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(お兄ちゃん、彼女いたんだ)
今まで兄は兄であり、それ以外の何者でもなかった。
誰だって内と外の顔があり、冬夜だって〝外〟へ行けば一人の男性になるだろう。
だが知らない女性と一緒にいるだけで兄がまったく別の人物に見え、胸の奥にグルグルと黒い渦が巻く。
「……彼女かな」
春佳が呟くと、千絵が「えっ?」とこちらを向いた。
「恋人いるか知らなかったの?」
「『彼女いる?』ってたまに聞いたけど、ずっとはぐらかされていたし、最近は家庭の問題を抱えていたから……」
「そっか。でも二十六歳のイケメンだし、付き合った女性(ひと)の一人や二人いてもおかしくないんじゃない? 自慢のお兄さんなのは分かるけど、彼女がいたぐらいで驚いてたら駄目だって」
「そうだね」
千絵のもっともな意見を聞き、春佳はぼんやりと返事をする。
まったくもって、彼女の言う通りだ。
二十六歳の健康な男性なら、彼女がいたっておかしくない。
席に案内された冬夜と女性は、親しげに話しながらメニューを覗き込み、注文する物を決めていた。
彼らと春佳たちの間には客席や観葉植物があり、よほど注意して見なければこちらには気づかないだろう。
冬夜と一緒にいる女性は兄より少し年上で、洗練されたキャリアウーマンという雰囲気があり、目がぱっちりと大きい小顔の美女だ。
グレーのパンツスーツを着ていて〝できる女〟感があり、学生の春佳にはないものをすべて持っている感じがした。
経済的に自立しているだろうし、自分の意見をハキハキ言いそうな雰囲気がある。
(ああいう人が好みなんだ)
春佳に彼女に勝てそうな点は何一つない。
強いて言うなら付き合いが長いから、兄の好き嫌いを知っているぐらいだ。
けれど六年前に兄が一人暮らしを初めてから、自信を持って「瀧沢冬夜はこんな人」と言えなくなってきた。
彼が家を出たあとも頻繁に連絡していたものの、話す内容は家族の様子と、学校で何があったか報告するぐらいだった。
逆に冬夜の事を知ろうと『会社はどう?』と聞いても、『うまくやってる』と当たり障りのない事しか聞けなかった。
だから家を出ていったあとの兄が、どのような人間関係を築き、どんな価値観でどう生活しているのか、正直分からない。
(高校生までのお兄ちゃんなら、誰より知っている自信があるのに)
思い詰めた顔をしていたからか、テーブルの上の手を千絵がつついてきた。
「ねえ」
ハッとして親友を見ると、彼女は気遣わしげな表情で言う。
「気持ちは分かるけど、マジで嫉妬してる?」
「そ、そんな訳ないでしょ。私、妹だし……」
ブラコンだと思われかねないと思った春佳は、慌ててオレンジジュースの続きを飲む。
周囲から見れば立派なブラコンなのだが、彼女はいまだに取り繕えると思っている。
千絵は春佳の反応を見てから溜め息をつき、テーブルの下で脚を組んで言う。
「春佳はやっと毒親から解放されたんだから、もう少し自分の人生を生きていいと思う。今まで何をするにもお母さんの反応を気にして、自由にできなかったでしょ? だから身近なイケメンのお兄さんを慕っていたんだと思う」
「そんな事ないよ」
否定しつつも、春佳の声は小さい。
千絵に指摘された通り、自分の世界がとても狭かったのは自覚している。
冬夜はとても素敵な人だし、自慢の兄だと思っている。
兄は春佳が母に叱責されると、必ず庇ってくれていた。
父は春佳に対してどこか一線を引いた雰囲気があり、家族なのに〝とても仲のいい知り合いのおじさん〟という感覚があった。
だから厳密に〝何事にも親身になって心配してくれた家族〟は、冬夜しかいなかった。
「ゆえに、彼に執着心がある」と言われたら、なんとも言えない。
ズバリ言い当てられて密かに焦っていたが、千絵はそれ以上言及しなかった。
彼女はリゾットを一口食べて「んま」と言いつつ、チラッと冬夜のほうを見る。
そして口内のものを嚥下してから言った。
「気持ちは分かるよ。あんなに格好いいお兄さんがいたら女に渡したくなくなるわ」
「あはは……」
結局、冬夜がイケメンだという話に戻り、春佳は気の抜けた笑い声を漏らす。
「でもさっきのは本音だよ。悪いけど、春佳は視野が狭くなってたと思うから、これからはもっと色んな人を見てみなよ。……以前の合コンは悪い事したけど」
ずっと触れられずにいた合コンの事を話題にされ、ドキッと胸が鳴った。
「他の女子も春佳の事を気の毒がってたよ。あいつ、あからさまに春佳を狙い撃ちしてたし、雰囲気がヤバかったもん。ま、これに懲りて次回からは慎重に女の子を口説くんじゃない? 知らんけど」
言ったあと、千絵は豪快に笑ってビールを呷った。
春佳は友人に合わせて笑いながらも、千絵の大きな声を聞いて冬夜がこちらに気づかないかドキドキしていた。
だが冬夜は女性とビールを飲みながら、普段は見せない明るい表情で話している。
知らない男性の顔をしている兄を見て、春佳の胸に黒い澱が溜まっていく。
――お兄ちゃんのくせに。
――その女性、お兄ちゃんがレバー嫌いなの知ってるの?
