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目の前にあるのは……白い壁。その白い壁を、おそらくは窓から差しこむだろう日の光が、優しく照らしている。音はしない。辺りはしんとしており、しいていうなら、風が木々をゆらす、まるで小川のせせらぎのような音が、遠くに、かすかに聞こえるぐらいだ。
俺はゆっくりと慎重に上体を起こすと、はらりと落ちたかけ布団へと目をやる。ついた手の下にはなめらかで木目の細かい、清潔そうな白いシーツが敷かれている。
かけ布団、シーツを確認することにより、ようやく俺は自分がベッドの上に寝ていたのだと自覚する。
……ここはどこだ? 俺は今どういう状況にいる?
ベッドからおりようと体に力をいれるが、どうもうまくいかない。なにか薬でももられたか? と思い、焦る気持ちをなんとか押し殺し、とりあえずは武器になりそうなものをと周囲へと視線を巡らせるが、残念ながらおあつらえ向きと呼べる代物は見当たらない。そればかりか、今までに見たこともないような、奇異極まりない『物』の数々が目に飛びこんできて、心をかき乱すといったありさまだ。
これは……一体なんだ?
俺は強く目をまたたいてから、今一度周囲へと視線を巡らせる。
なんの素材が使われているのかは分からないが、つるつるとした板状のなにかが、壁に取り付けられている。その板状のなにかの下部には、透明な、赤や緑のボタンが並んでおり、それらは自ずと淡くぼんやりと光っている。ベッドの脇、棚の下の部分には、それよりも頑丈そうな素材でできた、取っ手のついた白い箱のようなものがおかれている。
とりあえずは、別段奇異に感じたのはその二つで、あとのもの──つまりはカーテンやら戸棚やら椅子やらについては、俺が普段接していたものとそこまで差がなかったので、強く目を引かれることはなかった。
──レイゾウコ……。
はあはあという息遣いの合間に、不意に脳裏に言葉がよぎる。
レイゾウコ? れいぞうこ……れいぞうこ……れいぞうこ……。
よぎった言葉を、俺は反芻するように、何度も何度も心の中で繰り返す。
次に俺は顔をあげ、壁に取り付けられた、一体なんの素材でできているのか分からない、板状のなにかへと視線を送る。
……プラ……プラスチック。……ボタン。は、配電盤?
……そうか。そういうことか。もしかして……もしかして俺は……。
枕に背中をあずけ天井を仰ぐと、中途半端に口を開け、俺は深くゆっくりと息を吐き出す。
「……そうか。俺は戻ってきたのか。現代に……日本に……元の世界に」
その後の展開は目まぐるしかった。目を覚ました俺に気づいた看護師が、驚いたような表情を浮かべてから医師を呼びにゆき、やってきた医師が俺に典型的な、例えば「意識ははっきりしているか」とか、「自分のことが分かるか」とか、「名前は」とか、そんな質問をしてから、検査のため別室に移される。触診を受けたり喉を診られたり目をのぞかれたりしてから、なにやら仰々しい装置に寝かされ、そのままなにもしないまま数分の時をやりすごしてから、ようやくもとの、先ほど俺が目覚めた部屋に戻される。
静かな時間が戻ってきた。俺は硬くもなければ柔らかすぎもしない枕に頭をあずけたまま、様々なことを、浮かんでくる順にまかせて、考えてみた。
現代に戻ってきたのは、二十数年ぶりか。いや、正確にはどうだろう。俺が勇者として異世界──人間族の国オルオを、魔王ソアラの軍勢から救うため召喚されたのが、まだ年端もいかぬ八歳の時だ。それから異世界を学び、勇者スキルである『能力転写(アビリティ・トレース)』を研鑽し、仲間を見つけ、ようやく魔王軍を打ち破ったのが……十年後。ソアラの首を討ち取り、オルオに勝利を導いたからといってそれで終わりではなかった。勇者の成すべきこと、責任は、世界に平和をもたらすことだからだ。むしろその後の事後処理、ようは復興の方が、慎重かつ繊細な、非常に時間のかかる作業だったように思う。……いや、『だった』は違うか。ほぼ社会基盤は整い、大半の人々がなに不自由なく暮らせるようにはなったとはいえ、まだまだやらなければいけないこと、やるべきことは、あったのだから……。
俺は魔王討伐後の復興期間を十四年と計算し、合計二十四年間、異世界であるグランファニアーにいたと、正確な数字を弾き出した。
二十四年ぶりの日本か。……正直、八歳の時の記憶は曖昧で、実は現代とか日本なんてものは存在しなくて、全ては俺の妄想だったんじゃあないかって思っていたけど……こうやって戻ってきたところを見ると、やっぱり俺は転移した勇者である以前に、日本人だったんだなって、心底実感させられるな。
頭の下に手をおき、天井を仰ぎつつ、えもいわれぬしみじみとした想いにひたりつつも、俺は心のどこかで、どうも気持ちの悪い、妙な違和感を感じていた。
この違和感はなんだろう? 気になった俺は、だるい体をなんとか起こすと、今一度、周囲へと視線を巡らせる。
カーテン……窓……テレビ……冷蔵庫……なんらかの医療機器……洗面台……鏡……。
鏡まできたところで、俺の視線が自ずととまる。と同時に、強烈な違和感が、まるで津波のように押し寄せ、心をぐちゃぐちゃにかき乱す。
──え……え? えええ? え?
