。それが答えだった。
「――――お願いがあります」
嫌な予感がする。
「俺にスケートを教えてくれませんか」
厄介なことになった。夜鷹はあからさまに舌打ちする。
「無理」
「無理、ですか」
「うん」
「嫌とかではなく“無理”が返事なのには、何か理由が?」
「僕はもうスケートをしない」
「どうして」
また舌打ちする。が、司がどうしたって引かない姿勢だったので、諦めさせるためにも返答すべきだと考えた。
「靴を置いてきた」
これには様々な夜鷹なりの信念が込められていたのだけれど、それを一言で表現するとこうなる。「靴を置いてきた」。だからもう夜鷹は氷の上に立つことはない。コーチ業などもっての外(ほか)だ。
「それでもいいです」
「は?」
しかし司はひるまなかった。それでもいい、ときた。
「お手本はいりません。実際のスケートが見られなくても学べる技術はたくさんある」
「頭おかしいんじゃないの」
率直な感想だった。
ハンデを負ってまでコーチにならおうとする意味が分からなかった。ましてや今の夜鷹は「金メダリストの夜鷹純」ではない。なぜ、彼は夜鷹に固執するのだろう。なにが彼を突き動かしているのか。
「もう行く。二度と話しかけないで」
冷酷に告げて、二度と振り返るつもりはなかった。ところが。
「なに。邪魔なんだけど」
ぶるぶると小刻みに震えている。上着をつかんで離さない青年。
払い除けようとあげた手を、しかし夜鷹はおろすタイミングを失った。
「お願いします……お願いします……」
彼は頭を下げたまま、すすり泣くようにして、願い乞う。
曖昧な記憶をなぞる。未来の司は、その稀有な能力を棒にふっていた。きっと目の前の彼もそうなる運命にあるのだろう。
――――運にめぐまれなかった男が、やっとのことで掴んだ一回きりのチャンス。それが今ここにいる夜鷹なのだとしたら?
それに気がついてしまい、一瞬の迷いが生ずる。
同情したからではない。もしもあの男が運をものにしていたとすれば、いったいどんなスケート選手に育っていたのだろう。その可能性に気がついたからだ。
一度は失っていた好奇心が、むくり、と身を起こす。
「お願いします。俺に、生涯一度だけの、チャンスをください。俺を金メダリストにしてください。急にこんなことを言われて戸惑うかもしれない。でも貴方とならそれができる気がする」
血の逆流する感覚。どうして夜鷹がこの世界に飛ばされたのかとずっと考えていた。もしも、彼が夜鷹を呼んだのだとしたら?
めまいがした。
明浦路司のコーチを引き受けた。
夜鷹自身、思いがけないことだった。未来で光のコーチをつとめたのは、スケートリンクを貸し切りにする権利が欲しかったからだ。一方で、司のコーチを引き受けても夜鷹にうまみはない。
「お金はそんなに無いけど……必ず払います」
「いらない」
夜鷹は無慈悲にそう吐き捨てた。なにせ数年前に拝借(はいしゃく)した金がまだまだあり余っている。
しかし彼はあきらめなかった。
「じゃあ、俺の払えるものなら何でも渡します。今は無理でも、出世払いができそうであれば必ず! だから、だからお願いです!」
こんな口約束を本気にするのは、愚か者だ。
そう思っていたのに夜鷹は一拍の後、うなずいていた。頭で考えるよりも先に動いていたのだ。
――――そうするべき「時」だったから。夜鷹はそう解釈している。光のコーチを外れるときにも夜鷹は、このタイミングだ、という啓示めいたものに従った。本能の囁きだ。
夜鷹はいつだって道しるべにそって歩み、金メダリストになった。だからこれもゆくゆくは自分のためになるはずだ。
司の熱意に動かされたのではない。あくまでも、自分の中の道標をなぞったにすぎない。夜鷹はそう自分を納得させている。
指導をすると決めたからには手を抜くことはない。
