テラーノベル
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付け爪の先が離れても、胸元には、突かれた感触が残っていた。
「かしこまりました、奥様」
私は頭を下げた。
ドアが閉まり、ローズの香りだけが廊下に取り残された。
この子に何かあったら。
あの人は、もう「何か」が起きる前提で話している。
半地下への階段を下りながら、私はその言い方を、何度も頭の中でなぞった。
*
翌朝から、勝手口の外にムギが来るようになった。
七時ちょうどに、戸が二度叩かれる。
開けると、榊さんがリードを持って立っていて、ムギだけを置いていく。三十分後に、また迎えに来る。
陽翔は、勝手口の上がり框に腰かけて朝ごはんを食べるようになった。
膝にはぴょんた。足元にはムギ。
「ムギ、たまごやき、だめだよ。ぼくのだから」
ムギは、陽翔の膝に鼻先をのせて、じっと待っていた。
陽翔は少しだけ笑って、卵焼きの端を、ほんのひとかけら落とした。
あの子が笑ったのは、おめでたの夜から数えて、三日ぶりだった。
七時半きっかりに、榊さんが迎えに来た。
陽翔は、ムギの首に腕を回したまま、戸口の長身を見上げた。
「おじさん。あしたも、くる?」
「ムギが、来たいと言えば」
「ムギ、くる?」
ムギが、陽翔の頬をなめた。
榊さんは、それを返事として受け取ったらしかった。
「では、明日も七時に」
帰っていく背中に、陽翔は、小さく手を振った。
振り返らない人だと思っていたのに、門の手前で、榊さんは一度だけ片手を上げた。
*
八月五日、水曜日。
麗奈が美容院に出かけた午前中に、私は主寝室の掃除に入った。
麗奈のドレッサーは、入籍のときに運びこまれた白い猫脚のものだった。
鏡の左右に、小さな引き出しが三段ずつ。
右の一番下の引き出しを拭いていて、手が止まった。
浅い。
引き出しの外側の高さに比べて、内側の底が、指の関節一つぶん高い。
家具の寸法は、拭いていれば手が覚える。上の二段とは、深さが違っていた。
中身を出した。
ヘアピンの箱、使いかけの口紅、香水の小瓶。
底板の奥の角を、爪で押した。
板が、かたん、と小さく傾いた。
二重底だった。
下の隙間に、薄い手帳が一冊と、白黒の写真が一枚、平らに寝かされていた。
手帳の表紙に、母子健康手帳、とあった。
保護者の欄に、丸い字で「御影麗奈」。
ページをめくる。
妊娠の届出日。最初の診察の日付。産院の名前と、ピンクの丸いスタンプ。
「ひかりレディースクリニック」
聞いたことのない名前だった。
白樺台の近くの産院なら、陽翔の予防接種の帰りに、全部前を通っている。
写真のほうは、エコーの写真だった。
黒い楕円の中に、小さな白い粒。
上の端が、まっすぐに切り取られていた。
エコー写真なら、本来そこに、病院の名前と、患者の名前と、日付が印字されているはずだった。
名前の部分だけが、ない。
私は手袋を外さずに、スマホで一枚ずつ撮った。
手帳の全ページ。写真の表と裏。引き出しの寸法。
全部を元どおりに戻し、底板を押しこむ。
ヘアピンの箱、口紅、香水。並べ順も、向きも、最初に見たとおりに。
この家では、物の位置が全部、誰かの目印になる。
それを一番よく知っているのは、私だった。
*
その夜、榊さんから短いメッセージが来た。
母子手帳に書かれた産院の住所は、コインパーキングだった。
同じ名前の医療法人は、都内に登録がない。
少しして、もう一行。
エコー写真は、たぶん他人のものだ。名前を切ったのは、それを隠すためだろう。
私は、画面を見つめた。
偽の産院で、偽の手帳を作り、他人のお腹の写真を持っている。
そこまでして、あの人は何を手に入れたいのだろう。
御影の跡継ぎ。
空いた女主人の椅子。
それとも、もっと別のものか。
画面に、最後の一行が届いた。
母子手帳は、本物は市区町村の窓口でしかもらえない。あれも偽物です。……あまり、あの部屋に一人で入らないように。
掃除をするのが仕事です、と打ちかけて、やめた。
わかりました、とだけ返した。
*
翌日の昼、和館の座敷で、お義母さまの着物の衿を付け替えていた。
お義母さまは、縁側の籐椅子に座って、庭を見ていた。
「麗奈さんのお部屋の掃除は、あなたがしているのね」
針を持つ手が、一瞬だけ止まった。
「はい、大奥様」
「何か、変わったことは」
お義母さまは、庭を見たままだった。
扇子が、膝の上でゆっくりと開いて、閉じた。
あの夕食の席で、この人の目が一瞬だけ冷たくなったのを、私は見ている。
跡継ぎね、と言う前の、あの一瞬。
この人も、疑っている。
「何もございません。奥様は、お体を大事にしていらっしゃいます」
