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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
壁の向こうで、麗奈は笑わなかった。
「……階段って、どこの」
「この家の、あの大きいのに決まってるでしょ。人が見てる前でやるのよ。見てる人が多いほど、本当になるんだから」
私は、盆を胸に抱えたまま、配膳室を出た。
足音を立てずに廊下を戻り、大階段の上に立った。
吹き抜けの下の玄関ホールまで、二十一段。踊り場の柱時計が、こち、こち、と振り子を揺らしている。
あの時計の裏には、私しか知らない目がある。
二年前に見つけて、一度も確かめたことのない目が。
それがまだ生きているのかどうか、私は知らなかった。
*
八月十三日。お盆の入りだった。
和館の仏間に、精霊棚をしつらえる。
真菰を敷き、胡瓜の馬と茄子の牛を並べ、お義母さまの言いつけどおりに、盆提灯を二つ。
一つは、白い提灯だった。
新盆の家だけが、最初の年に一度だけ灯す白い提灯。
この家で、去年の盆から今年の盆までに死んだ人は、一人しかいない。
位牌が、お義父さまの隣に並んでいた。
まだ黒く光る、新しい位牌。金の字で、私の戒名が書いてあった。
私は、その前に、ミソハギの花を供えた。
自分の新盆の花を、自分の手で。
指先が、少しも震えなかった。
震えなかったことのほうが、怖かった。
「佐伯さん。迎え火のろうそくを」
お義母さまの声に、我に返った。
仏壇の下の小さな引き出しは、左右に二つある。
右には、お義母さまの老眼鏡。左には、ろうそくとマッチの箱。
左を開けて、ろうそくを二本取り出した。
お義母さまは、何も言わなかった。どちらの引き出しかを、私に教えたことは一度もないのに。
精霊棚の端に、もう一つ、古い位牌があった。
御影紗季さん。
陽翔を産んだ人。蒼真の、最初の妻。
その位牌の前にだけ、写真がなかった。
お義父さまの写真はある。私の写真も、密葬のときの遺影が小さく飾られている。紗季さんの写真だけが、この家のどこにもない。
アルバムからも、額からも。
私が嫁いできたときには、もうなかった。
*
夕方、門の前で迎え火を焚いた。
焙烙の上で、苧殻がぱちぱちと燃える。
麗奈は、出てこなかった。
前の奥さんの新盆なんて、お腹の子に障るから。昼のうちに、そう言って主寝室にこもっていた。
蒼真は、迎え火の始まりにだけ顔を出した。
白い提灯を一度見上げ、すぐに腕時計に目を落とした。私が働いて買った、あの時計に。
「母さん、悪い。今夜は会食なんだ。……澪には、よろしく言っといて」
よろしく。
門の外で、堂島の車が待っていた。
テールランプが坂を下りていくのを、私は苧殻の煙の向こうに見送った。
陽翔が、ぴょんたを抱いて、炎の向こうをじっと見ていた。
「おばあちゃま。これ、なにするの」
「亡くなった人が、迷わずおうちに帰ってこられるように、火をつけるのよ」
陽翔は、炎を見たまま、少し考えていた。
「……澪ママも、かえってくる?」
お義母さまの扇子が、止まった。
私は、焙烙の脇にしゃがんだまま、顔を上げなかった。
炎の熱が、首のスカーフの上から、昔の火傷を撫でていった。
「ええ。帰ってくるわ」
お義母さまは、陽翔の頭に手を置いた。
その目が、炎の向こうの私を、一度だけ見た。
*
翌日、温室の前で源さんに会った。
月下美人の大鉢に、源さんが水をやっていた。
葉の先が、八月の熱で少し垂れていた。
「源さん。この花を植えた方は、どんな方でしたか」
聞くつもりはなかった。
新盆の白い提灯の下で、写真のない位牌を見てから、ずっと胸に引っかかっていた。
源さんは、ジョウロを傾けたまま、しばらく黙っていた。
「よう笑う人だった。陽坊が生まれて、半年くらいは」
ジョウロの水が、土に吸いこまれていく。
「そのあとは、あんまり笑わんようになった。眠れん、眠れん、言うてな。昼間も、この温室のベンチで、ぼうっとしとった」
源さんは、ジョウロを置いた。
腰の手拭いで、額の汗を拭った。
「四年前の、秋の晩だ」
私は、息を止めた。
「台風が来るいうんで、わしは夜の十時ごろ、温室の窓を閉めに戻ってきた。そうしたら、洋館の勝手口が開いて、女が一人、出てきた」
