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#契約結婚
草原草原

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草原草原

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肩の上の手に、力が入った。
社長も、一覧表の、その四文字を見ていた。
「……知っている名前か」
「父の」
言いかけて、唇を閉じた。
「……昔の新聞で、見た名前です」
社長は、何も言わなかった。
肩の手は、離れなかった。
*
翌朝、法務局のオンラインの窓口で、登記を取った。
株式会社ミナト設備。設立は、八年前。代表取締役の名前に、見覚えはない。
代表者の住所を地図で引くと、千葉の、田んぼの真ん中の一軒家だった。五億円の工事を請け負う会社の社長が住む家には、見えなかった。
十五年前の新聞に載っていたミナト設備は、事件の翌年に清算されていた。登記の上では、まったく別の会社だ。名前が同じなのは、偶然かもしれない。
本店の所在地を、二つ並べてみるまでは。
港区の、同じ番地。同じビル。同じ、四〇三号室。
十五年前に消えた会社と、八年前に生まれた会社が、同じ部屋に住所を置いている。
「同じ手口だ」
口に出してから、自分の声に驚いた。
十五年前の事件は、終わっていなかった。父が死んで、会社が一つ消えて、何年か経って、同じ部屋から、同じ名前で、また始まっていた。
八年分の発注を、遡った。
三月の工事は、毎年一件ずつ、八件。足すと、五億円を少し超えていた。
その日の午後、社長に報告した。
社長は、二つの登記の写しを執務机に並べて、長いあいだ黙っていた。指先が、同じ四〇三という数字の上で、一度だけ止まった。
「現地を見る」
社長が言ったのは、それだけだった。
*
その雑居ビルは、港区の、高架の脇の細い通りにあった。
五階建ての、灰色のタイルのビル。エレベーターはない。一階には、シャッターを下ろしたままの古い喫茶店。
社長は、運転手を通りの角に待たせて、私と並んで入口に立った。
「社長まで来なくても」
「現地を見るのは、監査の基本だ」
社長は、コートの襟を立てた。
「それに、君を一人でこういう場所に来させる気はない」
入口の内側に、銀色の郵便受けが並んでいた。四〇三の札に、手書きで「ミナト設備」。
口から、チラシが溢れている。
階段を四階まで上がった。
四〇三号室の扉には、表札がなかった。ノックをしても、返事はない。
廊下の窓から身を乗り出すと、隣のベランダ越しに、部屋の中がわずかに見えた。
机も、椅子も、何もない。床に、日焼けした四角い跡が残っているだけだった。
五億円の工事を受けた会社の、本店。
郵便受けだけが、生きていた。
帰りの車の中で、社長は、窓の外を見ていた。
私は、膝の上で、登記の写しを握っていた。
社長は、ミナト設備という名前を、前から知っていましたか。
喉元まで出かかった問いを、私は飲み込んだ。
聞いても、答えの顔は読めない。読めない答えを聞くくらいなら、聞かないほうがよかった。
聞かなければ、少なくとも、嘘をつかれることはない。
そう考えてから、それが、社長がずっと私にしてきたことと同じだと気づいた。
*
写真は、会計士の一人が見つけた。
工事の完了報告書には、必ず現場の写真が添付されている。着工前、足場の設置、施工中、完了。
八件分を、会議室の長机に並べた。
「瀬名さん、これ」
若いほうの会計士が、指をさした。
足場を覆う、青い防音シート。その右下の角が三角に裂けて、白いガムテープで、バツの形に補修されている。
私は、八件の写真を、一枚ずつ見ていった。
同じ裂け目。同じ、バツの形のガムテープ。
八件のうち、五件で。
若いほうの会計士が、うわ、と小さく声を漏らした。
建物は、別々の町の、別々のマンションのはずだった。
足場は、使い回せる。けれど、ガムテープの貼り方までは、同じにならない。
同じ足場を、同じ日に、角度を変えて撮っただけだ。
五件の写真の日付は、五年にわたって、ばらばらだった。写っている空の雲の形だけが、よく似ていた。
*
その日の夕方、江藤部長を会議室に呼んだ。
柏木室長が、写真を一枚ずつ、部長の前に並べていく。
