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この物語にはキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
陽射しはもう初夏のように強く、ベンチの背もたれがじんわりと俺の背中を温めていた。
今は五月だと言うのに、公園を抜ける風も、生ぬるい。
俺は一人、ベンチで足を組みスマホを眺めながら、イロハが来るのを待っていた。
待ちながら、俺はつい先日のことを考えていた。
それは、突然現れた剣。
この前俺は、ついに謎の力を使えるようになった。
細長い剣、光り輝く微粒子が、剣の周りを舞っている。
でも、その力が使えたのは一度だけ。それ以降は、自分で出現させようとしたが、思うようにできなかった。
あの力は、俺の能力か、それとも一度だけの奇跡か?
 公園には子供が数人。滑り台を滑ったり走り回ったり、自由奔放で、キラキラ輝くその笑顔がほんの少し羨ましい。
「ちょっと早く来すぎたかな。」
画面をスライドしていると、鈴のような心地よい通知音とともにスマホがブルブルと振動した。
 俺に誰かがメッセージを送ってきたようで、スマホの画面には「露草タヨリ」の名前。
中学の頃の唯一の友達で、俺はタヨと呼んでいた。
 「タヨ……?」
 ……そういえば、卒業式以来まともに連絡を取ってなかったな。
 いや、正確にはあまりにもうるさいから無視していただけだが。
 深夜に「グッドモーニング!」と電話をかけてこられた時は、流石にブチ切れた。
 でも、そんな彼は俺の唯一の友達で、うるさい所も嫌いだけど嫌いじゃない。
 俺はスマホの画面を人差し指で突こうとする。
 その時、俺の隣に誰かが座った。微かな花の匂いが俺の鼻に届いた。香水のような鼻を刺激するような匂いでは無い。優しく、自然な匂い。
 視線を逸らすと、白くて長い髪に、赤い紐状のリボンを頭の両サイドにつけた少女ーーイロハが座っていた。
 イロハはまっすぐ前を見つめ、背筋を伸ばし膝に手を添えて座っていた。
俺は驚愕し、つい情けない声を出してしまった。その声に反応してイロハは俺の顔を見る。
 「こんにちは。」
 「こ、こんにちは……。びっくりした。来たなら言ってよ」
 「なんだか、話しかけにくい空気が漂っていたので。」
 「大丈夫だよ」
 そう俺が言ったあと、空気を静寂が包んだ。生暖かい風が俺たちの前を通りすぎていく。
 会話、終了。
 なんだか、この展開にデジャブを感じる。前もこんな空気に晒された記憶が。
 「き、今日は暑いな。数日前までは涼しかったのに。ウン。地球温暖化のせいかなー」
 と、俺は頑張って会話を無理やり広げようとした。
 イロハは真顔で「そうですね。」と答えたあと、聞き流せない言葉を放った。
 「因果の歪みのせいで、人の心以外にも、自然環境まで歪み始めています。ここ数年、異常です。」
 因果の歪み。
 歪みが発生するせいで、自然環境までもが狂っているというのか。いや、それより。
 まず、因果ってなんで歪むんだよ。観測者とか、虚霊とか、死後の世界とか、まだよく分からないんだけど……。
 俺は頭の中に突如現れた数々の疑問を、イロハにぶつけた。
 「めっちゃ今更なんだけど、そもそも、因果ってなんで歪むんだよ。虚霊とか、なんでいるんだよ。観測者ってなんだよ。死後の世界って、なんだよ……。」
 俺は頭の中に浮かんだ疑問を全て口にした。口にしたあと、自分の中にはこんなにも疑問が募っていたのかと、謎に感心した。
 するとイロハは呆れたのか、困ったのか、顎に手を当てて「えっと……」と声を漏らした。
 「私は、一気に答えられません。どの問いから答えれば……。」
 イロハは視線をこちらに向けて、問い返してきた。
 「……因果の歪みが発生する理由から、教えて。」
 「分かりました。」
 イロハは息を吸い、ゆっくり口を開いた。そして語り始めた。
 「この世界には、今私たちが存在する”生命の世界”と、生命の世界から消えた、死んで魂だけの存在となった者たちが存在する”死後の世界”が存在します。生命の世界と死後の世界。当然、魂となった者は生命の世界に足を踏み入れてはなりませんし、生きた者が死後の世界に行くことも不可能ーー。」
 そこで俺はイロハの語りを遮った。
 「待って。俺たち前死後の世界の入口に行ったよな。死後の世界の手前まで。そこでイロハさんのお母さんに止められたけど……。」
 イロハは答えに困るように数秒黙った後、口を開いた。
 「……あの時は、何かが待っていたから。話を続けます。」
 と、理解不能な言葉だった。何かが待っていた、って。何が待っていたんだ。イロハのお母さんのことか?