凛の声で、そう答えた。
偽の手帳のことを話せば、この人は自分の手で麗奈を追い出すだろう。
けれど、それは私が、この人に麗奈を裁かせることになる。お義母さまの好きなやり方で、お義母さまの家の格のために。
それでは、何も終わらない。
「……そう」
お義母さまは、扇子を閉じた。
「あなたは、何も見ていないのね。いつも」
衿の最後のひと針を、私は丁寧に引き抜いた。
*
八月七日の金曜日、麗奈の母親が訪ねてきた。
花園美津子さん。
門の前でタクシーを降りた人は、大きな花柄のブラウスに、金の鎖のネックレスを二重に巻いていた。娘と同じローズの香水を、娘の倍ほどつけていた。
「あら、あんたが例の家政婦さん? ふうん。顔、大変だったのね」
玄関で私の顔をじろじろと見て、それだけ言った。
麗奈は、母親を二階へ連れていった。
「ママ、こっち。二階のほうが、静かだから」
主寝室ではなかった。
蒼真の書斎の扉が開き、閉まる音がした。蒼真は会社にいる時間だ。お義母さまのいる和館から、一番遠い部屋。
「凛さん、お茶。リフトで上げといて。置いたら、すぐ下がっていいから」
私は紅茶を淹れ、ポットとカップを配膳リフトの箱にのせた。
ロープを手繰って、二階へ上げる。
それから、階段で二階へ上がった。
配膳室は、書斎と壁一枚で隣り合っている。
リフトの扉を開け、盆を取り出す。書斎の扉を叩き、紅茶を置いて、言われたとおりすぐに下がった。
下がった先が、配膳室だった。
盆を拭くふりをして、壁際に立つ。
古い洋館の壁は、思っているよりずっと薄い。
*
「で、どうなのよ。本当のほうは」
美津子さんの声だった。
娘に話しかけているのに、値段を聞くような声だった。
「……まだ」
「まだって、あんた、何か月かけてんの」
カップが、受け皿の上で鳴った。
「手帳まで作ってあげたのに。あれ、いくらかかったと思ってんのよ」
「わかってる。わかってるから」
麗奈の声が、子どものように細くなっていた。
私の前では一度も聞いたことのない声だった。
「早く本当に作りなさいよ。ここで追い出されたら、あんた、また前の店に戻るしかないんだからね」
「戻らない。絶対」
「だったら、しっかりしなさい。男なんてね、子どもができなきゃ、すぐ次に行くのよ。あんたの父親が、そうだったでしょ」
麗奈は、何も言わなかった。
この家に来たとき、麗奈は「この家の奥様は私なの」と言った。
死んだ人じゃなくてね、と。
あれは、宣言ではなかったのかもしれない。
自分に言い聞かせていたのかもしれない。捨てられる側に、二度と戻らないように。
「……でも、もし、できなかったら」
短い沈黙のあと、美津子さんが笑った。
ネックレスの鎖が、しゃら、と鳴った。
「できないなら、あの家政婦を使えばいいの」
私は、盆を拭く手を止めた。
「誰かのせいで流れたことにすればいいのよ。お腹が大きくなる前に。あの顔の女なら、誰も味方しないでしょ」
麗奈は、すぐには答えなかった。
壁の向こうで、付け爪が、カップの縁を叩く音がした。
かち、かち、と、迷うように。
美津子さんの声が、もう一段、低くなった。
「最後は、階段から落ちればいいのよ。流れたことにして、誰かのせいにすればいいでしょ」
コメント
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うわ、この第32話、重いですね……。母子手帳が偽物で、エコー写真も他人のものって、麗奈さんがここまでして妊娠を偽装しようとしているのかと背筋が冷えました。最後の美津子さんの「階段から落ちればいい」発言も、あまりに恐ろしくて。 でも一番ゾクッとしたのは、凛さんが二重底を見つけるシーン。家具の寸法を手で覚えているっていう家政婦ならではの視点、すごくリアルで引き込まれました。それにお義母さまとの会話の「あなたは何も見ていないのね」って台詞、全員が何かを知っていて、でも誰も口にしないこの家の空気感がひしひしと伝わってきます。 榊さんが「あの部屋に一人で入らないように」って警告してくれるのも、凛さんを気遣ってくれてるようで安心できる反面、事態の深刻さを物語っていて怖い。続きがすごく気になる回でした。
草原草原

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都築七美
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赤井 里会
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