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「料理人の目で見たことは、否定いたしません」
炊源は顔を上げた。
「あなたを料理にしたいという欲も、私の中にはありました」
墨兎が遠くの席で、わずかに身じろぎした。だが戻っては来なかった。
「ですが、ただの食材とは思えませんでした」
「では、何だった」
「黄河で見た、最も美しい魚でした」
青鱗の目がわずかに揺れた。
「……美しい」
「はい。命としてです」
炊源の声は低く、まっすぐだった。
「あなたを見て、私は震えました。恐ろしかったのではありません。手が届いてしまったからです」
炊源は、青鱗の髪を見た。銀青の光を帯びた髪。人型を取ってなお、水面の底のように揺れる色。
その色に、ほんの少しだけ目を細める。
「あなたは、美しい銀色でしたから」
青鱗の指が、盆の縁から離れた。
何も言葉が出てこなかった。
美味ではなく。珍味でもなく。献上魚でもなく。
美しい銀色。
その言葉が、思っていたよりも深いところに沈んでいく。沈んだまま、しばらく動かなかった。
配膳口の湯気が、二人のあいだでゆっくりと立ち上っていた。
やがて、青鱗は短く言った。
「皇帝は、食したのだな」
「はい」
「何と言った」
炊源は一瞬だけ迷った。それから、正直に答えた。
「誠に、美味である、と」
青鱗の肩が、わずかに強張った。
美味。
その言葉は、やはり鋭かった。今の自分の胸にも、魚であった頃の奥にも、同じように刺さる。
「ですが、その前に、美しいと仰せでした」
青鱗が目を上げた。
「……皇帝が」
「はい。箸を取る前に、皿を見て、そう仰せでした」
青鱗は、何も言わなかった。
誠に、美味である。
その言葉は知っていた。何度も、何度も、自分の生前の記録に刺さっていた。
だが、その前に別の言葉があったことを、青鱗は知らなかった。
美しい。
魚として。命として。
銀であったものとして。
その言葉が救いになるのかは、まだ分からない。けれど、青鱗の中で、黄河の水底に沈んでいたものが、ほんの少しだけ揺れた。
食堂の騒がしさが、少しずつ戻ってくる。盆を持った者たちが、遠慮がちに別の列へ回り始めていた。誰も二人を急かさない。天灯食堂では、生前に斬った者と斬られた者が同じ卓につくこともある。踏み込むべきではない沈黙を、誰もが多少は知っている。
青鱗は、献立の端へ視線を落とした。
「魚の入らないものを」
「承知いたしました」
炊源は静かに頷いた。
「では、蒲菜と豆腐の澄まし羹を」
「蒲菜」
「水辺に生える香蒲の若いところでございます。香りは薄く、湯を濁しません」
少し離れた席で、墨兎の耳がこちらへ向いた。
「鯉に水辺の草を出すの、気遣いなのか攻めてるのか分からないな」
「墨兎」
「黙る」
墨兎の声に、ほんの少しだけ食堂の空気が緩んだ。
炊源は深く頭を下げ、厨房へ戻った。
青鱗は配膳口のそばに立ったまま、その手を見る。
豆腐を切る。角を潰さず、湯に入れても崩れない大きさに。
蒲菜を洗う。泥の匂いだけを離し、若い茎の淡い香りは残す。強く押せば折れてしまうものを、炊源は水ごと掬うように扱った。
湯は強く煮立てない。香味も立てすぎない。塩は少なく、ただ淡い旨みだけを底に置く。
青鱗は、知らず息を止めていた。
私は、あのように扱われたのか。
その思いは、不意に来た。
嬉しい、とは違う。許した、でもない。
ただ、黄河の泥の上で遠ざかっていった自分の体が、乱暴に放り捨てられたのではないのだと、目の前の手つきが静かに告げていた。
やがて、椀が差し出された。
澄んだ湯の中に、白い豆腐と淡い蒲菜が浮いている。強い香りはない。だが、湯気の奥に、黄河の浅瀬に沈んだ草の匂いがあった。
「熱いので、お気をつけください」
炊源はそう言った。
青鱗は椀を受け取り、匙を入れた。
一口。
薄い。
だが、弱くはなかった。
豆腐の白さが舌の上でほどけ、蒲菜の若い茎が、かすかに水の青さを返す。
その瞬間、青鱗の中で、黄河の浅瀬が開いた。
濁った本流ではない。岸辺の葦が影を落とす、流れの緩い場所。泥は柔らかく、陽は水面で砕け、細い水草が流れに合わせて揺れていた。
銀の鯉だった頃の自分が、そこで水草を食んでいた。
言葉はない。味という名もない。
ただ、やわらかな茎が口の内側を滑り、水の匂いが鰓を通り、腹の奥が静かに満ちていく。
生きていた。
食べられる前に、自分も食べていた。料理になる前に、黄河の水の中で何度も朝を迎えていた。
青鱗は椀を見下ろした。
「……あなたの料理は」
炊源が静かに顔を上げる。
「元のものを、消さないのだな」
炊源は答えなかった。ただ、深く頭を下げた。
青鱗はもう一口、澄まし羹を飲んだ。
まだ許すとは言えない。けれど、この手が自分を扱ったのだと知ることは、思っていたほど苦しいだけではなかった。
「炊源」
「はい」
「私は、まだ許すとは言えない」
「はい」
「だが、聞いた。見た。食べた」
炊源は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「また礼を言う」
「はい」
「変な男だ」
「よく言われました」
「生前からか」
「はい」
墨兎が遠くで小さく笑った。
青鱗は椀を持ち、席へ向かった。
数歩進んでから、ふと足を止める。
「炊源」
「はい」
「皇帝は、ここにいるのか」
炊源の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚きではない。恐れでもない。いつか聞かれると、ずっと分かっていた者の顔だった。
「……おります」
「あなたより、先に死んだのか。後か」
「先にございます。私が、長く生きましたので」
青鱗の指が、椀の縁に触れた。
美しい、と言った男。
その言葉だけを胸に、自分はずっと何かを探していたのかもしれない。許しではなく、もっと手前にある何かを。
澄まし羹の湯気が、銀青の髪を淡く濡らす。
「そうか」
それだけ言って、青鱗は墨兎の待つ席へ歩いた。
背後で、炊源がもう一度、深く頭を下げた気配がした。
青鱗は振り返らなかった。まだ、振り返れなかった。
ただ、手の中の椀は温かかった。
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コメント
1件
まあ…この第7話、めちゃくちゃ良かったです。特に「美しい銀色」という言葉が、料理としての価値でも珍味としての価値でもなく、ただ「命としての美しさ」を炊源が伝えたところ、心に響きました。青鱗が黄河の浅瀬で水草を食んでいた記憶を思い出すシーンも、料理が元のものを消さないというテーマが静かに効いていて…。許すとは言えないけれど、食べた、という距離感の描き方も繊細で、本当に好きな話でした。