 それとも……。門まで案内してくれた少女か。
 「……うん」
 俺は納得できないまま相槌をうった。
 そしてイロハはもう一度息を吸って両眼を閉じた。
 「ええと、どこまで話したのかしら……
その死後の世界にいる魂は、心残りなど、そういうものがあると、生命の世界に現れてくるのです。ーー理性を失った状態で。
現代風にいえば悪霊。それが虚霊、死後の世界の者が生命の世界に現れてしまったら、世界と世界の境目が曖昧になり、歪みが発生する。なので、死後の世界には”守護者”がいます。」
 俺は唾を飲み込んだ。こんな架空のような話。本当なのか。いやーー、本当なんだろう。じゃなかったら虚霊なんてやつはいないし。
 でも、嘘みたいな話だ。そんなのが世界にいるなんて。
 「守護者……って何?」
 「守護者とは、死後の世界を守る者。虚霊が私たちの世界に現れるのを防ぎ、魂に安らぎを与える者。私のお母様は、月見の森の女王であると共に、守護者でもありました。でも、お母様は他の者にその立場を譲ったようです。その頃からでしょうか。世界が歪み始めたのは。」
 「なるほど、わからん。」
 俺は両手を組んだ。
もうワケわかんねぇ。この世界どうなってんの。
 イロハは瞳をぱちぱちと瞬かせ、少々困った様子で首を傾げた。
 「ん……じゃあ観測者ってのは?」
 イロハに尋ねると、彼女はベンチから立ち上がり、一歩、二歩と歩を進めた。
 「観測者とは、簡単に言えば能力を操る者。
人によって能力は異なります。 観測者はこの世界を守る役割もあります。
あなたは……どのような力を持つかは知りませんが。あなたは少し珍しいんですよね、観測者は生まれつき力を持つはずなんですけど……。」
 「じゃあ君はどんな力を持ってるの?君も観測者のひとりだろ?」
 「……私はこの剣と、多少の治癒能力が使えるくらいですね。」
 イロハは公園で走り回る子供を眺めた。その眼差しは、今じゃなく、過去を見ているようだった。
 「……。」
 俺も釣られるように、立ち上がり、その景色を眺めた。
何も知らない、純粋な子供たち。この世界に危機が押し寄せていることも知らずに夢を見る子供たち。
 「……懐かしい。」
 イロハがそう呟いた時だった。
上着のポケットの中で、スマホがけたたましく震え、急かすような音が流れる。
 「……誰だ?」
 俺はポケットからスマホを取りだし、画面を見た。
画面を覗くと、表示された名前に思わず息を呑む。
 露草タヨリ。
 ーータヨ?
 俺の指が不規則に震えた。何も怖いことは無いのに、不安な想いが微かに俺の心を揺さぶる。
 通話ボタンを押すと、その微かな不安を吹き飛ばす、軽い声が飛び込んできた。
 『グッドモーニング!レン。連絡したのになんで返事くれないのさ?悲しいよ俺、ついに嫌われた?』
 俺はいつものようにうざいその声に安堵を覚えながらも、同時にめんどくさい気持ちも覚えた。
 ため息混じりに俺は呟く。
 「今昼だわ、ちょっと忙しかったんだよ。てか俺最初からお前のことは好きじゃないぞ。」
 『ええ〜相変わらず酷いな〜。ま、そういうところが俺はーー。』
 俺は次にタヨが口にする言葉を予測して急いで遮った。
 「あ〜黙れ黙れ〜、俺は嫌いだっつの。てか早く要件言えよ。ちょっと忙しーー。」
 『観測者と何かやってんの?』
 その声に俺つい硬直する。背筋を冷たいものが走る。
 観測者ーーこいつなんで……観測者を知っているんだ?
 『んふふ、俺今どこにいると思う?』
 「は?」
 ふと、公園の奥に視線をやる。
 そこに……いた。
 ブランコの列。その一つに、足をぶらぶら揺らしながら腰かける男がいた。
 青い瞳。金髪の前髪は、二つに分かれている。センター分けってやつだ。
服は白い半袖パーカー、左腕には色とりどりの紐で結ばれたミサンガが着いている。
 携帯を耳に当て、イラつきを覚える笑顔で、こちらを真っ直ぐ見つめている。
 ……こいつは。
 『正解』
 通話口から、楽しげな声が重なる。
その声の後に、通話はプツリと切られた。
 「やぁ、レン。久しぶり。卒業式以来かな?」
 左手をヒラヒラと振り、俺達の元へ近づいてくる。
 「お前……さては俺達のこと見てたな?」
 「あはは、逆に気づかないなんて馬鹿だよ。」
 ーーは?
 俺は眉間に皺を寄せ、怒りを覚えたが、今は目の前にイロハがいるし、いつもみたいにやるのはやめよう、と自分に言い聞かせた。
 「……あの。」
 突如小さな声がした。その声の方を見ると、イロハが気まずそうな様子で立ち尽くしている。
 イロハは視線を落とし、小さな肩をほんの僅かに震わせながら口を開いた。
 「私は邪魔者ですね。……帰ります。」
 その時のイロハは、ほんの少しだけ唇を噛んでいた。
 彼女はUターンし公園を後にしようと歩き始めた。俺はそれを止めようと手を伸ばした。
 でも、イロハを止めたのは俺の手じゃなく、タヨの一声だった。
 「助けて欲しいんです。イロハさん。」
 タヨは、いつもよりも真剣な眼差しでイロハに語り掛けた。
 なんで、俺じゃないんだ?
 何故か俺の心には、嫉妬に似た感情が芽生えた。
どうして、俺に助けを求めないのか。
そんな不思議な感覚が俺の中に渦巻いた。
 イロハは動きを止め、こちらをゆっくり振り返った。流れるようにタヨを凝視した。何故私の名を、とでも言いたげの表情で、彼女は呟いた。
 「……どうして私の名を。あなたと私は初対面なはず。」
 タヨはにこにこと笑いながらも、瞳の奥に小さな光が揺れている。何を考えているのか、まるで読めない。
 「まぁ、あなたは有名な方ですから。それより、話しましょう。お願いしたいことがあるんです。」
 タヨは笑った。
 いつもの笑顔なのに、どこかふわふわとつかめない空気が漂っている。笑っているのか、笑わせているのか、分からなかった。
 「続きは、近くのカフェで、ね?」
「いらっしゃいませぇ」
 ドアを開けると同時にカランカランと音がなり、店員がよく通る声で席まで案内する。
 「さて、お二人さん。遠慮なく頼んでね。ここは俺の奢り!」
 「は、はい。」
 「……。」
 俺とイロハは、タヨに言われるがまま、カフェに来てしまった。
 タヨは、何がしたいのか分からない。何故か観測者という言葉やイロハの名前を知っている。こいつは、なにか企んでいるのか?