俺はベッドの手すりをつかみ、身を斜めに乗り出すようにして、恐る恐る、鏡をのぞきこむ。
……ど、どういうことだ? 俺なのか? これは俺なのか?
鏡の中にいたのは、異世界で二十四年すごし、立派な大人へと成長をとげた、俺こと北見瑛太、満三十二歳ではなかった。どこからどう見ても十代半ばである、今まさに青春真っ盛りな雰囲気を漂わせる、若者……少年の俺が、そこにいた。
どういう……ことだろう。
ぺたぺたと、俺は自分の顔を触りながら考える。
若返った? 若返ったのか? いや違う。戻った? だが記憶はある。異世界での、二十四年間の記憶が。だったら……だったら?
俺の疑問は、俺のもとにやってきたある人物により、間接的にもたらされる。
「瑛太! やっと起きたんだねえ!」
聞き覚えのある快活な声に、俺はとっさに振り向く。
「おはよう。ほんとによかったよ」
「……静子さん」
短めの黒い髪は、パーマがあてられているのか、自然な巻き毛になっている。顔は若干頬骨が出てはいるが、目鼻立ちが整っているので、素直にきれいという印象を受ける。背は女性の中では高く、大体一七〇センチ台後半といったところだろうか。俺の身長が一七五センチなので、自分よりも背の高い彼女からは、やはりというかなんというか、否応なしに威圧感のようなものを感じてしまう。服装はいたってシンプルで、襟のついた白のポロシャツに、腰の部分と裾の部分を紐でしばれる、草色のズボンといった様相だ。ズボンの丈は若干短くて、くるぶしが顔をのぞかせており、足にはいかにも動きやすそうな、某スポーツメーカーのロゴを冠したスニーカーを履いている。
彼女の名は飯田静子。母方の叔母であり、ようは俺の母、紀美子の姉だ。
俺が異世界に召喚される寸前、八歳の時には、既に静子さんの両親は他界しており、そんな両親の旅館、『すずらん』を継いで女将をしていたはずだが……はたして今も状況は変わっていないのだろうか。
いやそれより! と思い、俺は強く首を横にふると、一度目を自分の手元に落としてから、もう一度、まるで下から上へと見あげるような格好で、静子さんの顔を見る。
ほとんど変わっていなかった。俺の記憶にある静子さんの顔と、ほとんどなにも変わっていなかった。確かによく見ると、若干だが痩せて、かすかに小じわが増えたように感じなくもなかったが、どこからどう見ても、決して、二十四年の月日が流れ、それだけ歳と苦労と人生を重ねたようには見えなかった。
俺だけじゃない。静子さんも、ほとんど歳をとっていない。じゃあ……そういうことなのだろう。つまりは、そういうことなのだろう。つまり、つまり……現代と異世界、時間の流れ方が違うんだ。異世界での二十四年は、現代では数年……そういうことなんだ。
「瑛太」
静子さんがカバンから茶色の紙袋を取り出し、俺に差し出す。
「あんたにお土産だよ」
「お土産ですか?」
受け取りつつ俺は聞く。
「なんだい? 敬語なんてよしてくれよ。前みたいにフランクな感じでいいからさ。というか、一体どこで敬語なんて覚えたんだい?」
静子さんの質問を、俺は自然な感じで受け流す。まさか異世界で覚えましたなんて説明するわけにもいかないから。
紙袋の中にはコロッケが入っていた。数は五つで、まだほんのりと温かい。
「瑛太が目を覚ましたって聞いてね、すぐにこれだって思ったわけだよ」
「コロッケ? もしかして柳川商店街の、泰造さんとこの?」
「そう、かぼちゃコロッケ。瑛太これ好きだっただろ」
俺が好きなのはかぼちゃコロッケじゃなくて、さつまいもコロッケの方だ……と思ったが、いわないことにする。なにも重箱の隅をつつくようなことをいって水をさす必要はない。
「ありがとう。でも今はちょっと食べる気がしないから、あとでいただくよ」
「うん。そうだね。寝起きに揚げ物は、ちょっときついよね」
微笑を浮かべて頷くと、静子さんは俺からコロッケの袋を受け取り、そっとサイドテーブルの上におく。
俺はそんな静子さんの姿を目で追いながら、なにげなく、自分の両親のことを尋ねる。というか、普通に考えておかしくはないだろうか。息子が昏睡状態から回復したというのに、いの一番にやってきたのが母の姉である、叔母というのは。