「女の方」
「秘書のお嬢さんだ。旦那の会社の」
源さんは、温室のガラス越しに、洋館の裏手を見ていた。
四年前の夜を、そこに見ているような目だった。
「門のほうへ、早足で行ってしもうた。わしは、窓を閉めて帰った」
「……その夜に」
「翌朝、警察が来とった。前の前の奥様が、二階の風呂で亡くなったいうてな」
源さんの声は、低いままだった。
「見つけたのは、夜の十一時半に、書類を届けに来た秘書のお嬢さんだそうだ。新聞にも、そう書いてあった」
十時に、勝手口から出ていった人が。
十一時半に、初めてこの家に来たことになっていた。
「源さん、そのことを、誰かに」
「言うとらん」
源さんは、ジョウロを拾い上げた。
「旦那に言われとる。家のことを外で喋ったら、辞めてもらうってな。……それに、わしが見たのは、出ていくところだけだ」
本当に、それだけだろうか。
源さんは、それ以上何も言わずに、温室を出ていった。
腰の剪定鋏が、一度だけ鳴った。
*
昼の休みに、半地下の部屋で、榊さんにメッセージを打った。
源さんの話を、そのまま。十時の勝手口。十一時半の第一発見者。
返事は、いつもより遅かった。
紗季さんの件は、不眠による事故で処理されている。血液から睡眠導入剤が出たが、本人が処方を受けていたかどうかは、記録上はっきりしない。
もう一行。
源さんのことは、まだ誰にも言わない。名前が出れば、あの人の身が危ない。
私は、画面を胸に伏せた。
眠れない、と紗季さんは言っていたという。
蒼真も、昔、私に言ったことがある。前の妻は不眠で、薬を手放せなかったんだ、と。可哀想なことをした、と。
あの人は、そのとき、少しも可哀想そうな顔をしていなかった。
*
その日の午後、二階の廊下で、陽翔のボールが転がった。
赤いゴムのボールは、廊下の奥へ、奥へと転がっていき、突き当たりの扉の前で止まった。
洋館の浴室の扉だった。
「坊ちゃん、取ってまいりましょうか」
陽翔は、首を振らなかった。
うなずきもしなかった。
廊下の真ん中で、ぴょんたを胸に押しつけて、立ち止まっていた。
足が、それ以上前に出なかった。
「……あのドア、きらい」
小さな声だった。
紗季さんが亡くなったとき、この子は生後八か月だった。
何も覚えているはずがない。誰も、この子にあの部屋の話はしていない。
それでも、この子は、あの扉の前に近づかない。
私は、ボールを拾ってきて、陽翔の手にのせた。
陽翔は、私のエプロンの端を握ったまま、浴室の扉に背を向けた。
廊下の窓から、西日が差していた。
扉の真鍮のノブだけが、鈍く光っていた。
あの浴室は、いつも鍵がかかっている。
掃除もしなくていいわ、と麗奈は言った。私が入る用は、この家に一つもない。
使わない部屋に、なぜ鍵をかけ続けるのだろう。
誰も入れたくないのか。それとも、自分が二度と入りたくないのか。
*
夕方、玄関ホールの飾り棚に、麗奈のキーケースが置き忘れられていた。
ピンクの革の、ブランドのキーケース。
棚の上で、留め具が開いて、鍵が何本か扇のように広がっていた。
拾い上げようとして、指が止まった。
家の鍵。車の鍵。実家のものらしい小さな鍵。
その中に一本だけ、黒ずんだ真鍮の、古い鍵がまじっていた。
頭に、小さく「御」の字が刻まれている。
お義父さまの代に作られた、この家の鍵だった。
蔵の鍵にも、茶室の鍵にも、同じ字がある。
厨房の鍵掛けには、空いたフックが二つある。
一つは蔵。もう一つの下の小さな札に、私が嫁いだ年に自分で書いた字が、まだ残っている。
洋館浴室。
紗季さんが死んだ浴室の合鍵を、麗奈はいまもキーケースにつけている。
コメント
1件
第33話、じわじわと核心に迫ってきて、息が止まるような回でした……。 源さんが目撃した「十時の勝手口」と、公式の「十一時半の第一発見者」。このズレがもう、ぞっとするほど怖いです。そして麗奈さんのキーケースに、紗季さんの浴室の合鍵が混ざっている——この一本の鍵の重みに、心臓がぎゅっとなりました。 陽翔くんが「あのドア、きらい」と小さく言ったシーンも、子供の直感ってこんなにも鋭くて痛いんだな、と。澪さんの新盆の白い提灯と、自分の戒名が書かれた位牌……自分で自分の盆花を手向ける場面、背筋が凍る美しさでした。 次が待ち遠しいです。