夜鷹がまず取りかかったのは、司専用のスケートシューズを買うことだった。
「ほら」
指導の初日、夜鷹はぽいとそれを彼に投げてよこした。
うろたえる司に、夜鷹は「あけて」とだけ言った。紙袋の中にびくびくしながら手をつっこむ司は、警戒しながら水たまりをつつく子犬さながらだ。
「夜鷹さん、これ」
「使いなよ。スケートを学ぶのに、靴がなきゃ始まらない」
見返りを求めてのことではない。司から聞いた財政状況ではきっと用意できないだろうと考えての解決策がこれだった。夜鷹はぞんぶんに金を持っており、貸し借りに頓着しない。夜鷹が用意してやるのが自然の流れだ。
靴をとりだして数十秒。司はなにも言わない。夜鷹はいぶかしんで、彼のつむじを見下ろした。
「銀の靴だ――――俺だけの、銀の靴」
なかば呆然とした彼が呟いた。
「銀の靴?」
どこか幼稚な響き。スケート用語でもないそれが、なんとなく耳に引っかかって夜鷹は復唱する。
司が持っているのは黒いシューズだ。黒を好む自分の趣味で選んだために、必然そうなったのである。銀の配色はどこにもない。
司はハッとなって首を振った。
「ちがうんです。その」
首を左右にぶんぶんと振る。遠慮がちで、いじらしい仕草だ。
明るい性格のように見える司だけれど、うっすらと陰の気配があった。スケートは、プロを志すのであれば五歳前後から始めるべきスポーツだ。小学生にすらできるスピンやジャンプすらおぼつかない司には、つよい劣等感があるのだ。
夜鷹はじっと彼を見つめた。
おずおずと司が話し出すのに、耳を傾けた。
「弟のために読んだ、オズの魔法使いって童話の中にでてきたんです。主人公のドロシーが履く魔法の靴が銀色で、かかとを三回鳴らすと『世界中どこへでも連れていってもらえる』。銀の靴(スケートシューズ)さえあれば、いつでも望んだときに氷の上(スケートリンク)に連れていってもらえるんじゃないかって、はじめて夜鷹純の演技を見たときから何度も空想しました」
司はちらちらと夜鷹を窺った。
求められたから説明したものの、ばかばかしいと思われていないか確認しているようだった。
夜鷹はというと彼の瞳を追っていた。瞬きをするたびに、艶めく黄金がちかちかと乱反射するのが興味深かった。
「それにブレードがきれいな銀色だから! だから俺、スケートシューズをこっそり銀の靴って呼んでいて……」
声が小さくなる。
「ずっとずっと、俺だけの銀の靴がほしかった。だから……ゆっ夢みたいだ……」
感極まったのか、司がついにしゃくりあげた。
そんな彼を見下ろして、慰めるでもなく、その生き物の不可解さを思う。
スケートのためにこんなに必死な生き物を、初めて見た。
ただの努力家なら大勢いた。膨大な練習量をこなす者にしか、上りつめられない領域というものがたしかにある。夜鷹は呼吸をするように滑る質(たち)だったけれど、勤勉な秀才はたいがい必死に滑るのだ。
だけれど彼は違う。
能力はあれども、運に恵まれずにここまできた。だから靴一つもらっただけで目元を真っ赤にして夢のようだという。
氷に遠ざけられ、それでもしがみつくことを止められない司。氷への渇望こそ夜鷹に似ているのに、生き方は正反対だった。
「夜鷹さん。ありがとう――――ありがとう」
たかだか靴一つなのに、ここまで感謝されるとは。
夜鷹は決まりが悪くなった。ささやかな施し(ほどこし)に全力で喜ばれるという経験が彼にはなかった。
たったこれだけのことで。
司はよく人に好かれた。未来でも過去でもそうだ。夜鷹はたんなる傾向として受け止めていたけれど、その理由の根源を見たような気がした。こんなふうに全力で喜んでくれるのであれば、優しくする甲斐(かい)があるのだろう。
司は人間的な魅力にあふれている。スケート以外、何も持たない夜鷹とはちがう。けれども彼は「スケートでなければ」と言う。