「静子さん、俺の父さんと母さんは?」
「え?」
動きをとめ、数瞬空の一点を見つめてから、指で横髪を耳にかけるような仕草をする。
「父さんと母さんは、一体どこに……?」
重ねて質問をすると、静子さんは観念したみたいに首を横にふり、俺の質問に答え始める。
「どうせすぐにしれることだと思うからいうけどねえ、実は二人……離婚したんだよ」
「離婚?」
正直、離婚と聞いてもぴんとこない。感情の動きもほとんどないように思われる。もしかしたら両親の離婚に悲しいという思いを抱くには、あまりにも時を隔てすぎてしまったのかもしれない。あるいは単に歳を取りすぎてしまったか。だってそうだろう。現在の俺は、体は十代の子供かもしれないが、中身はれっきとした大人……三十二歳なのだから。
「そうなんだ」
「おや、意外と冷静だね」
「うん。まあ別に、両親とはいえ、彼らはそれぞれ一人の人間だし、自分の生きる道は、自分で選択する権利があるかなって」
俺の言葉に面食らったのか、静子さんがきょとんとした表情を浮かべる。
あっ、しまった……さすがにこの言葉は年齢不相応だったか……?
俺の心配をよそに、静子さんが高らかに笑い声をあげる。そして手を広げ、俺の肩を一度強く叩くと、にかっとした笑顔を浮かべ、いう。
「さすがは瑛太だねえ! いいんじゃない? その前向きな姿勢!」
「そうですかね?」
「前向きついでにもう一つ、瑛太に伝えとかないといけないことがあるんだよ」
「もう一つ? なに?」
「うん。それはね、瑛太に妹ができたってことなんだ」
「妹? え……いつです?」
「二人が離婚する寸前、瑛太が寝たきりになった、そのあとだね」
なんといえばいいのか分からなかったので、俺はそっと、視線を自分の手元へと落とす。
「瑛太が寝たきりになって夫婦仲が悪くなったみたいだけど、身ごもった妹ちゃんをもってしても、離婚をふせぐことはできなかったみたいだねえ」
離婚理由は、やっぱり俺だったか。でもまあ、確信に近い予感はあったし、どうせいずれは明らかになることでもあるし、よしとしよう。
それより今は妹のことだ。
「親が離婚してるってことは、その俺の妹は、どっちかが世話をしてるってことだよね?」
目を伏せた静子さんが、どこかおもおもしい雰囲気を醸し出しつつ、首を横にふる。
「ちょっと複雑でねえ。今はうちにいるんだよ」
「静子さんのところ? ということは、旅館に?」
頷いて答えてから、静子さんが説明を加える。
「瑛太だから包み隠さずにいうけど、実はね、紀美子もその旦那も、あんたたちの親権を放棄したんだよ。それでね、じゃあ一体どこが寝たきりの息子と生まれたばかりの娘の面倒をみるかって話になったんだけど、それについては、親戚同士で随分と揉めたわけさ」
「それで、静子さんが引き受けてくれたと」
「おや。親権放棄については、そんなにショックを受けていないみたいだね」
「ま、まあ」
嘘じゃないし、本当に全然ショックを受けていないけど、これはあくまでも精神年齢がおっさんの俺だからであって、もしも同じような状況の他の人がいた場合、こうはいかないと思う。
「でもどうして静子さんは俺を……俺たちを、引き取ってくれたの?」
「なにさ水臭い。当たり前じゃないか」
腰に手をあて大きく笑ってから、俺へとぐっと顔を近づける。
「私と瑛太の仲だろ? これ以上いわせないでおくれよ」
「う、うん」
照れくさくなり、俺は自ずと顔をそらす。
思い出されるのは異世界への転移前、歳が離れているにもかかわらず、随分と気の合った静子さんとの思い出。それは時に母さん以上に親しみを感じ、しかしながら実の親ではないからこそなんでも打ち明けられた、まるで親友のような仲睦まじい関係。
正月、お盆はもちろんだが、時々静子さんに会うのが本当に楽しみでならなかった。そんな静子さんに、俺は俺が病室で眠り続けているあいだ中ずっとお世話になり続け、あまつさえ両親から見放された俺を引き取り、責任を請け負ってくれたんだ。
本当に、本当に本当に、感謝しかないな。感謝しかない。本当にそれだけだ。
「さっそくだけど、瑛太の妹、萌に、会ってみるかい?」