 いや、そんなことは無い。タヨはうざいやつだが心は優しい。俺たちを騙すなど言うことはしないはず。
 ……こういうこと言うと、後々その違和感が的中する展開が、物語ではよくあるよな。
 「さ、レン、イロハさんも。早く座りなよ。」
 タヨは俺の肩をポンポンと叩く。彼は満開の笑みでこちらを見つめる。
 「お、おう」
 俺はまたタヨに言われるがまま、ソファ席に腰掛けた。そのソファの座面は、クーラーの聞いた室内にあるせいか、とても冷えていた。
イロハも同時に、俺の隣に腰かけてテーブルの上のメニュー表に目を通す。
 「……ここ涼しいな、外とは違って。」
 俺がそう言うと、タヨは微笑みを崩さず、テーブルに肘を着いた。
 「クーラー着いてるしね。あとレンは暑いのにずっとその黒い長袖の上着着てるし。脱いだら?」
 「あ……えっとな。ちょっと色々あってさ……。脱げない。」
 「あ……レンは色々あるもんね。ごめん。」
 少し申し訳なさそうに、タヨは微笑した。
 俺には秘密というものがある。故に秘密がバレぬようにしているのだが、唯一知っているのがこの目の前のイケメン男。だが口が滑りやすく、今だってイロハがいる前だと言うのにこうして話すのだ。
 だがどうやら、イロハは全く俺たちの話していることに耳は貸していなかったようで。眼前のメニュー表に夢中。珍しく目を輝かせながら、何にするのか迷っているのか。
 ……イロハ、ここに来た理由。忘れてないよな?
 そう、俺達がここに来た……というか来させられたのは、タヨが話したいことがあるからだ。決してカフェタイムを楽しみに来た訳では無い。
 「ふふっ、イロハさん。迷ってるの~?」
 「……あ、ごめんなさい。遊びに来た訳ではないので。大丈夫……。」
 俺はすかさずイロハに言った。
 「でも、さっきからパフェばっかり見てたよな?食べたいなら頼んだらいいじゃん、タヨの奢りだし。」
 するとイロハはいつも以上に真剣な顔で俺を見つめた。
 「いえ、大丈夫。私のプライドが赦さない。」
 なんだよ。お前のプライドって。
俺は呆れて「そう……」としか言えなかった。
 「あの」
 その時、張り詰めた様子の声が俺たちの周りに響いた。
 タヨだった。
 「お願い、聞いてくれますか。イロハさん。」
 いつになく真剣な眼差し。これは多分、本気でタヨが困っている。一体何があったのか。
 「……お願いの、内容によりますが。」
 するとタヨは、ソファ席から立ち上がり、両手でばんっ!とテーブルで叩いた。切羽詰まった様子で口を開いた。
 「イロハさん、我々の力になって貰えますか?」
 「……我々?」
 俺とイロハは、同時にそう呟いた。我々とは一体何を指しているんだろうか。
 「あー、ははっ。言ってなかったね。じゃあこの際だから言っちゃうけど……。」
 タヨはソファ席に座り直し、ニコニコの笑顔で衝撃的な言葉を言い放った。
 「俺、統合因果観測機構……通称I.C.O.。イロハさんが分かるように昔呼ばれてた略称で言うと、観測機関っていう組織に所属してるんだ!つまり俺、観測者なんだ!」
 俺の思考が、シャッターを閉めた。
身体が動かなくなる。
 カンソクシャ……観測者だと?
こいつが、俺と同じ……能力者?しかも観測機関って言ったよな?いや観測機関のことよく知らんけど。
「は、はあぁ!?」
俺はつい身を乗り出して大声を出してしまった。それと同時に店内の人々の視線が俺に向けられる始末。ヒソヒソと話し声が聞こえてくる。
「あ……ごめんなさい。」
俺は頭を下げて、テーブルに体重を預ける。
 やっちまった。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!いや俺は悪くないもんな。元はと言えばタヨが変なこと言い出すから……。
 タヨは腹を抱えて、ケラケラと笑う。
 「レンったら驚きすぎだよ!」
 「うっさい、お前のせいだ。」
 俺たちはそんな会話をする中、イロハだけは黙り込んでいた。早く話を進めろとでも言わんばかりの視線が、俺の方に向けられる。
 タヨは笑いを収めたあと、姿勢を正してイロハを見つめた。
 「……ええと、イロハさんには廃墟に行ってもらいたいのです。その廃墟には虚霊が現れていまして。その虚霊は、廃墟を住処にして、近くを通った一般人を襲っているそうです。」
 タヨは言いながら、テーブルの上に一枚の写真を差し出した。
 その写真を覗くと、誰もいない。放置された建物のようだった。雑草が生茂って、白い壁にはヒビが入り、窓も割れている。今にも壊れてしまいそうで。写真が取られた時刻が夜だからだろうか、いかにも霊が出そうな空気が漂っている。
 「その虚霊を倒せ、ということでしょうか。」
 イロハがそう言うと、タヨは驚いたように目を見開いた。
 「言おうとしていること、分かっちゃうなんて。凄いですね、じゃあーー。」
 イロハは瞳を細め、タヨを思い切り睨んだ。そして言葉を遮るようにこう言った。
 「怪しい。……あなた達、観測機関は私を遠ざけ続けてきた。それが今になって頼みごと?――意図が読めません。」
 イロハはタヨを見た。眉間に皺を寄せ、今までで一番鋭く、疑う眼差しで。
 タヨは、微笑みを浮かべた。危険な香りのする、怪しい微笑み。
 一瞬にして、静寂に包まれた。
 二人は心理戦でもするかのごとく、冷たい視線を重ね合わせる。
 俺はあまりに冷たく凍りついたその空気が怖くて仕方がない。こんなところで喧嘩などしたら、イロハはきっと怒らせたらやばそうだし、タヨは怒ったら警察沙汰になりかねないし。
 イロハは唇をかみしめて、またもやタヨを睨みつけた。
 今日タヨと出会って、イロハは何度もタヨを睨んでいる。彼女はタヨに対して何かを感じとっているのだろうか。じゃなきゃ、こんなにあからさまに嫌悪を顔に出すとは思えない。
 「なんですか?俺たちI.C.O.が信用出来ませんか?」
 タヨは両肘をテーブルに乗せて、イロハに対しての微笑みを崩すことなく尋ねる。
 イロハは深く深呼吸をし、今度は睨まず、真っ直ぐタヨと瞳を重ねた。
 「いえ、ただ……昔、観測機関の者たちと何かあった気がするんです。でも思い出そうとすると、記憶にボヤがかかっているみたいで。」
 イロハはそう呟きながら、左目を優しく押さえる。
 「気のせいじゃ、ないですか?……それより。」
 タヨはまた、ふわふわと、圧のある笑顔を浮かべて続けた。
 「お願いできますか?」
 ――やっぱりこいつ、何か隠してる。けど俺は、イロハの答えを待つしかなかった。
 緊張するする空気が漂う。何故か俺の心拍が上昇し、突如として不安な気持ちに襲われる。
 息を呑み、彼女を眺める。
 するとイロハは、想像よりも早く、返事を口にした。
 「はい。分かりました。」
 即答……だと?
