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紫香楽
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
鳳凰館の廊下を渡る風は、春の陽光を孕んでいるはずなのに
冬の残り香を刺すように冷たく、私の剥き出しの首筋を執拗に撫でていく。
いつものように、煌様がいらっしゃる一号室の前で立ち止まり
乱れそうになる呼吸を整えるために深く、深く息を吸い込んだ。
昨日、同僚たちに無視されてしまった悲しみを、つい、あの方に零してしまった。
「そうか」と短く頷いてくださったあのときの
どこか重苦しい沈黙が、今になって胸をざわつかせる。
けれど、あの方の存在だけが、荒波に揉まれる私の唯一の杖であり、救いだった。
「失礼いたします、煌様。……お食事をお持ちしました」
努めて明るく、いつものように声を出し、重厚な襖を横に滑らせる。
そこにはいつも通り、一分の隙もなく背筋を正して座る煌様の、漆黒の軍服姿があった。
けれど、部屋に一歩足を踏み入れた瞬間
私は金縛りに遭ったような錯覚に陥り、身体が強張るのを感じた。
────空気が、違う。
昨日までの、私を包み込んでくれていたあの微熱のような温かさが、嘘のように消え去っている。
部屋の中は、まるで真冬の朝の平原のように、研ぎ澄まされ、突き放すような冷気に支配されていた。
「……あ、あの、今日は脂の乗った良いお魚が入ったので。…煌様がお好きだと言ってくださった味付けに、腕によりをかけて……」
「ありがとう。そこに置いておいてくれ」
私の言葉を最後まで聞くことなく、遮るように響いたのは事務的で、どこか無機質な低い声だった。
心臓がドクリと、嫌な音を立てて跳ねる。
煌様は手元の書類に目を落としたまま、一度も
ただの一度も私の方を見ようとはしなかった。
いつもなら、私が部屋に入ると真っ先に目を細め
「今日も良い香りだ。君の料理を待っていた」と、蕩けるような声音で声をかけてくださるのに。
「煌、様……?」
お膳を畳の上に置く手が、微かに震える。
わざと、自分でも驚くほど大きな音を立てて置いてみたけれど、彼は眉一つ動かさない。
あんなに優しかった、あの漆黒の瞳。
食料庫の暗闇で私をじっと見つめ、顎に触れてくれたあの熱い指先。
軍服のボタンを直した時、目の前にあったあの逞しい胸の鼓動。
それらがすべて、一晩の間に見ていた淡い幻に変わってしまったかのようだった。
「……何か、用か? 用がないのなら、すぐに戻っていい。仕事が立て込んでいる」
冷たい。あまりにも。
その一言は、かつて軍刀で髪を無惨に切り落とされた時の
あの鼓膜にこびりつく金属音にも似て、私の胸を鋭く、深く切り裂いた。
慌てて煌様の視線を追いかけようと、跪いたまま顔を覗き込もうとしたけれど
彼は頑なに目を合わせようとはしなかった。
ただ、その横顔は冷徹な彫刻のように美しく
そして無機質で、私が入り込む隙間など一分も残されていない。
「す、すみません……。…失礼いたしました」
震える声でそれだけを告げ、逃げるように部屋を出て、襖を閉める。
パチン、と閉まったその音さえも、私を拒絶しているようで堪えられなかった。
膝の力がふっと抜け、私は廊下の隅で、冷たい床にへたり込んでしまった。
(どうして…?私、何か失礼なことをしてしまったの?…それとも、本当にお仕事でお忙しいだけ……?)
頭の中が真っ白になり、整理のつかない思考が渦を巻く。
昨日の、あの惨めな相談がいけなかったのだろうか。
あんな卑屈な弱音を吐いて、高潔なあの方を困らせ
幻滅させてしまったから?
それとも、やはり私のような身分の低い女が
煌様の隣を歩いたり、肌着姿に近い距離で軍服を直したりしたことが
あまりにおこがましい無礼であると、お気づきになったのだろうか。
パニックに陥った私の脳裏に、今日一日
ずっと浴びせられ続けた同僚たちの嘲笑が、鮮明な色を持って蘇る。
「煌様に媚を売って」
「泥棒猫」
「誑かしている」
やはり、そうなのだ。
煌様は、私のような汚れた過去を持つ女に深く関わるべきではないと
周囲の噂を聞いてようやく目が覚めたに違いない。
あの方の冷たさは、私への、決定的な「拒絶」の証なのだ。
昨日まであんなに温かかった私の世界が、音を立ててガラガラと崩れ落ちていく。
私は、震える自分の肩を必死に抱きしめることしかできなかった。
一度味を占めてしまった幸福の分だけ
今、剥き出しの心に突きつけられた「現実」の冷たさは
氷の刃となって私を貫き、深く、癒えない傷を刻んでいた。