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天灯食堂の昼は、今日も少しだけ騒がしかった。
青鱗は墨兎の向かいに座り、蒲菜と豆腐の澄まし羹へ匙を入れていた。前に食べたものと同じではないが、炊源の手は変わらない。湯は澄みすぎず、濁りすぎず、蒲菜の淡い青さを隠していない。
墨兎は草団子をかじりながら、青鱗の椀をちらりと見た。
「それ、気に入ったのか」
「悪くない」
「おまえの“悪くない”は、かなり気に入ってる時の言い方だな」
「勝手に読むな」
墨兎が耳を揺らして笑った時、厨房の奥で何かが止まった。
包丁の音ではない。鍋の音でもない。
人の気配だった。
青鱗が顔を上げるより先に、墨兎の耳が立った。
配膳口の向こうで、炊源が一人の男を見ていた。
男は、静かに食堂へ入ってきた。衣は華美ではない。だが、歩き方が違った。自分のために道が開くことを当然としている者の歩き方ではない。道が開いた後、その重さを知っている者の歩き方だった。
天灯食堂にいる者の何人かが、軽く頭を下げた。
墨兎が小さく呟く。
「……あれ、陛下か」
青鱗は匙を止めた。
「陛下」
「おまえを食べた方」
「言い方」
「だいぶ抑えた」
「事実でも、今言うことか」
「悪い」
墨兎は即座に耳を伏せた。
青鱗は男を見た。
清帝もまた、青鱗を見ていた。
最初に動いたのは、炊源だった。
配膳口の向こうで、炊源の手が止まる。椀を取ろうとしていた指先が、宙で硬くなった。次の瞬間、顔から血の気が引いていく。
炊源はかつて、御膳房の床に額をつけたことがある。誓いを口にした時も、名を呼ばれた時も。だが、生前のどの瞬間より、今のこの数秒が重かった。
目の前にいるのは、もう自分が頭を下げるべき帝ではない。
だが、今この食堂にいる青鱗にとって、清帝はまだ、自分を終わらせた者そのものだった。
炊源は、椀を持つ手をそっと卓へ置いた。
いつでも前へ出られるように。
墨兎はそれを見て、草団子をそっと皿へ戻した。
「……まずいやつか」
誰にともなく呟いた声は、青鱗の耳にも届いた。
清帝は、まだ何も言わない。
ただ、青鱗を見ていた。
銀青の髪。水面の底に沈んだ月のような光。濁りの中でも消えなかった、あの色。
清帝の目が、ほんのわずかに細くなる。
青鱗は、椀の縁に指を添えた。
食堂の音が、遠くなっていく。
盆の触れ合う音。湯の立つ音。誰かの低い笑い声。それらが、一枚ずつ薄い布の向こうへ退いていくようだった。
清帝が、一歩近づいた。
炊源の肩が、目に見えて強張る。
「陛下」
炊源が低く呼んだ。
制止ではない。だが、願いに近い声だった。
清帝は足を止めなかった。
帝という身が、誰かの願いひとつで足を止めることに慣れていない。それは傲慢ではなく、長く積まれてきた在り方だった。
青鱗の前まで来て、しばらく黙っていた。
その顔に、悪意はなかった。嘲りもない。珍しいものを見つけた軽さもない。
むしろそれは、長く胸の底に残っていた一膳を、思いがけず別の形で見つけてしまった者の顔だった。
白磁の皿。薄琥珀の餡。反った尾。箸を入れた時の、身のほどけ方。
清帝の中で、記憶が静かに重なっていく。
「……あの銀鯉か」
青鱗の指が、椀の縁を押した。
「あなたが」
青鱗は言った。
「私を食した皇帝か」
清帝は、青鱗を見つめたまま頷いた。
「そうだ」
その声は穏やかだった。
穏やかであることが、むしろ危うかった。
清帝は、あの日の御膳を粗末には覚えていなかった。忘れてもいなかった。だからこそ、目の前の青鱗へ向ける言葉が、記憶からまっすぐ引き出されてしまった。
炊源が息を呑む。
墨兎が椅子から半分立ち上がる。
清帝は、深い感慨を込めて言った。
「そなたは、誠に美味であった」
コメント
1件
いや、ラストの「誠に美味であった」で椅子から転げ落ちそうになったわ……。清帝が悪意とか嘲りじゃなく、「あの日の一膳を思い出した者の顔」で来るのがめちゃくちゃ重くて良い。青鱗の「私を食した皇帝か」も、炊源が強張るのも、全部が静かに刺さる。これ、陛下が食堂に通う展開になるのか? それとも青鱗の復讐が動くのか? 続きが気になって仕方ない🔥