 俺は驚愕し、口をぽかんと開けてしまった。
流石のタヨも、即答するとは思っていなかったようで、青い瞳を思わず見開いていた。
 「え、ほんとにやるの?」
 俺は「怪しいからやめておいた方が良い」と言いたい衝動を抑え、イロハに尋ねた。
 するとイロハは俺の目を真っ直ぐ見て、何も浮べない無の表情で答えた。
 「ええ、だって一般人が襲われているのでしょう?なら早くその状況に終止符を打たなければ。でも。」
 イロハは視線をタヨに向けた。そして続きを述べる。
 「観測機関に協力する訳ではありません。勘違いしないでください。」
 その時のイロハはまるで、タヨーー観測機関に対して敵意を向けているような気がした。彼女と観測機関の間に一体何があったのだろうか。
 「そうと決まれば行きましょう。早く。」
 イロハはテーブルの上の写真を素早く取り、ピシッと座席から立ち上がったと思えば、俺の腕を思い切り引っ張った。
 俺は困惑して首を左右に振った。
 「え、ちょ、何?」
 「あなたも行くのでは?」
 と、瞳を瞬かせて言うイロハに、俺は言葉を失った。
 確かに、確かに行くけども。でもなんで俺の腕を引っ張るんだよ。今までそんなことしてこなかったのに。
 俺はゆっくり立ち上がると、彼女の引っ張る力はさらに強くなった。一体何故そんな小さな身体で強い力が秘められているのだろうか。
俺はイロハに引っ張られるがまま、店を出ようとした。
 「レン。」
 その声に、俺は視線をタヨに向けた。俺を見ている。
 微笑みを浮かべて、優しく、穏やかで、ほんの少し悲しさを感じるその青い瞳。
 タヨはこう言った。
 「観測者になったレンには、これからたくさん大変なことがあると思う。命を取られないよう、頑張って。」
 ーーえ?
 どういう、事だ。
 理解できない。いや、脳が理解を拒んでいる。
俺にはその言葉が、日本語に似た別の言語のように思えた。
 タヨの言った強烈な一言の意味を問う前に、俺はイロハに引っ張られ、心地よい音とともにドアが開くと同時に、タヨの微笑みは見えなくなった。
 ――カフェを出ると、街はすでに夕暮れに染まりはじめていた。
 依頼を受けた俺たちは、その足で廃墟へと向かうことになった。
どうしても胸の奥に引っかかる。あのタヨリの笑顔だ。
 「命を取られないように」って……どういう意味なんだ?
 そんな疑問に囚われながら、イロハとともに廃墟に向かった。
俺とイロハは、一枚の写真を頼りに、廃墟に向かっていた。
 五月の夕方の空気は生温く、街の喧噪は少しずつ遠のいていく。
角を曲がった瞬間、空気が変わった。
 ぽつりと、壊れかけた建物がまちかまえていた。
 まるで別世界の入口のようだった。
雑草が伸び放題で、アスファルトはひび割れ、建物の壁には黒ずんだ跡が広がっている。
風の音さえ不気味に感じられるほど、そこだけが静まり返っていた。
 なんか、幽霊出てきそう……。
 俺は脳内でそんな不安を巡らせた。実際、本当に虚霊が出てくるのだが。
 乾いた空気に冷気を感じて、俺は一歩退いた。
 「どうかしましたか?」
 「ん、いやぁ……なんか怖くね?」
 と、頭を掻きながら情けないことを言う。
 「そうでしょうか。私はこのような場所を見かけては虚霊を倒していますので。」
 俺は初めてなんだよなぁ……。観測者という言葉の意味をようやく今日少し理解しただけの子供が、こんな不気味な場所……。
 と、弱気になっていると。
 「行きますよ。」
 「え、待って!」
 そう声をかけても聞く耳を持たず、イロハは一歩、足を踏み入れた。
 廃墟に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
夕暮れの光さえ届かず、ひんやりとした闇が肌を撫でる。
窓は割れ、壁には黒い染みが広がっている。
誰もいないはずなのに、背後から視線を感じた。
 「っ!」
 焦って振り返るも、そこには何も無い。
 「視線を感じる……私たちを見てる。」
 そう呟くと、イロハは俺を差し置いて歩を進め、建物の中に入っていこうとした。
 俺は急いで走った。彼女の背中を追いかけた。
 だが、思いのほかイロハの歩くスピードは速く、気がつくとドアの前に立っていた。
 イロハが、廃墟の入口のドアノブに、手をかけ、キイ……という物音を立てて開く。
 俺は周囲の空気を全て吸い込む勢いで、息を吸い、叫んだ。
 「待ってよ!!のこのこと入ったって、何があるか分からない!一緒に行こう!」
 すると彼女はこちらに振り向き、剣に手をかけ、自慢げに言った。
 「何かあれば、斬るのみ。」
 脳筋か。
脳内でツッコミを入れながら、イロハのいるドアの前までたどり着いた。
 俺は息を整えながら、ドアの向こうを覗いた。
そこは、真っ暗。何も見えない。
ガラス窓から光が入ってくるはずなのに、光は一筋も通らない。
まるで現実から切り離された箱のように。
 耳の奥で、自分の心臓の音がやけに大きく響く。
埃とカビの混じった匂いが鼻をつき、喉の奥がざらついた。
 その時、生ぬるい風ではなく、氷のように冷たい風が頬を撫で、髪をふわりと揺らした。
思わず肩をすくめる。
 体の隅々まで痺れるような恐怖が走った。
 今更言ったって呆れられるだろうが――俺はこういう「The・幽霊」みたいな場所が大の苦手なのだ。
……じゃあなぜここに来たのかって?
