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治療法の話を聞いたのは
春が終わる頃だった。
大学の保健センターで、
「聴覚と感情の相関」を
専門にしている医師がいる、 という
かなり限定的な情報。
「完治じゃないかもしれない」
「戻っても、前と同じとは限らない」
条件は多かった。
それでも、
若井の声が聞こえる可能性が、ゼロじゃなかった。
「……どう思う?」
僕がそう聞くと、
若井は少し考えてから、肩をすくめた。
「やるなら、やろう」
その口の動きは、迷いがなかった。
「無理なら、やめればいい
結果がどうでも、俺はここにいる」
僕は、その言葉が
聞こえなくてよかったと思った。
聞こえていたら、
きっと泣いていた。
治療は、すぐには始まらなかった。
検査。
カウンセリング。
過去の記憶を辿る質問。
「初めて、好きだと自覚したのはいつですか?」
「聞こえなくなった瞬間、覚えていますか?」
僕は、 高校の昇降口を思い出した。
若井が振り返って、
名前を呼んだ、あの日。
治療が始まっても、
すぐに変化はなかった。
若井の声は、相変わらず聞こえない。
それどころか、
時々、完全な無音になる瞬間があった。
不安で、
怖くて、
それでも、僕は通い続けた。
若井は、毎回、待合室にいた。
何も言わない。
ただ、いる。
ある日。
診察室を出たあと、
廊下で若井が立ち上がった。
そのとき。
「……元貴」
微かに、
音がした。
はっきりした言葉じゃない。
輪郭だけの、揺れ。
僕は、立ち止まった。
「……今」
若井が驚いた顔をする。
「聞こえた?」
僕は、ゆっくり頷いた。
胸が、苦しくなるほど、
嬉しかった。
それからは、
少しずつだった。
一音。
一語。
感情が強いときほど、戻りやすい。
でも、完全じゃない。
疲れると、消える。
不安になると、遠ざかる。
「焦らないで」
医師はそう言った。
「音は、心の準備ができた分だけ戻ります」
夜。
部屋で並んで座る二人。
若井が、いつもより近くで話す。
「……聞こえる?」
今度は、
ちゃんと、音として届いた。
少し掠れていて、
でも、確かに若井の声だった。
僕は、思わず笑った。
「うん」
短い返事。
でも、その一言に、
全部が詰まっていた。
「ねえ」
若井が言う。
「聞こえなくなってもさ
離れなかったの、俺だから」
僕は、目を伏せた。
「……知ってる」
「だから」
若井は、少し照れたように笑う。
「戻ってきても、ちゃんと選べよ」
僕は、顔を上げた。
「もう、選んでる」
完全に戻るかどうかは、分からない。
また聞こえなくなる日が来るかもしれない。
それでも。
僕は、 聞こえない時間ごと
愛されたことを知っている。
だから、音が戻っても、
怖くなかった。
静かな世界を通ってきたからこそ、
今、隣の声が、こんなにも大切だと分かる。