テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
注意
この物語にはキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
月の祈りの塔――かつて霊と世界を繋ぐ“門”であり、今はただ、忘れられた祈りの残骸。
イロハとレンは、その朽ちかけた塔の入り口に立っていた。
夜の空には月が浮かび、塔の尖塔を白く照らしている。
「……ここに、“次”の虚霊がいるのか?」
レンの問いに、イロハは頷いた。
「“心”に棲む虚霊です。人の記憶や想いを喰らい、自我ごと奪う」
淡々とした口調。だがその声の奥に、微かな硬さがあった。
螺旋階段を上る。
空気は澄んでいるはずなのに、どこか、薄い膜のようなものが感覚を遮っていた。
静かすぎる。
レンが口を開こうとしたとき、イロハの足がぴたりと止まる。
「…今、なにかが」
その言葉の直後。階段の途中、空間が揺らいだ。
白く、冷たい光が塔内に満ち、無数の“鏡”が空中に浮かび上がる。
その一枚一枚に、イロハの『一部』の記憶が映っていた。
あの日、静寂を継いだ瞬間も鏡に映っていた。
「…っ!」
イロハの身体が、足元からふっと宙に引き上げられ、ふわりと浮く。
「イロハ!!」
レンの叫びも届かず、イロハの姿は消える。
闇の底。
どこまでも沈んでいくような感覚。身体の境界が曖昧になっていく。
やがて、白い光が差し込む。
そこは、月見の森。
かつてイロハが母と暮らしていた静かな風景が、ゆるやかに広がっていた。
けれど、音がない。風もない。生命の気配もない。
「イロハ」
背後から声がした。
振り向けば、そこに女王がいた、かつて母と呼んだ――女王の姿をした“幻”。
白銀の髪。慈しむような瞳。だが、微笑んではいなかった。
「どうして……あのとき、皆を助けなかったの?」
イロハはあの時の『一部』の記憶を思い出した。
思い出してしまった。
イロハは目を伏せる。
答えは、知っていた。
だが、言葉にはしない。
できない。
「……こわかったんでしょ」
別の声。フユリだった。
無邪気で、強くて、優しかった彼女。
「私も、みんなも、助けてほしかった。なのに、あなたは見ていただけだった。……イロハのせいで、全部、終わった」
淡々とした口調。それは怒りではなく、ただ事実を告げるような、静かな断罪。
イロハは反論しなかった。
胸が苦しい。
けれど、涙も出ない。
「……私は、静寂を継ぐ者。感情に溺れては、ならないのに……」
かすかな自嘲の声が、空に溶ける。
「ならば、“静寂”に還るのもまた、選択」
冷たい女王の声音。
その刹那、空が音もなくひび割れ、無数の幻が彼女に囁き始める。
――お前には、もう味方などいない。
――選ばれたのではない。見捨てられただけ。
――レンも、やがて消える。残されるのは、お前の’’罪’’だけ。
イロハは、ただ静かに、何かを見つめる。
分かっていた。これは幻だということ、本当の二人はこんなことを言わないということ。
だが、その瞳には、もう光がなかった。
「イロハァァァ!」
現実の塔内。レンは叫びながら空間の“ひずみ”を睨みつけていた。
彼の眼には、イロハの精神世界が映っていた。観測者の力――因果を読む瞳が、彼女の心の座標を捉える。
「見えてるなら……届く。届かせてみせる!」
レンは剣を鞘に収め、目を閉じた。
(観測ではない、共鳴だ。俺は……あいつの…声になれ!)