知らん。
 「だ、誰かいますか?」
 俺は無意識のうちに、何も無い空間に声をかけていた。でも声は響いて建物の壁を反射して自分の元に帰ってくるだけ。返事などない。
 するとイロハは、ズカズカと建物の中に入っていった。こんな怖がりな俺に比べて彼女には、恐怖という感情もないのだろうか。
 イロハは茶色い革のブーツで、廃墟の空間に足音を響かせた。
その音でさえ、どこか現実味がない。
 ……その時。
 壁の黒ずんだ染みが、一瞬だけ人の形に見えた。
目の錯覚だと分かっていても、心臓がドクンと跳ねる。
 イロハは振り返りもせず、剣を抜き放った。
「……あの、あの時使った剣、出現させる事は可能でしょうか。」
 唐突な問いに、息が詰まる。
あの時の剣。俺が無意識に出した、光を纏う細い剣のことだ。
 「ごめん、あの時の剣。どうやって出したのか。分からないんだ。」
 言葉にしながら、不安が胸を締め付ける。
もしあれが一度きりの奇跡だったら……?
もし、今はもう使えなかったら……?
 その刹那。俺の頭の中で、ひとつの映像が流れた。
 俺の目の前にいるイロハ。
突如現れる黒い手、それが彼女の立つ床から現れ、一瞬にしてイロハを連れ去る。
 イロハも、黒い手も消える。
 残るのは、ただ俺ひとり。
 そこで映像は終わった。
 この映像はなんだ?前も見た、前も同じように。
 そうだ、これは未来だ。一番起こるかもしれない、可能性。
 気がつけば俺は叫んでいた。喉が涸れてしまうのも構わないから、それよりも起きるかもしれない出来事が起きないように、俺がどうにかしなければ。
 「イロハさん!!下だ!床に気をつけろ!いつどこで攻撃されるか分からない!」
 イロハは驚いたのか、肩を震わせた。彼女は床を見下した。顔が見えないため、イロハがどんな想いで見つめているのかは知らないが、ひとまずこれで大丈夫……。
 だが俺が安堵したのはほんの一瞬。言ったところで状況が変わるかと言われればそうでも無い。
もし本当に虚霊が襲ってきたとして。イロハが力負けてしまったら?
 その時は、どうすれば?
 そんな時、また視線を感じた。冷たくて、ヌルッとした気持ち悪い視線。例えるなら、好きな人に付き纏うストーカーの視線に似ているような。そんなこと言いつつ、ストーカーに遭ったことはないな。
 でもどこから?どこからこんな気色悪い視線を向けられてる?
 後ろは居ない。どこかに隠れている?でもこの廃墟に、隠れるための道具になりそうな家具もない。
 後ろもいない。どこかに隠れている訳でもない?
いや、物陰に隠れる以外の隠密方法があったとすれば?だって相手は虚霊、斬られても分裂するなんてことがこの前あったばかりだ。
 他の隠密方法、例えばーー。
 床の中に、忍び込んでいるとか。
 その時俺は確信した。
 そうだ、下。
 先程見た未来も、床から黒い手が生えてた。つまり、今感じている視線も、下からーー!
 でも下からだなんて、どのように攻撃するべきか。戦闘経験がほぼゼロな俺は、こういう時まともに考えられない。
 ただ考えるよりも速く、足が動いていた。俺は思い切り床を足で蹴ってやった。案の定何にも起きない。
 「だよなぁ……」
 剣、剣があれば突き刺せるのにな。
 ぼーっと一人考えていると、イロハも床から視線が向けられていることに気がついたのか、剣を思い切り振りかぶると、グシャッと惨い音を立てて突き刺した。
 「……外した。」
 その瞬間。
 黒い床の木目から、すらりと何かが伸びる。
細く、小さな——手。
 イロハの足首を、ガシッと掴んだ。
 「……!」
イロハは即座に剣を床から抜こうとした。だが、動かない。黒い手が柄ごと押さえ込んでいた。
 さらに無数の手が床から伸び、イロハの腕を、腰を、喉元を締めつけていく。
 彼女は叫びに似た喘ぎ声を上げた。
必死に足を動かして抵抗するも意味を成さない。
 「イロハさん!!」
 気づけば俺は走っていた。目の前の少女へと、ただ必死に手を伸ばす。
 ——なんで出てこない!?剣はどこだ!?
俺は、守りたいのに!