気に食わないのは、そこまで彼を虜にしたのは夜鷹のスケートではないということだ。彼は「夜鷹純」のスケートに魅せられている。
それを思うと、どうしてか暗い感情がめばえるのだった。
夜鷹は宣言通り、司にいっさいの手本を見せなかった。
陸上でならフォームを見せることはある。しかしそれだけだ。
夜鷹は口下手なことを自覚していた。光への指導は、ただスケートを見せて「やって」と告げるだけだった。司への指導はもっとひどい。手本を見せるのではなくアレがだめ、コレがだめと欠点を指摘してからの「修正して、やって」だ。
最初のうちは司も委縮しており、互いに消耗するだけだった。
上達どころではない。まずもって意思の疎通がとれない。そのため夜鷹が飽きたら「今日はもう終わり」と一方的に指導終了してばかりだった。
それでも司はめげない。
回数を重ねるごとに、夜鷹の意図がどこにあるのかを読むようになった。彼は日に日に夜鷹に適応し、進化した。それにともないスケートもめきめきと上達していく。夜鷹が途中でコーチを投げ出さなかったのは、これも理由として大きい。
夜鷹は彼自身の道しるべに従っていたため、一度スケートシューズを捨てた身で、また氷に乗るつもりはなかった。それは絶対だった。
もしも司が、手本無しに成長できないような生徒ならそうそうに見限っていただろう。
「夜鷹さんはもうスケートを滑らないんですか」
司はときどき大胆なことを尋ねる。夜鷹はもう彼のそういう言動に慣れており、苛立つこともなくなっていた。
「うん」
「どうして? あなたの骨格、まるで滑るために生まれたみたいだ。もうスケートをやめてしまったんだとしても絶対に戻れるはず」
「駄目だよ。僕はもう滑らないって決めたから」
これは夜鷹の誓いだった。
「そうなんですね。……あの、笑わないで聞いてくれると嬉しいんですけど。俺、さいきん夢を見るんです。成長した俺と貴方が、同じスケートリンクで滑っている。貴方はかろやかにジャンプを飛んでいる。まるで羽が生えているみたいに軽々と。なのに、俺は貴方みたいにジャンプが飛べない。何度も、何度も転んでは貴方のジャンプをみてどうにか修正を重ねていく。言葉を交わしてなくても、あれはマンツーマンのジャンプ・レッスンだった。おかしいでしょう」
夜鷹はクスリともしなかった。なんだか身に覚えのある記憶だ。
司の出方をうかがった。まさか未来の記憶が彼にも反映されている? じっと様子を見たけれど、彼はとっくに気がそれたようで氷に戻ってしまい、それ以上夢について語ろうとはしなかった。
夜鷹はうっすら自覚した。
夜鷹が「夜鷹純」とは別の人間であるように、司も「明浦路司」とはもはや別物である。
「もう一度氷の上に戻れ」という提案をかつて断った男。それが自分の指導の下、その能力を着実に開花させている。
脳髄にじんわりと広がるものがある。
夜鷹はその正体を知らなかったけれど、いうならば独占の喜びだった。
司はスケート界でみるみる頭角を現した。
夜鷹はというと、いよいよ彼を持て余すようになった。はじめて演技を見たときから司のスケートには興味を惹かれていた。他の選手にはない、何かを見出したのである。それはたしかなことだった。
だとすればどんなスケートを期待しているのか?
それが分からない。夜鷹自身も、分からなかったのである。
夜鷹は、夜鷹純のレシピなら知っている。
光にしたのと同じことを、司にもすればいい。コーチである自分が姿を消せば、いつか彼も夜鷹純として完成するだろう。しかし夜鷹は司にそれを求めてはいない。第三の夜鷹純が現れたところで――――。
司のレッスンのさなか、何百回、何千回と夜鷹はその問題にとりくんだ。
そうしてあることを閃いた。
――――この世界の夜鷹純と、夜鷹がコーチをして磨きあげた司。二人を競わせたらいったいどうなるのだろうか?
