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大学の美術棟は、日曜日の夕方ともなれば静まり返っていた。誰もいないアトリエの片隅、キャンバスの前に座ったすちは、長い間、ただ筆を握ったままだった。
白い画布は、まるで自分自身のように感じられる。何も描けない、何も浮かばない。ただ、心のどこかが空洞のように冷たく、空っぽだった。
「……はあ」
深く息を吐きながら、すちは無造作にスケッチブックをめくった。描きかけの風景画、裸婦像、抽象的な色彩の実験――いくつもの過去の作品が現れては、ぱらぱらと指の動きに従って過ぎ去っていく。
そのとき、不意に目に飛び込んできたのは――
あの日の、君の笑顔だった。
「……みこと」
優しくて、どこか抜けてて、天然で、それでいてまっすぐで。
高校のとき、同じクラスだった。机を並べて、くだらないことで笑いあって、放課後にコンビニで買ったアイスを分け合って――
でも、もういない。
「みこと……君に……会いたいな」
それは、ただぽつりと漏れた独り言だった。
だけど、そのとき。
「――呼んだ?」
背後から、懐かしい声が聞こえた。
すちは思わず振り返った。そこに立っていたのは、高校二年のときの姿のままの――
「……みこと?」
まばゆい午後の日差しが差し込むように、そこに彼は立っていた。柔らかく微笑んで、制服姿のまま、あの頃とまったく変わらず。
「ひさしぶり、すち」
すちは立ち上がり、半ば無意識にみことに向かって手を伸ばした。
けれど――
その指先は、彼の体をすり抜けた。
「っ……!」
みことの身体は、ほのかに光を纏ったように透けていて――まるで、夢の中の存在のようだった。
「ごめんね、びっくりさせちゃった?」
みことは困ったように笑った。「会いたくて……来ちゃったんだ」
すちは言葉を失ったまま、ただその場に立ち尽くした。
そうだ。みことはもう、この世にいない。
あの冬の日、病気で静かに息を引き取った。葬式も、最後の別れも、全部――ちゃんと終わったはずだった。
けれど今、目の前にいる。
まるで何事もなかったかのように。
「……幽霊……なの?」
「うん。幽霊、みたい。まだちょっと、よくわかんないけど……でも、すちに会いたくて来たのは、本当だよ」
みことはまっすぐにすちを見つめた。
その透明な瞳が、すちの胸の奥に、深く、深く刺さった。
「……ずっと、会いたかった」
「僕も」
ふたりの間に沈黙が落ちる。でも、それは心地よい沈黙だった。
こうして、すちの平穏だったはずの大学生活は、幽霊になった“君”と、再び始まりを迎えた。