 その瞬間、俺の右手が青白い光を帯びた。
とくん、とくん、と鼓動に合わせて輝きが強まっていく。
 光は刃の形をとり、手の中に凝縮された。
あの日の剣が、再び。
 「……っ!」
 俺はイロハを斬らぬよう気を配りつつ、一閃。
縦、横、斜めへと振るたび、黒い手は音もなく霧散していく。
 イロハはその隙に剣を掴み、軽やかに跳躍。こつんと床に着地し、鋭く前を見据えた。
 「……その剣、どこから?」
 視線だけを俺の右手に向けて、俺に尋ねるけど、正直どこから出てきたのか謎。
 「わっかんない、でもそれよりーー!」
 言いかけた時、また頭に映像が流れ始めた。
 今度は一人の少女が、笑いながらイロハを指さす。その少女の顔はノイズがかかっているかのように見えない。でも分かるのは、その少女を俺は知っていて、イロハも知っているけど、’’本物’’では無い。
その様子に俺もイロハも困惑。
 そこで映像は途切れた。
 俺は歯を食いしばった。そして吐き捨てるように言った。
 「また見えた……でも一体どうすりゃ……。」
 「見えた、って何がですか。」
 「……やばそうな、未来」
 俺の未来によれば、多分そろそろ現れてくるはず。よく分からないやつからの、よく分からない攻撃が。
 その予想は、的中した。
 さっき斬ったはずの黒い手達が、またもや床から生え、数々の手と合体していく。
 手を伸ばし、積み上がるようにどんどん他の手とくっつく。
 溶けるように同化し、変形し、それはやがて人の形に。
 その様子を、何も言わずに俺たちは眺めていただけだった。
 でも、現れた人の姿に、思わず目を見開いて、呼吸をするのも忘れそうになった。
 その外見は、一人の少女。身体中真っ黒で、表情さえも読めない。
髪は長い髪を二つに分け、低めに結んだツインテール。その髪には、小さな花?の髪飾りが添えられている。半透明な羽に、服は、ボロボロな真っ黒なスカートで、手足も細く、靴も履いていない。
 そして瞳は、生気も宿っていなかった。生きていないようだった。
 その姿を見て、俺は記憶を辿り思い出した。
 雰囲気こそ違うが、あの見た目は間違いなくイロハの友達。名前はーー。
 「フユリ……?」
 イロハが小さく呟いた。そう、フユリ。俺はあまり話せなかったが、何かを抱えていそうな空気をまとった、明るい子だった。でも今いるのには、一欠片も明るそうな要素がない。
 イロハは首を小刻みに揺らし、震える腕で剣を少女に向け、言い放った。
 「違う……あなたはフユリじゃない。だってあの時、私あなたを斬った。あなたの願いで。
なのに、どうして?今ここにいるの?」
 斬った……やっぱりそうだったのか。
 あの日、森を初めて訪れた日。フユリさんと出会い、そしてすぐに会えなくなった。何処かに行った。二人の背中を追いかけた結果、いたのは剣を持ち泣いているイロハだけだった。
 だから俺は最低だけど、イロハがフユリを何らかの理由で斬った、と推測した。それが的中したみたい。
 いつもの冷静さはどこに行ってしまったのか。彼女は手の力を抜いて、剣を落とした。カラン……という音が静かに響く。
 ああ、そうだ。この子はきっとフユリさんじゃない。フユリさんの真似事をした、虚霊。
きっとそれは分かるはずだ。さっきの黒い手が密集して現れたのがあの子。黒い手は虚霊。
 だからイロハも分かってるはず。なのにこの子は、苦しそうな表情をする。
 いや、無理もないか。
 フユリさん、……虚霊は、口角を上げて、話を始めた。
 「ねぇ、イロハ。なんで森のみんなを助けてくれなかったのかな。」
 「……何を言ってるの。」
 イロハは微かに眉間に皺を寄せて、虚霊の言うことを理解しようとした。
俺もイロハも、今言われていることがよく分からない。
 虚霊は手を広げ、楽しげに語った。
 「そっか、覚えてないんだった!イロハは己の罪からずっと逃げているんだよね。だから森が燃えたとか、みんな消えたって言っても通じないんだ。
あの日、全ての幸せが壊れた日。森のみんな消えたの。女王様はイロハの持つ剣の中に魂を封じてイロハに託した。でもイロハは、助けてくれなかったよね?私は生き物じゃなくなって。他のみんなは死んじゃって、森の静寂は壊れかけてる。誰のせいだと思う? 」
 淡々と、しかし揶揄うように語る姿に、俺は何も言えなかった。ただ目の前の虚霊が語る、イロハの過去がほんの少し気になってしまった。
 「……知らないの。森が燃えたのも、みんな消えたのも、知らないの。思い出したいのに……忘れてなんていたくないのに。」
 イロハは自身の失った記憶を探るように、目の前の人の形をした虚霊に尋ねた。
 「どうして、記憶を失っちゃったのよ。覚えていないといけないのに……きっと、大事な何かがあるはずなのに。」
 俺はそれを止めた。
 「待って、落ち着いて。こいつはフユリさんじゃない。虚霊だ。だから落ち着いて。」
 そう言って彼女に手を差し伸べようとした。でも。
 「……ええ。でも、私にはそれがフユリに見えるのです。」
 その言葉に俺は、返事ができなかった。
 たとえ目の前の人が偽物でも、自分が本物だと認めてしまえば、それは本物になってしまう。
 もし俺が同じ立場に置かれたら、そうなってしまうかもしれない。
 イロハの膝がわずかに揺れる。腕を掴み、爪を立てる。俺は彼女のその行動が、不安によるものだとすぐわかった。でもわかったところで、何をすれば。
 虚霊は足音も立てず、ゆっくり寄り添うようにイロハに近づく。
 俺は剣で斬ってやろうと思った。でもイロハがフユリだと思っている虚霊を斬ったら、彼女はどうはなる?