――果物の苺は好きだけど、お菓子の苺味が嫌いなの、知らないでしょう。
――いつからの知り合いなの? 何回会ったの?
胸の奥がキリキリと痛み、胸の奥でどす黒い感情が大きくうねり、春佳を圧迫する。
それに負けてしまえば、大きな声を上げて兄とあの女性に突進してしまいそうだ。
冷え冷えとした怒りに晒されているのに、胸の奥はとてつもなく熱い。
感情が高ぶったあまり涙が零れてしまいそうになった春佳は、兄から視線を逸らすと、冷えて固まりつつあるカルボナーラをフォークで巻く。
(血の繋がった兄に嫉妬するなんて、私は変態だ)
心の奥底で、冷静なもう一人の自分が呟く。
――だって、お兄ちゃん以外に私を大切にしてくれる人、いないでしょう。
(きっと千絵に『依存だ』って言われる)
――依存せざるを得ない家庭環境にあったんだよ? 私、〝可哀想な子〟だったし。
――本当はお母さんの言う事を聞くの、ずっと嫌だったけど、お兄ちゃんが庇ってくれるからやってこられたでしょ? そんな大切な人を知らない女にとられてもいいの?
(大人になったら恋人ぐらいできるでしょ。妹がしゃしゃり出て兄の恋の邪魔をするなんて痛すぎる)
――なら、お兄ちゃんとあの女が結婚したとして、祝福できるの?
心の中でもう一人の自分と戦いながら、春佳はのびたスパゲッティを無心に噛む。
――お兄ちゃんが作ってくれたカルボナーラのほうが美味しい。
兄と二人暮らしをするようになってから、彼の料理を食べる機会が多くなった。
春佳にとって冬夜が作る料理はすべて、店で食べるのと遜色のないご馳走だった。
二人で小さなダイニングテーブルを囲み、『美味しいね』と言って穏やかで平和な時間を過ごしていたのに……。
――あの大切な時間を、あの女に奪われていいの?
再度、心の中の自分が尋ねてくる。
もう一人は言い返さない。
が、少ししてからポコンと、深い水底からあぶくが湧き起こるように返事があった。
(『とられたくない』なんて幼稚な感情を持っていたら、こっちが悪者になる)
――なら、加害者にならなければいいでしょ。
ポコン、ポコンとあぶくは少しずつ数を増していく。
――今まで通り、お兄ちゃんがつい守りたくなる妹でいればいいんだから。
その考えを思いついた時、春佳は無意識に微笑んでいた。
まるで大輪の黒薔薇が咲いたかのような、毒々しい悪意に満ちた美しい笑みを見て、千絵がいぶかしげに声を掛けてきた。
「どうした? 春佳」
親友に声を掛けられ、彼女はいつもの微笑みを浮かべる。
「ううん。これから、ちゃんとしないといけないな……と思ってたところ」
「……そう? ……そうだよね。色々複雑だと思うけど、頑張れ」
千絵の励ましに頷きながらも、春佳は別の事を考えていた。
コメント
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第15話、読み終えました。春佳の心の中で「もう一人の自分」が囁くあの構造が本当に巧いですね。表面上は冷静な妹を装いながら、内面で「知らない女に奪われていいの?」という声がどんどん膨らんでいく。最後の「守られた妹でいればいい」という思考に辿り着いた時の、あの黒薔薇のような微笑み——ゾッとしました。依存の形が毒に変わっていく過程が克明で、読んでいて胸が痛みました。続きが気になります。
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