部長は、眼鏡を額に上げて、写真をのぞき込んだ。細い指が、机の端をつかんでいた。
私は、眼鏡を外した。
「江藤部長。この八件の工事は、実際に行われましたか」
「はい」
部長は、顔を上げた。
「工事は、すべて実施済みです」
言い終えた瞬間、部長の瞬きが、止まった。
一秒。二秒。乾いた目を見開いたまま、私を見ていた。
それから、立て続けに、三度、四度、瞬きをした。言い切った、という安堵が、まぶたから漏れ出すように。
――ぶれた。
「今の、嘘です」
部長の喉が、こくりと動いた。
「……私は、工事の完了報告書を、受け取っただけです」
今度は、一本の線だった。
本当のことを言っている。受け取っただけ。誰から受け取ったのかは、言っていない。
柏木室長が、手帳に何かを書いた。
「本日は、ここまでとします。部長には、改めてお話を伺います」
部長が出ていったあと、室長は、写真を一枚ずつ封筒に戻しながら言った。
「受け取っただけ、とは。誰からですか」
「わかりません。部長は、それを言いませんでした」
「言わなかったことは、読めないのですか」
「読めません。私に見えるのは、口に出したことが、本当かどうかだけです」
室長の手が、封筒の上で止まった。
「……便利なようで、不便な目ですね」
皮肉には聞こえなかった。室長は、本当にそう思っている顔をしていた。
*
雑居ビルに、もう一度行ったのは、その夜だった。
郵便受けの中のチラシの間に、何か届いているかもしれない。どうしても、確かめたかった。
社長は、また、ついてきた。
郵便受けには、電気料金の督促状が一通、混ざっていた。宛名は、ミナト設備御中。使われていない部屋の、使われていない電気の請求だった。
写真を撮り、元に戻した。
四階まで上がって、扉の前をもう一度確かめた帰り。
階段の蛍光灯が切れかけていて、点いたり消えたりしていた。
三階の踊り場の手前で、足が、段の縁を踏み外した。
体が、前に傾いた。
腕を、つかまれた。
後ろから強く引かれて、背中が何かにぶつかった。社長の胸だった。
コートの前が開いていて、シャツ越しに、体温が伝わってきた。
「……すみません」
社長は、離さなかった。
片方の腕が、私の腰に回ったまま、階段の途中で止まっていた。
蛍光灯が、ちかちかと鳴った。
「灯」
頭の上で、声がした。
「この件が終わったら、君に話したいことがある」
振り向けなかった。
振り向いても、顔は読めない。
「……何の、話ですか」
「終わったら、だ」
社長は、ようやく腕をほどいて、代わりに私の手を取った。
「足元を見ろ。下まで、離さない」
一段ずつ、二人で降りた。
三階、二階、一階。
社長は、本当に、最後の段まで手を離さなかった。
通りに出ると、角に停めた車のライトが、二人を照らした。運転手が、慌てて目を逸らすのが見えた。
車のドアの前で、社長は私の手を離した。指先だけが、名残惜しそうに、一拍遅れて離れていった。
話したいこと。
それは、私が、この人に話していないことと、同じくらい重いのだろうか。
*
本社に戻ったのは、十時すぎだった。
四十三階の明かりは、もう消えていた。今日の写真のファイルを、柏木室長の机の決裁箱に入れておくことにした。
室長の机は、いつもどおり、定規で測ったように片づいていた。
タブレットの充電器。手帳の替えのリフィル。ペン立て。
その真ん中に、白い封筒が一つ、置かれていた。
差出人の欄は、空白だった。切手も、消印もない。誰かが、この机まで、手で運んできたのだ。
厚みがあった。指一本分くらいの。
宛名だけが、ペンで書かれていた。
社長室長 柏木誠司様 親展
コメント
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第34話、読み終えました。 「同じ手口だ」と口にした瞬間のゾワリとする感じ、すごかったです。十五年前の事件と今が、同じ部屋番号でつながっている――その構造を見つけたときの背筋の冷たさが、地の文からひしひし伝わってきました。 階段で社長が手を離さなかったシーンも印象的です。「話したいこと」の重みと、まだ読めないままの関係性が、車のドアの前で一拍遅れて指が離れる描写にじわりと出ていて……。 そして最後、あの白い封筒。宛名だけの、消印のない親展。これはもう、次を読まずにはいられません。更新、楽しみに待っています。