 虚霊は笑みを零しながらイロハの頬に触れ、耳元で呟いた。
 「知りたいんなら教えてあげる。それに耐えれるのなら。」
 次の瞬間、壊れたバイオリンのような悲鳴が、俺たちのいる空間を包み込んだ。上から重心がかかるように頭が重い。ほとばしる頭の痛みと共にまた映像が流れる。
 それは、未来ではなく過去。しかも俺じゃない。
 多分イロハの、記憶の断片。
 大きな悲鳴が耳に届き、しないはずの炎の匂いが鼻を刺激する。悲鳴と一緒に呻き声も聞こえる。泣き声も。助けを求める声も。その時耳をもっと刺激する爆発音が俺の頭を通り過ぎる。
 そしてその中心に立つ、一人の白髪の少女。
 格好に似合わない、大きな剣をひとつ持ち、呆然と景色を眺めている。ただ、静かに。
でもその足は、何度も踏み出そうとして、結局動かない。
 白髪の少女の腕が、ゆっくりと剣を振り上げた瞬間——。
 「ーー嫌っ!」
 その声がしたと同時に、映像は止まり、我に返る。
 その叫び声を発したのは、イロハだった。
 虚霊の手を弾き、流れる動作で床に落ちた剣を拾う。そして虚霊の首に刃を添える。
 虚霊は剣先を首に当てられても、まるで花を眺めるような笑みを浮かべていた。
 「そう、その顔が見たかったんだよ、イロハ。」
 「私の名前を呼ばないで。あなたはフユリじゃない。何もかも違うわ。」
 その時俺は気づいた。イロハの腕が、小刻みに小さく、しかし確かに震えている。
 それにいつもと口調も違う。いつもは堅苦しい敬語だけれど、今は普通に喋っている。
 もしかするとこれが、イロハの本当の姿?
 俺は剣を握り直し、足音を立てずにゆっくり移動する。今のうちに後ろに回り込んであいつの首を斬る。
 虚霊に気づかれないといいけど……。
 虚霊は相変わらず笑みを崩さずに、イロハを嘲笑う。
 「ふーん、やっぱり耐えられないの。知りたいって言っておきながら、自分にとって害のあるものだと分かったら、すぐ逃げるんだね?イロハは最低だねぇ?」
 虚霊はイロハから視線を外さず、まるで俺の存在なんて最初から見えていないかのように言葉を突きつけてくる。
その嘲笑は耳に刺さり、俺の足を鈍らせた。
 「逃げたのは、あの夜も同じだった。
手を伸ばせば届いたのに……どうして私を見捨てたの?」
 イロハの肩がびくりと震えた。
刃先がわずかにぶれる。
 ――今だ。
 俺は息を殺し、一気に背後から踏み込んだ。
振り下ろす軌跡の先に、虚霊の首筋が見える。
 だが、その瞬間。
虚霊の笑みが、確かに俺の方へと向いた。
 「バレてるから。レンくん。」
 ――は?
 たった一言で、心臓を掴まれたような感覚。
見透かされた。次の一手も、俺の焦りも。まるで自分の頭の中を覗かれているみたいだ。
 悪寒に突き動かされるように剣を横へと構えた瞬間――
 見えない斬撃が奔った。
嵐の牙が空を裂き、皮膚を抉る。頬に走る熱さと赤い飛沫。
 「ぐ……ッ!」
 次の瞬間、壁へ叩きつけられる衝撃。肺の中の空気がすべて押し潰され、視界が白く弾ける。
痛みには慣れてるつもりだった。
でもこれは違う。慣れなんて通用しない。
 声にならない悲鳴が喉を裂き、俺は必死に視線を虚霊へと戻した。
 「バレっバレだよ。レンくん。そんな未熟な作戦と攻撃で、守れるとでも思った?」
 虚霊は意識だけをこちらに向けて語り掛けてくる。
相変わらずイロハは虚霊の首に当てた刃を、動かすことができないようだった。
視界が霞んでよく見えないけど、確かに剣先が震えているのは分かった。
 早く、斬ってくれ。
 心の中で叫びながらも、現実では痛みに負けて声が出ない。
 でも、他人を気にしている場合じゃなかった。
 床からまた、黒い手が生えてくる。俺は剣で切ろうと試みるも、痛みで腕が動かない。
 腕や脚を黒い手に掴まれ、身動きが取れない。
 「離せ……ッ!」
 叫んでも意味は無い。は漆黒の腕が俺の首に伸びる。そして長い指で俺の首に力を加えた。
 首筋にかかる圧迫に、肺の奥が焼けるように痛む。呼吸が途絶え、耳の奥で「キィィン」と金属が軋むような不気味な音が鳴り続ける。
 「さぁ、イロハ。あなたは動けるの?」
 虚霊の声が、水中の中にいるような感覚で耳に届く。
 イロハの顔も声も、何も分からない。それよりも目の前の状況があまりにも危険だ。
 抵抗しようと手脚を動かそうとしても動いてくれない。このままだと縊り殺されてしまう。
 ――もう、終わる。
 目を閉じ、覚悟を決めたその瞬間。
 「レン……!!」
 鋭い声が俺の名を呼んだ。
 同時に、空気を切り裂くような鋭い風音。黒い手を縛る力がふっと緩み、肺に酸素が一気に流れ込む。息をむさぼるように吸い込み、視界を白い光が裂く中で目を開けると、そこにはイロハが立っていた。
 剣からは蒼白い光が溢れ、床に散った黒い手を花びらのように塵へと還す。光が揺らめき、空間に淡い残像を描き、神秘的な光景を作り出していた。
 「鎮魂剣・月煌――散花。」
 静かな声と共に、光の花弁が虚空を漂い、やがて淡く消える。