瞼の裏に、イロハの姿が浮かぶ。
冷たく、静かで、孤独な少女。
「……お前が沈んでるなら、俺が手を伸ばす。何度でも、あの時、助けてもらったみたいに。」
次の瞬間、レンの声が、記憶の迷宮に差し込んだ。
「イロハ――!」
その声に、イロハはゆっくり顔を上げる。
光が――一筋、彼女の中に差し込む。
「……レン?」
幻の母が消えかけ、フユリの影が崩れる。
彼の声は幻ではない。確かな“今”の声だった。
レンは、魂を削るような叫びをもう一度放つ。
「お前の静寂は、ただの眠りじゃねぇ!目ぇ覚ませ、イロハ!」
レンが手を伸ばす。
イロハの中の“氷”が、静かに音を立てて砕けていく。
イロハが、レンの手を取った。
その瞬間、月見の森の幻が崩れ、イロハは現実の世界へと引き戻された。
塔の最上層。
空間の中心に、虚霊が現れていた。
その姿は人型。
だが顔の半分は溶け、口元には歪んだ笑み。影のような身体が、塔の闇と一体化している。
この虚霊は人の過去を喰らってきたため、虚霊の中で唯一言葉が発せられる。
「……戻ってきたか。けれど、お前の心にはまだヒビがある。砕くのは容易い」
声は低く、静かで、優しくさえあった。
イロハは返さない。ただ剣を構える。
「……月煌」
彼女の手の中、白銀の刀が淡く光を帯びる。
レンがその隣に立ち、白閃を逆手に抜く。
「……俺は少し見ちまった。お前の心…弱さも。それでも立ち上がるなら――隣に立つだけだ」
イロハは小さく頷いた。
言葉は少なくても、確かに伝わる。ふたりの間に生まれた、静かな絆。
「ならば、喰らってやる。その心ごと、光ごと」
虚霊が動いた。
空間が軋み、塔の壁が内側から崩れる。無数の腕のような影が地面から這い出し、二人を包もうとする。
「来る。」
イロハがすり足で前へ出る。
一歩、一閃。
月煌が、宙に光の弧を描いた。
だが斬った感触はない。影はすり抜け、背後からまた現れる。
「斬れない……」
「違う! 心を揺らがせば、形を変える……“恐れ”に反応してんだ!」
レンが叫ぶ。
足元から伸びた影が彼を呑み込もうとする。
「なら、恐れないだけ。」
イロハの声は、かすかだった。
だがその剣は、たしかに前を向いていた。
静寂のごとき、凪の一閃。
今度は――影が、切れた。
「“沈黙”を斬った……?」
レンが目を見張る。
イロハは目を伏せたまま答える。
「この剣は……“心の静けさ”の中でしか真価を示さない。私が迷えば、力を失う」
虚霊が唸る。
「ならば、揺らしてやる」
塔が軋む。記憶の断片が空間に散り、再び幻がイロハの周囲を取り巻いた。
「……お母様……」
「フユリ……」
幻が手を伸ばす。
だが、もう届かない。
イロハは剣を構えたまま、ただ静かに言った。
「私は、過去を否定しない。…でも、縛られない」
剣が、鳴いた。
レンも一歩、前へ出る。
「なら、今を刻め!イロハ、いくぞ!」
「ええ」
レンの白閃が影の腕を裂き、空間に白い火花が散った。
「今だ!」
その声に呼応して、イロハが静かに踏み込む。
二人の剣が、交差した。
刹那、塔に真の月光が差し込む。
白銀と白炎――
二つの刃が、虚霊の胸元を貫いた。
「なぜ…恐れない…?」
虚霊の問いに、イロハは短く答えた。
「私には、届く声がある。だから――もう、沈まない」
虚霊は、静かに崩れていった。
その最後の表情に、かすかな微笑が宿ったように見えた。
塔の天井が崩れ、月光がふたりを照らす。
イロハは静かにレンに向き直った。
「……ありがとうございました。あなたの声が、私を覚ましてくれた」
「別に……俺は、ただ叫んだだけだ。怖かったしな」
そう言って肩を竦めるレンに、イロハは――ほんの少しだけ、笑った。
「……次にもし、また心を喰われそうになったら」
「そのときは?」
「ふたりで行きましょ。沈黙の向こう側でも」
レンは頷いた。
そしてふたりは、崩れかけた塔をあとにした。
静寂ではない、“共にある沈黙”という名の、新しい強さを胸に。
七章「ささやかな約束」へ続く