夜鷹純は孤独で、圧倒的だった。現役時代ずっとそうだった。けれどそこに並び立つようなスケート選手がいたならば。
いずれその高みへと到達できる能力が、司にはある。
すうっと視界が開けていくのを感じる。これだ、と思った。この世界の司は、夜鷹純とも光ともちがう、あたらしい完成形になるのだ。
ざわざわと夜鷹の背が粟立つ。
・
司のコーチには、表向きの代役をたてた。
夜鷹が金を握らせて、てきとうなコーチアシスタントを定期的に据える。相手は夜鷹の顔も知らずに契約を結ぶ。司のコーチのふりをしているだけで金が懐に入るのだ。よほど潔癖なコーチアシスタントでなければ、断られることもなかった。
「夜鷹さんに相談があるんですが」
ある日、司が珍しくそう切り出すことがあった。
「は? それは僕のレッスンよりも大事なの?」
「夜鷹純に声をかけられました」
ぐっと眉間に皺をよせる。
夜鷹純が、司に興味を抱いた。いつかはこうなると思っていた。夜鷹が指導しているのだ。司のスケートが衆目を惹くようになるのは当然のことであるし、夜鷹純がなんらかの接触をはかるのも可能性としてあり得る。
問題があるとするなら、夜鷹がそれを不愉快だと感じたことだった。
「ふうん」
ひどい嫌悪感すらある。相手は自分自身なのに。
夜鷹は、夜鷹純のことを特別に嫌ってはいないが好いてもいない。だが少なくとも、司の秘密をうちあけるに足る人物ではない、と判断している。
「なんて声をかけられたの」
「俺のスケートが、どうしてか印象的で気になるって」
素直に答える司の耳が、どんどん赤くなっていく。憧れの夜鷹純に声をかけられたことは彼の中で大きな意味を持つようだった。
苛々した。無意識のうちに煙草の箱を探している。
「それと、君の本当のコーチは誰なの、とも聞かれました。だから俺びっくりして逃げちゃって……」
表向きのコーチはお飾りだと、夜鷹純は見やぶっているのだ。それくらい過去の自分なら一目で分かるだろう。
さて、どうするべきか。
夜鷹は一考したが、すぐになんてことはないと思いなおした。夜鷹純は孤独でありつづけなければいけない。彼自身がそれを望んでいる。犠牲を払うことによってスケートの極致を目指す男だからだ。
ならば。司にさずけるアドバイスは単純明快だった。
「司。次に同じことを聞かれたら、こう答えると良い」
「はい」
「『お前に答える必要はない』ってね」
司はぽかんと口を開けた。
夜鷹は彼のまぬけづらを突いて、ハハッと薄く笑った。すっかり成長した司はもう夜鷹の身長を追いぬかしている。それなのに子犬っぽさは健在だ。あっけにとられる顔など何時間ながめていてもちっとも飽きない。
司は表裏のない性格だ。だが氷上に立つとなれば、がらりと空気が変わる。静けさと優美をまとうスケーティングで世界を魅了する。
この毒気のない男が、オリンピックの舞台で夜鷹純とぶつかったときにどんな色の火花を散らすのか。
夜鷹のコーチとしての報酬はずばりそれだった。
司と夜鷹純。
日本を代表するスケート選手二名は、勝ち負け同点のままオリンピックの舞台に立つこととなる。
過去の戦歴をふまえて、日本のスケートファンは彼らを『宿命のライバル』あるいは『夜明けの頂上決戦』と好き勝手にはやし立てた。
夜鷹は心底、くだらないと思った。戦歴もなにも。自分がコーチをしているからには結末は決まっている。
司のスケートを、メディアがこぞって『夜鷹純にそっくり』と言うのも、夜鷹には理解できない。こればかりは司が後出しなのだから仕方がないのだが、そもそも夜鷹には似ていると思えない。
夜鷹純が「研ぎ澄まされた鋭さ」を持つスケートだとしたら、司は「巨大な弧」を描くスケートだった。
長い手足をぞんぶんに見せつけて丁寧に美しく。
ゆったりと動く指先は、惑星。
太陽をとりまいて、くるくると手足が巡る。その善良な性格から、周りに人を引きつけてやまない司ならではの、太陽系のようなスケートだと常々思うのだった。
孤独に滑る、夜鷹純とは別物である。
「君のスケートは君だけのものだ」
指導の折に、夜鷹がはっきりと口にすることもあった。すると司はちょっと考え込んでからにこりと愛嬌たっぷりに微笑む。
