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少女は、幸せだった。
厳しくも優しい父親と、常に笑みを絶やさない母親。そして、いつも助けてくれる自慢の姉に囲まれて、不幸などと感じるはずもない。
しかし、いつまでも続くと信じていた幸福は、ある日を境に次第に削られていく。
――ある日とは、母親が亡くなった日。
父は母を失ったことから、領地をより良く収めることに集中することで逃避し。
姉は趣味だった剣術に没頭して、次第に少女の方を向かなくなった。
父からは優しさが消え、姉は一人で先に進み始めてしまった。
少女の世界から幸せは消え、かわりに自分一人が取り残されたという寂しさが、少女を覆った。
少女は悲しくて、寂しくて、どうしようもなかった。
そしてそれを、父も姉も気づかなかった。
だから、少女は――
「ゆっくり休むといい」
突然聞こえてきたその言葉に、頷いてしまった。
――それが、悲劇の始まり。
あるいは、すべての終わりだった。
そうして少女は今日も、眼を覚ますことなく眠り続ける。
五年間、変わらずずっと、眠り続けている。
「五年……」
アリシアは金色の光が窓越しに差し込むのに気づいたが、大体何が起きているのか予想できたために、無視した。
その代わりに、エリスの眠りについて再び考えを巡らせる。
五年間。眠り続けるにはあまりにも長い時間だった。
夢魔の眠りは、食事を必要とさせなくする。精気を吸いつつ、命を簡単に落とさないように保存するためだ。
だが、それにしても五年は長い。
「おかしいわ……」
アリシアは思わず呻いた。何かが決定的に狂っている。しかし、何が狂っているかが、わからない。
胸に、しこりのような感覚が残る。
「夢魔じゃない……?」
そのしこりはとれないまま――
「あるいは、夢魔だけじゃ……ない?」
――夜明けを迎える。
アリシアが一睡もしなかった一方で、フリッツは深夜にセシウムと別れてしっかりと睡眠をとったために、目覚めはスッキリとしていた。
「おはようございます、会長」
そのため、朝食の席に姿を現したアリシアの様子に気づかずに、はきはきとした挨拶をしたために、アリシアに八つ当たりの視線を返されることになった。
「おはよう。何も掴まずにぐーすか寝ていたみたいね」
その言葉にフリッツは引きつるものの、何とか反論を試みる。
「寝たのは寝ましたが……その前に襲撃を受けました」
ぴくり、とアリシアが反応した。ビットも視線をフリッツへと向ける。
しかし、アリシアは詳しく聞こうとはしなかった。
「朝食の後に、わたしの部屋へ来なさい」
それだけ言うと、視線をそちらへ向ける。
フリッツも、人の気配に当然気づいていた。アリシアを追うように、視線を扉から入ってきたテオドアと、そしてシウムへと向けた。
「おはようございます」
シウムはフリッツたちの視線をものともせず、そう挨拶して優雅に笑みを浮かべた。
視線による、一瞬の交錯。しかしそれはすぐに霧消する。
「おはよう、ございます……」
最後に入ってきたクリスの声が、あまりに弱々しかったために。
フリッツが、驚いて見た少女の顔は、昨日の様子からは想像もできないほど、憔悴しきっていた。
クリスの様子がおかしい、というか尋常ではないことが気にかかってはいたものの、フリッツはアリシアに従い、昨日に続いて主人の部屋へと入った。ビットは先に入室し、アリシアの傍に立っている。
フリッツの後から最後にクリスが入ってくる。
その瞳が力らしい力を持っていないことを確かめて、フリッツは胸中で嘆息した。
一方のアリシアは、クリスの様子に気づいてないはずもないだろうが、それを無視して口を開く。
「それで? どういった襲撃をうけたわけ?」
クリスの事は気になったものの、主の問いかけは当然優先する。
「黒い獅子に襲撃を受けました。四匹です」
その言葉に、わずかにアリシアの眼が見開く。隣でビットも同じような反応を見せていた。
「黒い獅子、ね……聞いたこともないわ」
その言葉に、フリッツは顔をしかめた。
「会長もご存じありませんか。ビットさんは?」
そのまま、ビットに水を向ける。ビットは闇を操る精霊使いであるため、何かを知っているかもしれない、という期待からの質問だったが、ビットは首を横に振った。
「わかりません。しかし、夢魔の能力ではないでしょう」