血に濡れた頬も、震える指も、その一瞬だけは毅然として、まるで戦場の中の女神のようだった。
 「イロハ……」
 俺が呟くと、虚霊の声が闇の奥から響いた。
 「ふーん……レンくんのためなら、動けるんだ。」
 音もなく現れた虚霊は、無邪気な笑みを浮かべ、気配だけで空間を支配してくる。足音も影もなく、ただ黒い闇の中で笑う存在。
 「私たちのときは見捨てたくせに……。レンくんを苦しめたら、こんなにも必死になるんだね。」
 イロハは虚霊を見据え、声を低く震わせた。
 「あなたはフユリじゃない。何も知らないのに、知ったように言わないで。」
 剣先がわずかに虚霊へと伸び、怒りと哀しみ、そして崩れそうな弱さが瞳に滲む。
 虚霊が囁く。
 「……何も知らないのは、イロハじゃないの?」
 空気が張りつめ、次の瞬間――
 イロハの身体が疾風のように前へ。
刹那、彼女の姿はかき消え、気づけば刃は虚霊の首元にあった。
 だが虚霊は笑みを絶やさない。
見えない斬撃が空を走り、嵐が吹き荒れる。壁がきしみ、床が割れ、床に跳ねる破片の衝撃が振動となって背中に伝わる。
イロハの身体が無数の線で刻まれ、頬を裂く熱、肩を貫く痛み、腹部をかすめる冷たい感触。血が赤い花弁のように舞い、床に跳ねる。
 それでもイロハの瞳は虚霊から一度も逸れない。
 腕を血に染めながら剣を振るい、蒼白い光の刃が闇を切り裂く。光の花びらが宙に舞い、空間全体を包み込む。
 黒い闇に包まれた虚霊が、一瞬でイロハを押し潰そうと動く。
彼女の足が後退し、床に着くたびに振動が伝わる。
 その瞬間、俺はやっと身体を動かした。
「イロハ!!」
 踏み込むと同時に、イロハの剣が反射的に虚霊の腕を斬り裂く。視線を交わす間もなく、虚霊とイロハ、そして俺の三者が戦場を支配する。
 イロハが左手で斬撃を放ち、虚霊の首元に光の弧が描かれる。
俺は床から伸びる黒い手を一閃。闇を切り裂き、虚霊の重心を崩す。
 「レン、次は一緒に——」
 イロハが囁き、俺は頷く。
同時に跳躍し、空中で互いの斬撃を連動させ、縦・横・斜めに虚霊を斬り裂く。光の花びらが舞い、黒い闇が切り裂かれるたび、虚霊の形が揺らぐ。
 着地と同時に背中合わせで立ち、再び虚霊が攻撃を仕掛ける瞬間、俺が斜め下から一閃。
虚霊の脚元を崩すと、イロハは上から斬り込む。流れるように連携が続き、二つの光が闇を貫く。
 「これで……終わる!」
 イロハの叫びと共に、二つの刃が虚霊の中心で交差。強烈な光と風圧が辺りを包み、虚霊は呻くように揺れる。
 最後の一閃、俺が右から、イロハが左から。二つの光が一点で重なり、虚霊は光と共に崩れ消えていった。
 虚霊は消滅する前、イロハに尋ねた。
「イロハは、私たちとレンくん、どっちが大切なの?」
 イロハは微かに微笑む。
 「……どちらも大切。でも、守れないのかもしれない。」
 虚霊は何も言わずに、塵となる寸前まで彼女を見つめていた。
 静寂が戦場を覆い、月光が差し込む廃墟に、血まみれの二人が互いを見つめ、荒い呼吸を整えた。
月光を背負ったイロハの白い髪は美しく、血に濡れた腕も光に反射して煌めく。
 「あ、イロハ……怪我、大丈夫か!?」
 俺が慌てると、イロハは呆れたように笑った。
 「大丈夫です。私は治癒能力を持っているので……それより、レンも怪我をしていますよ?」
 ――ああ、よかった。
 安堵した瞬間、全身の力がすぅ、と抜けた。
 手に持っていた剣も、ガラスの破片のような光を纏いながら消えていき、俺は床に顔をくっつけた。
 「……大丈夫ですか?」
 「うん、ちょっとだけ……疲れた。」
 「ちょっとどころじゃない気がするのですが。」
 「……本当は、めっちゃ疲れた。」
 イロハは血に濡れた自分の手で、俺の頭を撫でる。いつもなら冷たいはずの手が、なぜか温かく感じた。
彼女が俺に触れた時、身体を蝕んでいた熱い痛みが、静かに溶けていくのが分かった。
 「……痛く、ない?」
 「言ったでしょう?治癒能力がある、って。」
 「すごいな……まるで魔法……みたいだ。」
 瞼が重くなり、イロハの顔が霞んでいく。けれど、不思議と恐怖はなかった。彼女が隣にいる。それだけで安心できた。
 「少し、休んでください。いつまでも待っています。……あなたと、一緒に戦えたから。」
 その声が最後に聞こえたあと、俺の意識は真っ暗闇にへと移されていった。
 ――静寂。
瓦礫に崩れ落ちた廃墟には、月光だけが降り注いでいる。
 その影の中。
ひとりの少年が、光を避けるように立っていた。
 黒い外套を揺らし、彼は血と硝煙の匂いが充満する空気を一瞥し、唇の端を吊り上げる。
 「……失敗か。予想はしてたけど、あの二人、厄介な存在になってしまったみたいだ。」
 嘲るでもなく、淡々とした声。
だが、その瞳の奥には計り知れない執念が潜んでいた。
 少年は踵を返し、静かに闇へと姿を消す。
 残されたのは、月光に照らされ眠る二人と、深まる謎だけだった。
第八の月夜「ささやかな休息」へ続く。