「ええそうですね。少なくとも夜鷹純のものではない。俺と、ここまで指導してくださった夜鷹さんのものです」
無表情なりに、夜鷹がぎこちなくなったのを感じ取ったのか。司はしてやったりという顔になる。生意気になったものだ。
意思の疎通すらできなかった頃が、懐かしい。司はもう運に見はなされた子供ではなかった。卑屈さもなりを潜めつつある。
司は心から夜鷹を慕っており、夜鷹はまだコーチを続けている。それはブレることのない古きよきスパイラルのようなものだった。
のびやかに、ゆらぎなく、氷の表面へ彼らの軌跡が刻まれていく。
夜鷹はこの瞬間生きていた。
司は夜鷹を命の恩人のようにあつかうけれど、夜鷹も彼のコーチをすることで再びスケートにたずさわり、なんとか生き延びたのかもしれない。
そうだ、と独りごちる。
命をふきこまれたのはたぶん夜鷹のほうなのだ。
司との契約満了まで、もう間もなくだった。
オリンピックの本番を控えた前日。
夜鷹のもとに国際電話が掛かってきた。数少ない登録番号の内のひとつ。番号を確かめなくても、夜鷹にはなんとなく、彼から連絡があるのではないかという予感があった。
「夜鷹さん」
「なに。明日は本番だろう。電話してる余裕なんかあるの」
「夜鷹さん聞いてください」
真剣な声だった。
司は今夜、どうしても、夜鷹に伝えたいことがあるらしい。何度か深呼吸をしたような息遣いがある。どこをとってもかわいげのある男だ。
「あなたのスケートへのまなざしが――――あなた自身のことが、好きです。大好きです」
決戦前夜に、一世一代の告白。
下手なドラマのような展開だ。テンプレをなぞってしまう司のことが、哀れなような、かえって愛おしいような気分になってくる。夜鷹は自分がそう感じていることがひどく意外でもあった。
どうしてか呼吸が整わなくなった。自分の体なのにコントロールができなくなる。わずらわしい。
「この試合を終えたら、スケートシューズを贈らせてくれませんか? 俺はあの日、あなたからもらった銀の靴にここまで連れてきてもらった。今度は俺が、貴方を望むところに連れていきます」
連れていく。
うまれてはじめて聞くような心地だと夜鷹が思っていると、胸をまっすぐになにかが刺し貫いた。息がつまる。
これまで感じたことのない衝撃に、ぜいぜいと細かな吐息をこぼす。左頬を何かが伝っていった。
夜鷹は泣いていた。
痩身から、魂をけずりあげたような声が出る。
涙の理由は夜鷹にもよく分からなかった。ただ、どうしようもなく、感情を表に出さずにはいられなかったのだ。
「君は馬鹿な男だ。連れていくって、どこへ。僕は氷の上のいきものだ」
「知ってます。俺にとっても氷の上が居場所ですから。でも、そうですね――――俺達が死ぬまで氷に乗るいきものだとして、それが思い描いていたスケートリンクではなくても、二人ならその冷たさを分かち合えるんじゃないかなって」
そうかもしれないと夜鷹は思った。
そうだったらいい、と柄にもなく夢想した。
「はは。君ってたまに叙情的(じょじょうてき)になるよね。変なの」
馬鹿にされたと思ったらしい司がうめく。
「いいよ――――もちろん君が金メダルを獲ったらだけど」
夜鷹はかつて、金メダルを獲り続けることで「自分の正しさ」を証明した。
であれば、司が金メダルを獲ったときに証明されるのは、なんだろう。夜鷹にたいする愛情とひたむきさ、そういうものではないだろうか。
夜鷹はやっと、ここにいる意味を見つけた気がした。
司のことを思い出すとき、まっさきにその体温が蘇る。少年のころから変わらない。熱い、熱い、三十七度の体温。
夜鷹はスケートリンクにただよう、冷たい風を愛している。その風から夜鷹を隠そうとするのではなく、足の感覚をたもつために靴を贈りたいのだと、司は言ってくれた。
お伽噺でもいい。ばかばかしくてもいい。
彼の熱がこの足をあたためてくれるのなら、夜鷹は今度こそ氷の上で一生舞っていられるかもしれない。
司が選ぶ、ぴかぴかの銀の靴。
まだ見ぬそれの美しさを夜鷹はすなおに知りたいと、思うのだ。
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