アリシアも頷く。
「それは同感ね。夢魔は人間社会に最も溶け込んでいる。それはすなわち、彼らの能力について、ある程度分かっていることにもなる。もちろん、他の魔族に比べれば、だけれど。そして今わかっている中で、夢魔にそんなものを生み出す力はない」
「夢魔の特徴は、人間と区別がつかない。夢の中に入り込める。眠りを主とした、精神に作用する魔法が得意、でしたよね」
フリッツが先日聞いたばかりの知識を復唱する。
アリシアが満足そうに頷いて、後を継ぐ。
「そうよ。もちろんわたし達の知らない力を持っている可能性はある。けれど、黒い獅子を生み出す力なんてものは、いくら魔族でも尋常なものじゃないわ」
その言葉に、ビットも頷く。そして三人が、同じ結論へと辿り着く。
「じゃあ……」
「間違いないでしょう」
「この事件には、夢魔の他に、もう一つ何かがいるわ」
部屋に重い沈黙が満ちる。
フリッツはビット、アリシアと苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる二人を見てから、クリスを見た。
相変わらず、瞳に力がない。
「クリ……」
「これが、あなたが何とかしようとしてきた、現実よ」
フリッツの声にかぶせるように、アリシアがクリスに声をかけた。
しかし、厳しいその言葉にも反応はない。
「覚悟もなしに踏み込んで、現実を見て打ちひしがれる。それは、誰にでもあることよ」
アリシアが、ゆっくりとした口調で語りかける。それと共に一歩、また一歩とクリスへと近づいていく。
「けれど――」
アリシアが歩みを止めた。そこは既に、クリスの眼の前。
クリスを見下ろすアリシアの瞳が、すっ、と細くなる。
「けれど、眼を逸らして震えるだけならば、立ち去りなさい!」
朝の静けさをいまだ持つ室内に、アリシアの凛とした声が響く。
それは殴られるよりも大きな衝撃となって、クリスに届いた。
クリスの眼が一瞬大きく見開かれ、それでも少女はすぐに肩を落とす。
「でも、わたしには何も……できません」
それを見つめるアリシアは、軽く鼻で笑い飛ばした。
「妹を見捨てて、逃げればいいのよ」
氷よりも冷たい言葉が、クリスへと放たれる。
「そうして、新しい無為な人生をすごしなさい。妹のことを、綺麗に忘れてね」
余りにも辛辣だった。それにフリッツが割って入ろうとした矢先、クリスはアリシアを睨みつけていた。氷を溶かすための熱すらこもった力が、クリスの瞳に宿る。
「忘れるわけないでしょう!」
今度はアリシアに怒声が叩きつけられる。
「わたしを慕ってくれた、エリスを! どうしても助けたかった! だから、一人で旅にまで出たの! それをどうして! 今更忘れられるっていうのよ!」
それは、クリスの中にずっと溜まっていた想いだった。
外の世界に、フリッツ達の力に、翻弄され、圧倒され――
想像した以上の事態に、無力感に飲み込まれても――
それでも、消えることのない想いがある。
消せない、想いがある。
フリッツは、自分が笑みを浮かべていることを自覚した。
見ると、アリシアも、ビットも同じような笑みを浮かべている。
「だったら、戦うのよ」
アリシアが、くるりと背を向けて、クリスの眼前からもとのソファーへと歩き出す。
背中を向けているその表情は、見えない。
「勝てる保証はない。命を落とすこともありうる。けれど――」
見えないが、フリッツには容易に想像できた。
「逃げてはいけない時がある。クリス、あなたにとって、今がそうでしょう?」
振り返った会長は、フリッツの想像とたがわず、強気で、少し傲慢で、しかし凛とした表情を浮かべていた。
「はい!」
まだ若い、しかし圧倒的なカリスマを持つアリシアを見て、クリスは頷き、思う。
こうなりたい。
なってみたい。
だから、沈んではいられない、と。
フリッツは、クリスの気持ちが正確に理解できた。
それは、フリッツも持っている想いだから。
クリスにもわかったのだろう。二人はわずかに視線と笑みを交わし合った。
「眼と眼で通じ合っているところ、悪いけれど」
そしてそれをアリシアが台無しにする。
二人がわずかに顔を赤くして、さっと視線を逸らす様子に微笑して、アリシアは彼に視線を送る。
最も昔から、アリシアの傍にいる男は、視線を返さない。
返す必要すらないように、ただ短く口を開く。
「はい」
そして、続ける。
「シウムについて、調べました」