「え? きてるの?」
なんとなく、病室の戸の方へと顔を向ける。
「でも、その萌? は、俺に会ったことがあるんだよね? 俺は寝ていたかもだけど」
「いや、実は旅館の仕事が忙しくてねえ。寝ている兄に会っても意味がないかなと思って、ここにつれてきたことは一度もないんだよ。だから瑛太も萌も、顔を合わせるのはこれが初って感じかな」
「ああ」そうなんだ……と言外にいう。それから俺は、静子さんの目を見つめると、了承の意を示すように一度おもむろに頷いてから、促すように戸の方へともう一度顔を向ける。
「萌。入ってきな。あんたのお兄ちゃんが目を覚ましたよ」
「はーい!」
溌剌とした声が応えたあとに、音を立てて勢いよく戸が開けられる。そこにはピンクのランドセルを背負った、おそらくは学校の指定だろう制服に身を包んだ女の子がいた。
まだまだ幼い丸顔には、くりっとしてかわいらしい、どんぐりまなこが並んでいる。茶色がかった髪は長くのばされており、首の付根付近で左右のおさげにされている。歳は十歳にいかないぐらいだろうか。いかにも小学校低学年然とした、無邪気な雰囲気にあふれまくっている。
多分これはかなりかわいい方なのだろう。ほぼ間違いなく、将来は誰もがうらやむ美人さんになるに違いない。……それともこれは単なる身内の贔屓目というものなのだろうか?
などなどと考えているうちにも、俺の妹、萌が、とたとたと駆け寄り、そのまま勢いよくベッドにダイブする。
「や、やあ。はじめまして。俺は瑛太。北見瑛太」
北見? と自分の性に対して疑問を持つ。
親は離婚して親権まで放棄したんだから、今は北見じゃないのか? ということは今は引き取ってくれた静子さんの性? じゃあ飯田か? ……まあそれはあとでいいか。
「萌だよね? 俺は萌の兄だよ」
しかし萌は応えない。そればかりか歳不相応にも眉間にしわを寄せ、いぶかしむような眼差しで、俺に対して穴があくほどに視線を注ぎ続けるといった始末だ。
「ええと……どうしたの? 俺の顔になにかついてる?」
「ああっ!!」
萌がなにかに気づき、驚いたような声をあげる。その声があまりにも大きかったものだから、すぐ目の前にいた俺はもちろんのこと、静子さんも、一体なにごとかと、思わず目を見張ってしまう。
「な、なに? どうしたの?」
「お前! お前あれだろ!」
ベッドから飛びおりた萌が、ぷるぷると震える手で俺を指さしながらあとじさる。
……あれ? なんか口調が変わった? 急に大人っぽくなったというか、高慢っぽい雰囲気になったというか……というか初対面かつ実の兄に向かって『お前』って……。
「お前! ゆっ──」
不意に中途半端にも言葉を切る。萌はまるで『しまった!』みたいな素振りで両手を自分の口にあててから、きょろきょろと視線を漂わせる。
ゆ……ってなんだ? 今萌は一体なにをいいかけたんだ?
「こら萌! ここは病院だよ」
膝をまげしゃがんだ静子さんが、萌の両肩に手をのせ、自分の方に向けさせる。
「大きな声を出しちゃだめだろ。人さまに迷惑がかかるからねえ。分かるだろ?」
「う、うん……ごめんなさい」
萌がしっかり反省したのを確認すると、静子さんは俺に「またくるからねえ。今後の話は、また今度詳しくするから」といい萌の手を取りさってゆく。
俺はそんな静子さんと萌の背中を見送りつつ、軽く息をはいてから小首を傾げる。
……『ゆ』ってまさか『勇者』の『ゆ』じゃあないだろうな。お前! 異世界に転移してきた勇者じゃないか! ……みたいな。となると、そんなことをいい出す萌は、あの魔王こと、ソアラ・ソア・イスカリーの生まれ変わりとかか?
くすっと、思わず俺は自分自身の言葉に笑ってしまう。
まあそんなわけないわな。勇者と魔王、異世界で宿敵同士だった二人が、まさか現代で血のつながった兄妹になるだなんて、そんなこと起こるわけがないし。
──うん。起こるわけがない!
最後に俺は自分自身を納得させるように心の中で強くいうと、サイドテーブルにおかれたコロッケの紙袋を手に取り一つ食べる。
うまい! でもやっぱり俺はかぼちゃじゃなくて、さつまいもコロッケが好きかな。